カエルの合唱の意味するもの

藤原新也はカエルの合唱について、最近次のように書いている。

今日はカエルの話をしてみよう。
インドの瞑想図にサートチャクラ(サートとは7つの意味。チャクラとは体の中にある瞑想に至る経絡上にあるツボ)というものがあり、私はこのサートチャクラの17世紀のものを持っている(いずれ公開する)のだが図の一番下にはファーストエッグという生命創世の球体があり、その上にカエルが乗っている。
カエルとは水から地上に両生するということで生命の源の動物とされるわけだ。 そういう意味ではその姿に似合わず神秘的な動物なのである。(中略)私はこの動物をリスペクトしている。というのはこの動物は集団で音楽を奏でるからだ。
海の波の音を聞き分けるように注意深く、カエルの合唱を聞くと、あるカエルの集団と別の集団は別々の音のウエーブを持っており、それが交互にハーモナイズするように音の波を描くのである。 その音のウエーブが聞こえ始めたらしめたもので(なかなかそのウエーブを感知するのは難しい、ある種の瞑想状態に入るとはっきりと聞こえる)脳内にアルファー波が生じるかのような快感がある。
このカエルのハーモニーを捉えた音楽がバリ島のケチャという合唱で、そこに指揮者がいないにも関わらず、おそろしく微妙なリズムや、その間に一瞬入る無音状態などを集団で奏でる。それは田んぼで鳴くカエルの合唱そのものだ。ケチャがカエルの合唱をルーツとするというのは私がバリ島で聞いたカエルの合唱とケチャがあまりにもよく符号しているということから想像した私独自の分析なのだが、さらにこの日本のことに言及するなら、お寺で奏でられるモクギョもあれはカエルの鳴き声を模したものと私は思っている。
モクギョは木の魚と書くが、その魚とはカエルのことだと思っているのである。というのはあのモクギョの形は魚の形ではなく、あきらかに大きな口をしたカエルが座った時の形だからだ。ポクポクポクポクというあのモクギョの音を聞きつづけると、ちょうどカエルの合唱のウエーブを感知したときのような瞑想感がある。
ということはバリのケチャという芸能も、仏教における音も、もとはと言えば自然というものに源を持っていると思うのである。
みなさん、今度法事のときなど坊さんのお経よりその木魚の音に耳を澄ませてみるといい。きっとカエルがそこにいてゲロゲロと鳴いているのに気づくはず。(藤原新也 catwalk,4月11日より転載)

上記の「なかなかそのウエーブを感知するのは難しい、ある種の瞑想状態に入るとはっきりと聞こえる)脳内にアルファー波が生じるかのような快感がある」という個所が興味ぶかかった。
3D絵本もそうだが、ある瞑想状態(?)の時のみ、見えたり、聞こえたりすることがあるということは、もう少し一般化して、ある見方を会得すると見たり聞こえたりすることがある、ということである。

篩い

今日、放送大学で、物理専門の先生(岡野・文京センター長)から、次のような考えを聞いて、大変感心した。
<最初はいろいろ雑多なものを集める。それを篩(ふるい)にかける。すると自然にいいものが下に落ちる。篩の精度を高めたりしながら、それを繰り返す。>
このやり方は、かなりアバウトで、篩さえ作れば、あとは自然の理(ここでは引力)に任せておけば、自然にいいものが残る、つまり選別できるというもので、エネルギーもあまり使わず、自然の理にかなって、優れものだと思った。
今の社会は、先に目標を定め、その目標を達成するためにどのような手段を取るかを決め、さらにその具体的なスケジュールを設定し、その通りに行うのをよしとする目的合理的な風潮があるように思う。
大学の授業も、最初にシラバスをきちんと提示するよう文部科学省からのお達しがある。つまり<授業の目的><到達目標><学習の内容><授業計画>(毎回の授業の内容)、<準備学習><成績評価の方法><教科書><参考文献>などを、シラバスにきちんと書くように定められ、その実行を迫られている。
最初に目標を定め、達成手段を決め、そのスケジュールに従い、懸命に努力することをよしとする。――これではあまりに人工的で、自然の理に反しているではないかと、という気持ちがしてきた。
大学の授業は、そのようなものもあってもよいが、すべてそのようなものではなく、もっとアバウトで、自然なものもあってもいいのではないか。それらは篩にかかり、いいものが残るはずである。

下町の桜

桜と言えば、都心(千鳥が淵など)か郊外が定番だが、東京の下町の桜も、密集した住宅地の中で、けなげに咲いている。