勝ち組は自己中心的?

 「大学入学偏差値と人の良さは、ある値(真ん中あたり)から反比例する」と感じ、「これは冗談半分の仮説だけれど」と言いながら人前で話したことがある。「人の良さ」というのは曖昧なので、利己主義的傾向(愛他的傾向の逆)と言い換えてもいい。
受験勉強している時、友だちから遊びの誘いがあった時、せっかく誘ってくれたのだからと受験勉強はやめて友だちの誘いにのる「心やさしき」若者は、勉強時間の不足で偏差値の高い大学には入れない。そこは、冷たく断る利己的傾向をもつものだけが、高偏差値の大学に入れるののである。
もう少しゆるやかに言えば、受験勉強は個人でやるものであり、個人主義的傾向が強いものが有利であり、個人より集団(友だちも入る)が好きなものは、受験競争の勝者にはなれない。
 このように昔から感じていたが、同じようなことは、今日の新聞に掲載されていた。つまり、今日(2月28日)の朝日新聞の朝刊に「『勝ち組』はルールを守らず自己中心的」という題で、アメリカとカナダの調査研究の結果が出ていた。
「企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に優位に多かった」「赤信号を無視したりする車は、高級車ほど多い傾向も公道の観察から浮かんだ」と書かれている。
もちろん、この反対の事例も思い浮かぶ。今日も家の近くの公園で見かけた不良ぽい高校生は、煙草を吸い、周囲にごみを散らかして屯っており(注意したかったが、軟弱な私一人では、太刀打ちできないーこれも一種の利己主義)、偏差値は高くなさそうだが、人がよさそうとは思えない。チケット代が高いクラシックの音楽会の聴衆は、お金持ちだが、上品で、人が悪いとは思えないなど。
日本でも、偏差値や社会的地位や収入と人の良さ(愛他的傾向)との関係を、実証的に調べたくなった。
 さしあたり、自動車の車種(高級度=値段)と運転のマナーの関係でも調べてみようか(ベンツやBMWとカローラやサニー(そんな車種は今あるのか?)に乗っている人で、信号無視はどちらが多いのかなど)。その他、グリーン車に乗っている人と普通者に乗っている人のマナー(携帯電話で話している人の率は?)は、 バスや電車に乗っている人とタクシーに乗っている人のマナーは?など。(これでは貧乏性調査になってしまう?)

昔懐かしい曲(2)

宇崎竜童の率いるダウンタウンブキウギバンドをはじめて聞いたのは院生の頃、船橋の人工海浜で、売れないバンドが演奏していた時である。聴衆は数人だったと思う。上手なバンドだと思い、翌日も聴きに行ったように思う。その後「スモーキング ブギ」が流行り、バンドは有名になり、渋谷の「ジャンジャン」で一度聴いた以外、生で聴けることはなくなった。LPを何枚か買い、部屋でひとり聴いていたと思う。
今聴くと、院生時代の先の見えない、暗い憂鬱な気分を、懐かしく(?)思い出す。
その頃、柳ジョージとレーニーウッドもよく聴いた。

涙のシークレット
http://www.youtube.com/watch?v=gRBl0GOQHjg&feature=endscreen&NR=1

雨に泣いている
http://www.youtube.com/watch?v=r2Gnavsi2Ag&feature=related

昔懐かしい曲

今日、ユーチューブで、聴いた3曲 

1 井上揚水 with ジェイク・シマブクロ  心もよう

2 宇崎竜童 知らず知らずのうちに
http://www.youtube.com/watch?v=VIgNVeHcxmk

3 吉田拓郎 せんこう花火をください
  http://www.youtube.com/watch?v=UbAQjRErD0I&feature=related

老いについて(続)

老いについて、3つを追加しておきたい。

昨日は、あるプロジェクとで、青年社会学の浅野智彦さん(東京学芸大)や青年心理学の溝上慎一さん(京都大学)らとご一緒する機会があった。今一番旬の研究者と一緒だとそれだけで若返る。これから一緒に大学生に関するデータを分析し、今年の11月5日(月)に、東京で、大学生に関する公開のシンポジウムを開くことになり、楽しみ。

