年寄りの元気の源は?

80歳を超えておられると思われる東大名誉教授の水野 丈夫先生は、今でも被災地の小学校で授業を行い、子ども達がその内容に感激しているという。先生は最近白内障の手術を行いよく目が見えるようになったので、いろいろ本を読み、語学の勉強もはじめられたとのこと。
元同僚の加藤幸次先生(上智大学名誉教授)のお宅に電話をしたら、今韓国と中国を旅行中とのこと。
このような歳とってからの元気の源はどこから出てくるのだろうか?

写真家の藤原新也もやけに(?)元気。その源を次のように書いている。

<私は現在68歳だが、早熟な私は8歳の頃から人生を考えはじめ(いずれ自叙伝で書くことになるが)60年間考え続けているのだが、いまだに人生というものがわからないのである。というより昨今歳を重ねるごとに妙に元気が復活し、また元気になるごとに人生のさまざまな新しいことが降りかかり、未解決の問題が増える一方だ。それは生きる糧を与えられているということに他ならない。
ただそういう混乱の過程渦中の中で目の前に立ち現われたものに真摯に向かい合い、あきらめることなく考え続けることこそ、頭というものを持った人間の役割だと思っている >
(藤原新也 CATWALK,3月27日より転載)

坂本昂先生のご冥福をお祈りする

東京工業大学名誉教授の坂本昂先生が、3月22日にご逝去されたというお知らせをいただいた。ご冥福をお祈りする。
今から40年近く前、私は院生の頃、東工大の坂本先生の研究室に通い、学校の授業をビデオに記録し分析する工学的手法を学び、先生が機械(アナライザー)を駆使しての大学での名講義に出させていただいた。その時、先生の秘書の聖心女子大出身の女性がとてもきれいで上品で驚いた。このような上品な先生や雰囲気は私の専攻する教育社会学の分野には皆無だったので、そのギャップに戸惑った。(「教育社会学の分野は、下の階層から成りあがろうとするものが幅を利かせている」-これは私の偏見?)
その後、お会いしたのは、先生が大学入試センターの副所長をされていた時で、センター内の研究会での我々の研究発表を聞いていただき、的確なコメントをいただいた。
 ここ数年は、中央教育研究所の理事会・評議員会で、年に1~2度お会いすることがあり、お体を少し壊されているようではあったが、お元気な姿や発言をお聞きし、歳をとってからも、このように、意欲的に努力することが必要と、感心させられていた。急なご逝去であった。心よりご冥福をお祈りする。

大学のゼミの適正規模

教育の研究では、よく学級規模や学校規模の研究がある。
私も昔、「高等学校の適正規模の研究」という共同研究に参加したことがある。それはちょうど第2次ベビーブームの高校増設の時で、どのくらいの規模の高校を作ればいいのかが緊急の課題だった時代である。標準は1学年6学級くらいだったと思うが、1学年10学級や12学級の学校を作った方が経済的効率はよく、その場合、教員同士の関係や教育効果は大丈夫なのかを調べた。
結果は一律には言えず、指導法の確立している伝統校は大規模しても大丈夫だが、新設校で大規模校を作ると、教員の意思統一が図りにくく、新設校の偏差値の低さもあり、教育指導、生活指導に困難をきたすということがわかった。
学級規模に関しては、小さいほどいいと考えられているが、僻地などの学校様子でわかるように、あまりに学級人数が少ないと、子ども同士の交流も限られ、いいとは言えない。
私は、小学校では50人、中学校では60人弱、高校50人くらいの人数だったが、学級はそのようなものだと思っていたので、多すぎて困ったという記憶はない。先生との距離もちょうどよかったように思う。
大学のゼミ(演習)は、何人くらいが適正なのであろうか。少人数教育を特色にしている敬愛大学で今問題になっている。
これは、学生の特質にもよるように思われる。多様な留学生いる場合、個別指導が必要になるので、なるべく少人数の方がいいようだ。ただ、かなり同質の学生が集まっている場合、少人数である必要があるかどうか疑問だ。
学生の視点からも考える必要がある。ゼミの人数により、教員と学生との距離に関して違いが出てくるし、それ以上に学生同士の関係に違いがあるように思う。
私の経験では、自分の学部の専攻の同学年は私も含めて6人(男5人、女1人)で、この6人で多くの授業を受け、調査実習の作業などもすることが多かった。私にとって、これは人数が少なすぎて苦痛であった。その時入っていたサークルの同期は30名いて、こちらの方が気楽に交友できる人数であった。
 私が最初に勤めた武蔵大学では、「ゼミの武蔵」と言われ、1年から4年までゼミがあり、私のゼミは「青年期の社会学」などの気楽なテーマだったせいか人数が多く、いつも各学年20人は超えていた。(4学年で、80人くらいのコンパをやったこともある。夏の自由参加のゼミ合宿も40人以上参加が普通であった)
次に勤めた上智大学教育学科では、3年からゼミがあったが、3年次は2つのゼミが必修だったので、20人以上のゼミが普通だった。(2年くらいからゼミがあってもいいと思ったが、学生からは「そんなに永く教員と関わりたくない。2年間で充分」と言われた)20人を超えると、教員と学生との距離は遠く、気楽な関係だったと思う。合宿やコンパをよくやり、望む学生との距離は近くなることはあったが、それは強制ではなく、これが教員にとっても学生にとっても、心地よい距離だったと思う。(ただ、研究室の大学院生は数人で、親密だったと思う)
 今の敬愛大学では、少人数をうたっていることもあり、1年からゼミがあり、そのゼミ人数を10人以下にしようとしている。私のようなものには、少し息苦しい。学生が息苦しさを感じていないのであればいいが。

