今年の紅葉

ニュースによると今年の秋の紅葉は例年より遅く、期間も短期間とのこと。その為、紅葉にピッタリの時期に旅行して、旬の時の紅葉を見るのは難しそう。

今週は10月中旬ということで栃木県の塩原、那須方面に旅行に出かけた。しかし紅葉には少し早すぎたよう。後1~2週間後であればよかったのにと思った。それでも那須連山の1つ「茶臼岳」〈1915m〉に、ロープウェイで9合目まで行き、そこから40分ほどゴツゴツした岩の多い道を上ると、途中綺麗な紅葉を見ることができた(下記写真)

<栃木県の最北端に位置する関東を代表する活火山「茶臼岳」は那須連山の主峰であり、今もなお、白い噴煙を噴き上げております。山頂まで登るとそこには360度の壮大な景色が登山者の心を打ち、迫力のある噴煙や雄大な景色を楽しめます。軽装登山から本格的な登山まで楽しむことができる茶臼岳は多くの人々や登山家を魅了し愛されております。那須ロープウェイを!ロープウェイを利用すれば、茶臼岳の9合目まで到達できます。>(那須岳の魅力 | 那須ロープウェイ(公式ホームページ) (nasu-ropeway.jp)

KODAK Digital Still Camera

武内清『教育、大学、文学、ドラマ、日常 ―教育社会学的考察―』(2022年)

2年ほど前に作成し、敬愛大学での「教育社会学」の授業でも、授業資料の一部として使用した冊子 『教育、大学、文学、ドラマ、日常 ―教育社会学的考察―』(2022年9月、113頁)を、今年度の授業(後期、「教育社会学」)でも、参考文献として使いたいと思った。ただ、冊子は少数しか印刷しなかったので、もう手元になく、学生に配布できない。

敬愛大学教育学部の「教育社会学」受講生は、下記のWEBサイトをクリックして、読んでほしい。(過去に一度このHPにアップしたことがあるが、再度アップする)。

人は雨水の一滴にしか過ぎない

今日(9月27日)のNHKの朝ドラ「虎に翼」は最終回。毎日楽しみに見てきた。その中に、雨水の一滴をめぐって議論が交わされていて、それがドラマの締めくくりの言葉になっていたように思う。雨水の一滴という言葉で、直ぐ思う浮かぶのは、村上春樹の文章である(その意味合いは、「虎と翼」と村上春樹ではかなり違う)。村上春樹については、「内外教育」(2021年10月5日号、ひとこと)に下記のように書いたことがある。

<村上春樹著「猫を棄てる」(文藝春秋、2020年)には、村上の父親が20歳の時徴兵され、中国大陸の戦線に参加したことが書かれている。村上はその責務も感じている。「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」と>

このように雨水の一滴が使われるのは、よくあることなのか、生成AIに聞いてみた。質問は「人は雨水の1つにしか過ぎない、と村上春樹は言っています。 同じようなことを言っている人はいますか?」 以下、回答

チャトGPTの回答

村上春樹の「人は雨水の1つに過ぎない」という表現は、個人の存在が大きな流れの中でほんの一部であり、個人としての独立した存在感が希薄であるという考え方を表しています。このようなテーマやメタファーは、他の作家や思想家の中にも見られます。/1.  アラン・ワッツ(Alan Watts) – イギリス出身の哲学者であり、禅や道教、西洋と東洋の哲学の融合に焦点を当てた思想を広めた人物です。彼はしばしば「個人は宇宙の全体の一部であり、全体と切り離せない」という考えを説きます。人間を自然界の一部、または宇宙全体の一つの表現として捉えることは、村上春樹のメタファーと共鳴する点があります。/ 2.   ジョン・ダン(John Donne) – 17世紀のイギリスの詩人であり、彼の有名な言葉に「No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main.(人は誰も一人島ではなく、大陸の一部である)」というフレーズがあります。これは個人が完全に独立して存在することはなく、全体の一部としての役割を持つという考えを強調しています。村上春樹の表現と共通するのは、個人の存在が他者や全体と密接に関連しているという視点です。/ 3.仏教の思想 – 仏教では、すべての存在が相互に依存し合うという「縁起(えんぎ)」の概念があります。個々の存在は独立しているわけではなく、すべてが他者や環境とつながっているという思想です。この点でも、「雨水の1つに過ぎない」という考え方に通じる部分があります。/これらの思想家や宗教的な考え方は、村上春樹のメタファーに似た、個人の存在の有限さや全体との関係性を探求していると言えるでしょう。

Bing Chat の回答

村上春樹の「人は雨水の1つにしか過ぎない」という表現は、個々の人間の存在の儚さや、全体の中での個の役割を示唆しています。このようなテーマを扱った他の作家や思想家もいます。/例えば、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンは「草の葉」という詩集の中で、個々の人間が自然の一部であり、全体の中での小さな存在であることを詠っています。また、フランスの哲学者アルベール・カミュも「異邦人」や「シーシュポスの神話」で、個々の人間の存在の無意味さと、それに対する反抗の意義を描いています。/これらの作品も、村上春樹の表現と同様に、個々の存在の儚さや全体の中での役割を考えさせられるものです。どの作家の表現が心に響きますか?