定年後の過ごし方(その2)-後世に残すもの

歳を取ってから、あるいは定年後の過ごし方に関しては、いろいろ考え方があり、また実際ひとそれぞれのような気がする。
歳をとると、日々の過ごし方をどうするかだけでなく、自分は後世に何を残せるのかを考えるようになる。
放送大学にはさまざまな人が集まっていて、還暦前に仕事を辞めて、放送大学で学んでいる人もいる。昨日(15日)放送大学の「人間発達科学」の修士1年生の会に出たが、その研究テーマを聞いていると、60歳を過ぎた人に、今の子ども達や学校をよくするために何かをしておきたいという熱意が多くあることを感じた。ひとりは「今子どもの育ちが危ない」という危機感を持った人であり、その解決策を論文で若い世代に伝えたいと思っている。もう一人は、震災で壊滅したコミュニティ(共同体)を立て直し、その地域の学校をどう再建していくのかを元校長の経験から考え、行動したいという人であった。
 昔,院生時代、後輩の院生で、「自分は後世に残る本を1冊出すことが、人生の目標である」と述べていて、実際そのような本を残し、若くして逝ってしまった人(園田英弘氏『西洋化の構造』)がいるが、後世への影響を考えるのは、人の務めかもしれない。

 私の住んでいる近所では歳とった人が多く、趣味に生きる人も多い。私が所属し月2回程度健康のために出る「卓球愛好会」のメンバーは、週に4~5日卓球をやるという人が多い(月2回の私とは大違い。卓球の腕は雲泥の差がある)。その平均年齢は男性で70歳、女性で60歳くらいである。皆、健康で気は若い。
その、後期高齢者のひとりに日々の過ごし方を聞いたら、下記の答えが返ってきた(その人は、私と同じ月に2回程度出る人、私のHPを見てくれているらしい)
 「殆ど毎日ホームページを覗いています。二つの大学で現役時代のように活躍されている様子、羨ましいですね。若い人と付き合っているためかこちらにも活力が伝わってきます。小生完全にフリーの生活のため次のような本を読む毎日です。近藤 勉著「高齢者の心理」、島崎敏樹著「生きるとは何か」、佐藤真一・大川一郎・谷口幸一著「老いとこころのケア」、P.B.Baltes,K.U.Mayer:「The Berlin Aging Study Aging From 70-100」 以上」

 定年後の過ごし方も、70歳までと70歳を過ぎてからでは違うような気がする。
 それにしても後世に、私は何を残せるのであろうか。

桜散る

今日(14日)は雨で、桜の季節も終わり、栄華を誇った桜の花も散った。さすが花の女王さくら、散っても美しい。(写真は、市原市ちはら台)

放送大学 大学の窓

今日(14日)午後7時50分頃、放送大学の「大学の窓」をテレビで見ていたら、放送大学の学長の話の後、文京学習センターの紹介があり、その中で、自主ゼミの様子が映し出された。
それは、なんと私の自主ゼミで、2週間前、「少し映像を取らせて下さい」とカメラが教室に入って来た時のものであった。
インターネットでも、見られるというので、紹介させていただく。
 http://www.ouj.ac.jp/hp/eizou/mado/
 (平成24年4月8日~ 学習センターとは)

いまどきの若者について

 放送大学の卒業生から、「新入社員の若者がよくわからないので、若者論を読もうと思う。適切な本がないか」と尋ねられた。 さらに話を聞いてみると、その若者は、中高大とエスカレータ式で進学したもので(4大学の1つ)、必死で努力をした経験がなく、何事にも頑張りが足りないとのことであった。
確かに、受験競争が緩和され、のんべんだらりとした若者が増えたのかもしれない。しかし、このような一人のケースを一般化するのは難しいと思った。
 今の若者論と言えば、真っ先に、土井隆義氏の本をすすめたが、同時に今話題の若手の社会学者・古市憲寿の本もすすめた。
 古市憲寿の本に関しては、私が昔学部時代習ったことがある高名な先生から、下記のようなコメントを送っていただいたことがある(一部転載)。
 
古市憲寿著の「絶望の国の幸せな若者たち」、「希望難民御一行様」を読みました。
著者は「我が孫」とは言わないが、「我が子」よりもはるか若い世代。本の帯の「26歳社会学者による大型論考の誕生」というキャッチフレーズが飛び込んできた。冒頭に「これだけひどい状態に置かれて、なぜ日本の若者は怒らないのだ」という外国人記者の問いかけが登場する。それに対して、著者はにこやかに「日本の若者は、幸せだから」と答えている。
年寄り達は「今の若者は可哀そう」と同情するが、とんでもない、今の若者は一番幸せだという。なぜかといえば、適当に食えているし、同じ境遇同士で集まっては「ムラムラ」していて、それがいちばん幸せなのだそうだ。
「ムラムラ」という言葉は、若い者同士で小さな「ムラ」を作って、仲良くやっている状態を指しているらしい。仲良くやっているとはいっても、要するに同じ部屋にたむろして、片方ではテレビを見ているかと思えば、片方ではマンガを読み、もう片方ではギターを弾いている。めいめいが勝手なことをしながら、同じ部屋に溜まっているだけで幸せだという。こういう状態を「ムラムラ」というのだそうだ。これだけ言葉の意味が変わると、つくづく歳はとりたくないものだと思う。
また「この国にはなんでもある。ないのは希望だけ」という文章もでてくる。たしかにコンビニへ行けば今では何でも手に入る。しかし「希望」だけは売っていない。コンビニさえあれば、困ることはない便利な時代。もしかしたら、現代の若者から見れば、世界全体は「コンビニ的世界」なのかも。
「希望難民」とは、欲しいものは何でもあるのに「希望」だけが見つからないという難民同志で、ピースボートに乗りくみ、世界一周のクルーズに出かける幽霊船物語。船上では「平和と護憲を願う9条ダンス」を踊ったりするイベントがあるが、けっしてサヨクではない。結局114日間の世界クルーズの結果、どう変化が起こったのか。依然として「希望」は見つからず、「セカイ」も変わらず、「自分も変わらず」。しかし船上でできた仲間同士で、また集まってムラムラしている。
結論は、今の年寄りはよってたかって「今の若者」に「夢」を持たせようとしているが、なまじ夢など持たない方がよいという。むしろ「あきらめることが大事」。「セカイを変えること」など考えず、そういう大きなことは誰かに任せておけばよい。誰かがやってくれるから、そういうエリートに任せるに限る。
読み通してまず思ったことは「若いということは途方もない特権」。ただしその特権には、賞味期限がある。しかも使った途端に蒸発してしまうもの。
ただしこれも逆に老人のヒガミとやっつけられる危険性がある。そう思うのは私にも既視感があるから(そういえばこちとらも若い時はそういっていた)。結論をいえば、老人は急いで墓場のなかに逃げ込むに限る。