マージナルな存在について

人から何か話を聞いた時、そのことに関して自分だったらどのように考えるだろうあるいは考えたであろう、と思いめぐらすことはよくある。馬居政幸氏(静岡大学名誉教授)より、今度の「日本子ども社会学会」の大会で、「学校教育において外国ルーツの子どもはなぜ周縁化されるのか ーDEI+Bが問う公教育 (公立校)再構築の道筋(その1)ー」というテーマで共同発表するというメールをいただき、私は過去にそのことに関連することでは、何を考えたであろうと思いを巡らせた。氏らの発表は、その先を行くもので、私のものは参考になるものではないと思うが、記録には残しておきたいと思った。

それは、敬愛大学の授業のテキストでも使った『教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学的考察―』(武内清 2023.9)のⅠ-11(多文化教育的視点)と、Ⅶ―4(カズオ・イシグロ・土屋政雄訳『私を離さないで』(早川書房、2006年)の記述である。下記に転載しておく。

1―11 多文化教育的視点―異文化に対する視点に関して、佐藤郡衛氏は、3つの視点のあることを指摘している。(『海外・帰国子女教育の再構築』)「単一文化的視点」「比較文化的視点」「異文化間的視点」の3つである。第3の「異文化間的視点」がいちばん大事で、そこでは「文化を動態的にとらえ、相互作用を通して文化は変わりうるものとしてとらえられる」。つまり、異文化に接することにより、自分たちの文化も変わり、人生が豊かになると考える。これは「多文化教育的視点」とも同一のもので、マイノリティ(権力がない少数者)の立場を尊重し、その集団や文化も尊重し、相互作用を行う中で、マジョリティの文化も変わり、幅が広がり、心が豊かになると考える。/外国籍の児童が半数近くいる千葉市の高浜小学校の佐々木惇校長の次のように述べている。「外国につながる児童の存在は、本校児童の学習活動のための資源の1つとなっている。より効果的な活用を図ることにより、学校教育目標の具現化につながるものと考えている。 また、変化が激しい社会情勢の中、児童個々の違いを認め合える環境での学習活動が児童個々の成長を効果的に高めると感じている。」/ 多文化教育で、大事なことは、多様な見方を理解し、許容することである。その際に、バンクスの「転換アプローチ」は有効な方法である。他国や他者の立場から,同じ事象を見てみる。たとえば、第2次世界大戦や広島・長崎への原爆投下を、日本の視点からだけでなくアメリカの視点からもみてみる。「原爆教育」は、日米で行われている。/ 「ニュカマーの家族は、自分たちの日本への移動に、それぞれの『家族の物語』を有していた。そしてそれに対応した形で、個別的な『教育戦略』を採用して、日本の社会に適応しようとしている」(出稼ぎニュカマー、難民ニュカマー、上昇志向ニュカマー)(志水・清水編『ニュカマーと教育』明石書店,2001.p.364)/ 経済がグローバル化する中で、国を超えた物的人的交流が起こるのは必然であり、他者(当たり前を共有しない人)との関係を築き、「不快さに耐える」ことが必要。多文化教育を、理想だけでなく、現実的に考えることも必要である。(2016年12月10日)

Ⅶ―4  カズオ・イシグロ・土屋政雄訳『私を離さないで』(早川書房、2006年)―もう一度読んでみたい小説のひとつにカズオ・イシグロの『私を離さないで』があることは確かである。何か心の琴線に触れるものがある。ただそれは哀しさが基調になっている。加藤典洋の『世界をわからないものに育てること』(岩波書店、2116)の中に、『私を離さないで』論がある。その中の指摘に、考えさせられることが多くある。特にマージナルな立場についての言及になるほどと思った。/イシグロは5歳のときに親の都合でイギリスに渡り、二つの国の言葉の間に宙釣りになっている。母語をもたない小説家であり、言語的にマージナルな立場にある。/彼の第2作『浮世の画家』の主人公の小野は、戦争中に戦争を賛美する絵を描き、戦後にそのことを肯定はしないが、その当時はそのように考える以外に方法はなかった、とその不可避性を信じている。それは「戦前の戦争目的をいまもなお信じるという国家主事者たちとも、これを否定する戦後の民主主義者たちとも違っている」(162-3頁)。(これは、加藤の『敗戦後論』の立場との共通性があろう)/「私を離さないで」に出てくるクローン人間は、「健常者と完全に同等というほどの能力もたぶん、もたされていない。しかし読む者は、より弱く、偽物の生を生きる疑似人間の方が、本物の人間よりもディーセントで、人間的ですらある、という不思議な読後感をここから受け取る。『人間』であることは、必ずしも『人間的』であるための、必要条件ではないようだ」(167頁)とあるように、クローン人間は人間に対してマージナルな存在であるが、繊細で、健気で、純粋で、心打たれる。/このように言語的にマージナルな作家が書く、日本の敗れた戦争にマージナルな意識をもつ主人公、人間に対してマージナルな存在のクローン人間など、マージナルな作家がマージナルな登場人物を描いていて、何かに同一視(アイデンティファイ)している人間にはわからない新しい、深い問題を探求している。それは、主流や既存の勢力の以上の抵抗性や戦闘性をもつことがある、という加藤の解釈は興味深い。「私を離さないで」には、ネットで見ても、さまざまな感想、書評がある。再読して、いろいろ考えてみたい。(2020年4月2日)

