教員に求められる資質について      

私が教育を受けた頃は、学校でキャリア教育や進路指導というものがなく、単に個人の学力に合わせて進学する高校や大学を選び、職業選択も行き当たりばったりであったように思う。
自分について考えてみると、「子ども好き」の性来の特質(今でも子どもと同じ目線で遊ぶことができる)から、小学校の教員向きだと、この歳になってから思うが、高校の時、教員養成の大学を受けるクラスメートは皆無で、自分でもそのような選択肢があるとは露ほども思わなかった。
皆が受ける国立大学の理系を受験し、そこに入学してみて、自分が理系でないことにすぐ気が付き(最初の数学や物理の試験で赤点を取った)、文系の学部を受け直そうと考えたが、その大学の教育学部は進学希望者が少なく、理系からも進学できると知り、3年次に教育学部に進学した。そこで中高の社会科免許は修得したが、中高の社会科の教員採用試験の倍率は高く、到底教員にはなれそうもなく、また就職もままならず、大学院に進学した(そして、現在の大学教師という職業に至っている)。
  自分に引き比べ、敬愛大学こども学科の学生諸君は、小学校の教員免許が楽々と(?)取得でき、教員採用試験もそれほどの倍率ではなく、小学校教員になれるというのは、恵まれている。
 他の職業に比べ、学校教師という職業は、自分の力量や工夫で決められる部分が多く、また人(子ども)とも関わり、やりがいのある職業だと思う。さらに、この不況の時代に、安定した職業であり、給与も身分も保証されている。
 ただ、子どもへの影響が大きい分、責任も大きく、生半可な気持ちではなるべき職業ではない。我々大学教師の、ほぼ人格的に確立した学生への影響たるや微々たるものであるが、まだ成長途中の子どもへの(小学校)教師の影響は、計り知れない。それは、学力面でも、道徳面でもそうである。
 日本人の将来の国民性や実力は、日本の小学校教師に多くが委ねられている。算数や理科の不得意な小学校教師が多いと、日本の将来の科学技術の発展は期待できない。やる気がなく道徳心のないものが教師になったら、日本は危うい国になる。
 現代のどこの大学の学生も同じことなのだが、授業でやる気を見せず、私語や内職に忙しい学生を見ていると、「この学生が教師になったら、担任のクラスはどうなるのだろうか、できたら教師以外の職業に就いてほしい」と思ってしまう。
 ただ、言われたことをきちんとやる生真面目な人だけが教師になればいいと思っているわけではない。真面目さも大事だが、同時に、学識があり、柔軟で、幅広い人間性のある人に教師になってほしい。
とかく教師は、子ども相手の為、独善的で、視野が狭くなりがちである。子どもに規則を守らせることも大事だが、その規則がある本来の趣旨に照らして、子どもに柔軟に対処することが大事である。
 教師は、教科書の書かれたことを子どもに伝達する役割を担えばいいわけではない。自分でも日頃から勉強や研鑽を重ね、教科書は手段として、自分なりの教え方を工夫する実力のある教師になってほしい。
 人間的にも幅広く、実力のある教師になる為に、大学生活(キャンパスライフ)の送り方は、きわめて重要である。 大学の授業に真面目に出て、しっかり勉強することはもちろん、サークル活動やその他の活動(海外への留学や旅行も含む)、さらに趣味や友人関係でも、大学時代にしかできないことを、思い切りやることが大事である。若い時の活動や経験は、お金に代えられないものがある。アルバイトから学ぶことも多いと思うが、それのやり過ぎは、長い目で見るとマイナスになることが多い。
 教員採用試験に向けては、準備を怠りなく、大学の提供する講座にも参加し、自分でもしっかり勉強してほしい。
 大学の教師は、自ら手とり足とりの指導はしないが、学生の方から尋ねていくと、どの先生の親切にいろいろ教えてくれる。それも授業料の一部と考え、先生たちを、多いに「利用」してほしい。
 敬愛大学には教職の伝統がある。それに国際性が加わり、優れた教師が千葉県はじめ全国に排出されれば、敬愛大学の名声が高まるだけでなく、千葉県そして日本全国の教育水準の向上につながる。その期待が皆にかかっている。(敬愛大学「教職への道程」2012年4月より)

