今日(9月27日)のNHKの朝ドラ「虎に翼」は最終回。毎日楽しみに見てきた。その中に、雨水の一滴をめぐって議論が交わされていて、それがドラマの締めくくりの言葉になっていたように思う。雨水の一滴という言葉で、直ぐ思う浮かぶのは、村上春樹の文章である(その意味合いは、「虎と翼」と村上春樹ではかなり違う)。村上春樹については、「内外教育」(2021年10月5日号、ひとこと)に下記のように書いたことがある。
<村上春樹著「猫を棄てる」(文藝春秋、2020年)には、村上の父親が20歳の時徴兵され、中国大陸の戦線に参加したことが書かれている。村上はその責務も感じている。「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」と>
このように雨水の一滴が使われるのは、よくあることなのか、生成AIに聞いてみた。質問は「人は雨水の1つにしか過ぎない、と村上春樹は言っています。 同じようなことを言っている人はいますか?」 以下、回答
チャトGPTの回答
村上春樹の「人は雨水の1つに過ぎない」という表現は、個人の存在が大きな流れの中でほんの一部であり、個人としての独立した存在感が希薄であるという考え方を表しています。このようなテーマやメタファーは、他の作家や思想家の中にも見られます。/1. アラン・ワッツ(Alan Watts) – イギリス出身の哲学者であり、禅や道教、西洋と東洋の哲学の融合に焦点を当てた思想を広めた人物です。彼はしばしば「個人は宇宙の全体の一部であり、全体と切り離せない」という考えを説きます。人間を自然界の一部、または宇宙全体の一つの表現として捉えることは、村上春樹のメタファーと共鳴する点があります。/ 2. ジョン・ダン(John Donne) – 17世紀のイギリスの詩人であり、彼の有名な言葉に「No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main.(人は誰も一人島ではなく、大陸の一部である)」というフレーズがあります。これは個人が完全に独立して存在することはなく、全体の一部としての役割を持つという考えを強調しています。村上春樹の表現と共通するのは、個人の存在が他者や全体と密接に関連しているという視点です。/ 3.仏教の思想 – 仏教では、すべての存在が相互に依存し合うという「縁起(えんぎ)」の概念があります。個々の存在は独立しているわけではなく、すべてが他者や環境とつながっているという思想です。この点でも、「雨水の1つに過ぎない」という考え方に通じる部分があります。/これらの思想家や宗教的な考え方は、村上春樹のメタファーに似た、個人の存在の有限さや全体との関係性を探求していると言えるでしょう。
Bing Chat の回答
村上春樹の「人は雨水の1つにしか過ぎない」という表現は、個々の人間の存在の儚さや、全体の中での個の役割を示唆しています。このようなテーマを扱った他の作家や思想家もいます。/例えば、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンは「草の葉」という詩集の中で、個々の人間が自然の一部であり、全体の中での小さな存在であることを詠っています。また、フランスの哲学者アルベール・カミュも「異邦人」や「シーシュポスの神話」で、個々の人間の存在の無意味さと、それに対する反抗の意義を描いています。/これらの作品も、村上春樹の表現と同様に、個々の存在の儚さや全体の中での役割を考えさせられるものです。どの作家の表現が心に響きますか?