神田外語大学で、「教育社会学」の授業を担当することになり、4月13日に第1回の授業があった。最初から教室探しに迷い、遅刻して開始。
受講届け前にも関わらず、50名弱の学生が熱心に私の話を聞いてくれた。つい、「教育社会学とは」という内容を熱心に講義した。ふと学生の顔を見ると、少し退屈そう。
ここの学生は語学(主に英米)が専門で、教職の為にこの授業の受講を考えているのであり、別に「教育社会学」の学問的性格など関心がないことに、遅ればせながら気が付いた。
上智大学教育学科で「教育社会学」を講義したときは、その学問的性格を論じ、それは「教師の為の教育社会学」(Educational Sociology)とは違う、科学的な「教育の社会学」(Sociology of Education)だと言って、澄ましていればよかったが、ここではそれは通用しない。
教員養成大学でどのように「教育社会学」を教えたらよいかということが、よく学会で議論されていることを思い出し、はじめて自分に突きつけられたことを知った。
朝の花
朝、それぞれの始まり
今日は敬愛大学で1限の授業もあるので、その準備も兼ねて、朝早く7時半のバスに乗った。こんなに早く出勤は久しぶり。朝のバスの中で、疲れきって眠りこけている若いサラリーマンを多く見た。今はフリーターやアルバイト以上に、若い正社員の労働は過酷であるという新聞記事(「正社員でも使い捨てー若者を搾取する企業を見抜け」朝日新聞4月6日朝刊)を最近読んだばかり。その実態を垣間見た気分。バス停を降りて大学まで歩く道すがら、朝出されたごみ袋を狙うカラスを何匹も見た。大学の脇の道には菜の花が満開。授業前の教室をきれいにする掃除のおじさん、おばさん。同じ学園の高校生がクラブの朝連で元気。1限の授業では、私語に余念のない学生もいれば、熱心にノートを取る学生もいる。鳥、花、人、学生それぞれの朝の始まり。
教育とはー昔と今は、感銘する点が逆
敬愛大学こども学科の1年生向けの授業(「教育原論1」)で、最初に、「教育とは」ということで、自由に書いてもらった。
その回答を、①知識等を「教え込む」こと、②子ども可能性を「引き出すこと」の2つで分類すると、前者が圧倒的に多かった。
① 「教え込む」に相当する回答――・(教育とは)人を育て、人に教える、・自分の持っている教養を次の世代に伝えていくこと、・人に知識を与え育てること、・成長とともに教えていくこと、・知識など自分の知っていることを人に教えること、・自分より豊かな知識を持つ人から教わり、自分より知識が乏しい人に教えること、・生きていく上で必要なことを学習すること・人に生活に必要なことを教え育てること、・一人前の大人にすること、・指導すること、・自分の持った知識を与えて次の世代に託すこと、・小学校は人間性を育てる場所、中高は学力を中心に教えるところ、・人に学業だけでなく精神的な面のことも教えること、師から持っている知識を後世に伝えることや人間らしく生きる術を学ばせること、・社会、集団で生きていく上で必要な知識を学ぶこと、・勉強はもちろん、社会に出て恥ずかしくないような人にさせる、・社会に出ていく為に必要な知識、コミュニケーション能力を身に付けること、・未来の日本、世界を支える人材を育てること、
② 「引き出す」に相当する回答――・学ぶことであり、知的好奇心を旺盛にするもの、・未来のある子ども達の将来の可能性を広げること、・ひとりひとりの可能性を引き出す、・才能を引き出すこと、子どもひとりひとりが持っている才能を引き出すこと
授業では、「教育についての考え方には大きく2つある。ひとつは、教育は子どもの中にある無限の可能性を引き出し開花させることという考え方であり、もうひとつは、タブラ・ラサ(白紙)の子どもに人類の文化遺産を注入し一人前の大人に仕立て上げていくことが教育という考え方である」(武内清編『子どもと学校』学文社、2010)を、説明した。すると、学生から、次のような、コメントが返ってきた。
「私は教育は注入するだけだと思っていたが、『引き出す』という印象はなかったので、こんな考え方もあるものなんだなあと思いました」「無限の可能性を引き出す、ところがなんか良いなと思いました。そんな教師になりたいです」
私達が最初学部で教育社会学を学んだとき、教育には「引き出す」だけでなく「注入する」部分もあるのだと教えられ、それに感銘を受けたが、今の学生が感銘を受ける点は逆になっている。つまり、教育の「注入する」部分(それは当り前になっている)ではなく、「引き出す」部分(めったに行われない)に感動している。
これは、注入教育が一般化しているせいなのか、教育社会学的考え(教育=社会化)が一般化しているせいなのか?これは嘆かわしいことなのか、喜ばしいことなのか?