藤原新也は、老いの中の子どもらしさに関して、次のように書いている。

「石牟礼道子さんは、深刻な話をしながら、不意にふっと抜けたように笑う。それは「椿の記の海」のあの遠い童女の笑い。 私は机を挟んでその笑いに誘われ、意味もなく笑い合っている。 そうすると私は少年の自分を、ふと思い出した。その時、老いてなおその中で眠る子供こそが、生き続ける逞しさであり、支えであるということがはっきりとわかった」(shinya talk,2.26より引用)

水沼文平さん(中央教育研究所)より、次のようなコメントをいただいた。

武内先生の「歳を取るということ」には今年前期高齢者の仲間入りをした私も考え込んでしまいました。
「耄碌」の意味を辞典で調べてみますと、広辞苑には「耄碌」とは“おいぼれること”、漢字源には「耄」とは“年老いた人”“老いぼれる”、「碌」とは“ぽろぽろ割れてできた小石”とあります。
「ぽろぽろと割れてできた小石」とは言い得て妙ですね。
2011年の日本人の平均寿命は女性が86歳、男性が80歳、世界の平均寿命は、男性が66歳、女性が71歳とありますから日本は世界有数の長寿国のようです。
私がこどもの頃「人生50年」という言葉をよく聞きました。
実際私は母方の祖父の死に際に会っただけで残りの祖父母は私が生まれる前に亡くなりました。
さて、多くの老人が呆けてしまうと、我儘になったり、奇妙な行動を取ったり、徘徊したりと、とかく問題を起こしがちです。
面倒をみる家族の苦労も並大抵ではありません。
仏教では「生老病死」を四苦と言っていますが、私はこれに「耄」を加え「生老耄病死」としたいと思います。
「耄」は人として生まれた以上は避けられないものであり、自分は年老いて必ず呆けて人に迷惑をかけるという認識を持つ必要があります。
そこで呆け予備軍の世代に提案したいことは、今のうちから遺言を認めておくということです。
呆けたら本来の自分を失うことですから、私の遺言は「ぼけたら面倒などみないで施設に送りこむなり、道端に捨てるなりしてください」という内容にしたいと思っています
世迷言になりますが、国歌にある「さざれ石」はもともと小さな石の意味ですが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指すそうです。
“ぽろぽろ割れてできた小石”になってしまい捨てられた老人たちが何かの触媒を用いて大きな岩に変化し、第三の人生を生きたり、世直し運動を展開したりするのはいかがでしょうか。

歳を取るというということ

 人は歳とともに賢くなるのではなく、頑固になったり、ボケたりする。これは人ごとではなく、気をつけなければいけない。
あの吉本隆明が「耄碌した」というのは本当なのであろうか? 私は昔の吉本隆明の著作しか読んでいなくて、週刊新潮の記事も読んでいないので、真偽はわからない。(たとえ、耄碌して訳のわからないことを言ったとしても、過去の栄光は消えないと思うが、)
 
  Shinya Talk 2月25日より転載 
<(財界を中心に政治マスコミなどへの、原子力村の巻き返し台風がものすごい勢い) そんな中、ここに来て、マスコミの姿勢にもはっきりと色分けが出てきているようだ。
特に週刊文春と週刊新潮の原発に対するスタンスが極めてはっきりとしてきている。
かつて原発広告の出稿料に関しては雑誌ソトコトに次いで2番目を誇っていた週刊新潮はすでに耄碌状態にある吉本隆明の原発推進コメントを鬼の首を取ったように記載するなど、いまだに物欲しげに何かにつけ原発推進茶坊主的な記事をことあるごとに書いているが、今週号の週刊文春ではマスコミの間ではタブーとなっている原発放射能による幼児の疾病発覚(甲状腺がん)をトップ記事で報道している。>
(藤原新也CATWALKより)