 敬愛大学国際学部こども学科の学生 ↓

放送大学自主ゼミ

今日(26日)は客員をしている放送大学文京学習センターで、自主ゼミであった。
「教育や青少年に関する文献を読んで、自由に議論する」というものだが、放送大学の学生は、いろいろな年齢、職業、さまざまな体験の人がいるので、議論は面白い。
 今日は、「震災と教育、防災教育」に関する雑誌論文を読み、いろいろ話し合った。やはり、「原発の今後」、「国のエネルギー政策」、「災害時の子どもの安全」などに議論が集中した。(出席者は10名)。

どの車に乗るか

どのくらい車にお金をかけるか、どのような車に乗るのか、ということはその人の価値観や人柄をなにほどか反映している。
私(うち)はお金がないということもあるが、車は安上がりの中古車に乗ることが多い。ただ、新車と中古車でどちらが得かというと一概に言えない。
たとえば300万円の新車を購入して10年間乗れば、1年間当たりの車体費用は30万(300/10)である。同じ車種の4年乗った中古車を150 万で購入し6年間乗ったとすると、1年間当たりの車体価格は25万円(150/6)である。つまり新車と中古車で1年間で5万円(月にすると4千円)しか違わない。税金は変わらないし、ガソリン代はかえって新車の方が安くなるので、その差はさらに縮まる。
最初に車に300万円をポンと出せるか、150万円までしか出せないかで、新車に乗れるか、中古車で甘んじるかの違いを生み出す。私(うち)は初期費用がないため、後者である。
大学教師の中にも、初期費用があり、快適な車生活を送っている人ものもいる。友人の岡崎氏は、「リンカーン」の新車にに乗っていて、自信にあふれ、風格さえ身につけている。時々乗せてもらうと、値段にして6分の1のうちの車と乗り心地は全く違うことをに気付く。

(でも、うちのプレサージュもいい車だ。8人乗れるし、本もたくさん運べるし、撤去され保管された自転車も運べるし、ソフィー(犬)がどこでも連れていってもらえる大好きな車だ)

電動アシスト自転車

小さい時、人の自転車を借り練習して乗れるようになった時のワクワク感は今も忘れない。父が見かねて中古の子ども用自転車を買ってきてくれた時は嬉しかった。それ以来、自転車のない生活は考えられない。スキーで雪の上を滑っている時も、(スキーが下手なせいもあるが)、このスピード感は、自転車乗っている時とあまり変わらないなと、思ってしまう。
1年ほど前、「電動アシスト自転車」を購入し、時々乗っている。ただ一度スピード出し過ぎ、転んでからは、怖さもある。昨日(25日)は、1時間に2本のバスが行ってしまい、仕方なく、早く大学に行きたくで「電動アシスト自転車」で大学に向かった。
車道は車がビュンビュンが飛ばしているので、いきおい歩道を走ることになる。その歩道がデコボコしていて、ハンドルを取られないようにかなり神経を使う。真っすぐ行けば20分で行くところ、途中美味しそうな「讃岐うどん」の店があり、そこでうどんを食べ、そして途中の公園で一休みして、結局大学に行くのに1時間以上かかった。
「電動アシスト自転車」は確かに坂道は楽であるが、平坦な道や下り坂はあまり変わらない。バッテリーの充電が多少面倒くさい(1回の充電で10キロしか走らない)。車体が重たく、運ぶのに不便。事故もいろいろ報告されている。自転車と自転車道路の改良を望みたい。

さつきとつつじ

発達課題(先週の「教育原論Ⅰ」の授業でこの説明をした)ではないが、ある時期に学んでおかないと後からはなかなか学べないことがある。
エレベーターとエスカレーターの区別ができない家人がいるが、私の場合は、うつ伏せと仰向けの区別が瞬時にできない(少し考えてからならできる)。
それから、今の季節に美しい花、さつき(皐月)とつつじの区別ができない。今咲いている小さな花は、さつきなのあろうか、つつじなのであろうか? インターネットで調べてよくもわからない。
<サツキ(皐月、学名 Rhododendron indicum)はツツジ科の植物で、山奥の岩肌などに自生する。盆栽などで親しまれている。サツキツツジ(皐月躑躅)などとも呼ばれており、他のツツジに比べ一ヶ月程度遅い、旧暦の五月(皐月)の頃に一斉に咲き揃うところからその名が付いたと言われる。>(ウキペディア)