ヒロシマからフクシマへ

原発に関する表立った反対行動より、原発に関する社会学的考察の方が、
人々を脱原発に駆り立てる役割を果たす場合もあると思うことがある。すぐれた社会学的考察を目にした。

「ヒロシマでもっと苦しんだはずの市民が、いかにして「原子なるもの」を受け入れてしまったのか。その答えは、意味転換にある」「意味転換の前にもいくつかの操作がわれわれは行っている。第1に意味漂泊である」「それはヒロシマという負の歴史から、ヌ―クリアのみを脱文脈化することであった。第2に、相反する意味の連結の正当化である。」「ヌ―クリアに対する積極的な正の意味付与である。個人の幸福の根源、日本社会の戦後復興に必要なエネルギーの無尽蔵の供給源として、未来の明るい日本社会を支えるものとして、ヌ―クリアは新しく生まれ変わることになる」

野宮大志郎氏(上智大学外国学部)の「『ヒロシマ』から『フクシマ』への道―ヌ―クリア(原子なるもの)の意味転換」(「ソフィア」236号、2012.2、p420-436)には、ヒロシマで核の恐怖を持った日本国民が、原子力発電でもたらされる「豊かな社会」を無意識に享受するようになったメカニズムが鮮やかに分析されている。
そこには、戦後日本の原子力エネルギー政策、国際政治、マスコミの力の他、
知識人の果たした役割も描かれている。たとえば、「大江健三郎は、科学者として東海村原子力発電所で働く夫妻を取材し、その活躍と彼らの明るい未来を示唆する」(「毎日グラフ」1961年9月3日号)など。

「わたくしにとっての上智大学」

上智大学で同僚だった香川正弘先生は、最新の「ソフィア」(236号)に、「私にとっての上智大学」というエッセイを寄せている。なかなか含蓄のある内容であった。印象に残った3点を抜きだし、コメントを付して置く。
1 (上智大学で)「授業をすることによって、教える側が視野を拡大し成長もできたのは、学生に基礎学力があり、学ぶ心ができたいたことと、全学的な教育体制が学生を成長させているからであると思う」と書かれている部分には、共感した。
ただし、上智に学生を成長させる全学的な教育体制が意図的に作られていたかどうかは疑問。優秀な学生が集まり、学生を成長させる雰囲気(文化)があったことは確か。
2「ある時、官庁の人から、審議会や委員会では、東大、早慶上智は委員長にしていいことになっていると説明をされたことがある」とある。
同じようなことを私も聞いたことがある。これは過去の上智の教員の実績によることなのか、その理由を知りたいと思った。ただ、このような暗黙の取り決めがあるとすると、上記四大学以外に失礼だし、人的ロスもかなりあるのではないかと思った。
 3 「もっぱら大学開放の観点からののみの発言であった。しかし、それもたいてい受け入れられないので、三つの職場とも学内では黙っているという状況で終わってしまった」 
これは、香川教授が一番無念であったことのように思う。なぜ、香川教授の大学開放の理論が、「コミュニティカレッジ」の伝統のある上智大学でも生かされなかったのか、今後考えてみたい。