中学高校の英語教科書に文学(小説等)を掲載することは適切か

上記のことが気になり、生成AIに聞いてみた。下記がChatGPTの回答。世の中でどのような議論があるのか知らないが。

Q1-日本の中高校生は英語の基礎もまだできていないと思いますが、日本の中高の英語教科書に、文学の教材を入れることの是非を教えて下さい。

ChatGPTの回答―日本の中高の英語教科書に文学の教材を入れることには、賛否両論があります。それぞれの立場から考えてみましょう。文学教材を入れるメリットー①言語の豊かさに触れられる、文学作品には、日常会話だけでは学べない豊かな表現や語彙が含まれています。英語の「生きた使い方」を学ぶ機会になります。②文化理解が深まる。文学は単なる言語学習の材料ではなく、英語圏の文化や価値観を知る手がかりになります。異文化理解の促進にもつながります。②思考力を鍛えられる。文学作品には抽象的なテーマや深いメッセージが含まれます。それを読み解くことで、単なる「英語の暗記」ではなく、批判的思考や論理的思考を鍛えることができます。③英語学習の動機づけになる可能性。単調な文法・単語学習だけでなく、文学作品を通じて「面白い」「もっと読んでみたい」と思えるようになれば、学習の意欲向上につながるかもしれません。/ 文学教材を入れるデメリット-①英語の基礎ができていない生徒には負担が大きい。中高生の多くは、まだ基本的な英文法や単語を十分に身につけていません。文学作品の難しい語彙や比喩表現は、理解を妨げ、挫折につながる可能性があります。②実用的な英語習得を妨げる可能性。文学作品は一般的にフォーマルな言い回しや古い表現を含むことが多く、現代の実用英語と乖離している部分があります。日常英会話や試験対策を重視するなら、もっと実用的な教材の方が適しているという意見もあります。③読むことが目的化し、言語運用能力が向上しにくい。文学作品を「読むこと」だけが目的になり、書く・話すといった実際の言語運用能力を伸ばす活動が減る可能性があります。特に、中高生の学習時間が限られている中で、バランスを取ることが重要です。③生徒によっては興味を持ちにくい。文学が好きな生徒には良い教材になりますが、興味を持たない生徒にとっては「難しい」「退屈」と感じられ、英語学習の意欲を下げてしまう可能性があります。/折衷案としての解決策-①簡潔で興味を引く短編や児童文学を選ぶ。難解な文学作品ではなく、やさしい英語で書かれた短編や児童文学を活用することで、負担を減らしながら英語の面白さを伝えることができます。②対話型のアクティビティと組み合わせる。ただ読むだけでなく、内容についてディスカッションをしたり、簡単な感想文を書くなど、言語運用能力を伸ばす活動と組み合わせると、より実践的な学びになります。③生徒のレベルに応じた選択肢を用意する。すべての生徒に一律に文学教材を課すのではなく、選択肢として提供し、興味を持つ生徒にはより深く学べるような仕組みにするのも一案です。/結論―文学教材を入れること自体には意義がありますが、生徒のレベルや興味を考慮し、適切な作品を選ぶことが重要です。英語の基礎が未熟な段階で難解な文学作品を扱うと、かえって学習の妨げになりかねません。一方で、適切な文学教材を工夫して取り入れることで、言語の豊かさや文化理解を深めることも可能です。バランスの取れた教材選定と指導方法が求められるでしょう。

Q2 文学には文法的に特異なものが多く、単語も特異なものが使われ、また通常とは違った粋な表現をすることが多いと思います。そのような文学作品に、英語の基礎のできていない日本の中高生が接するのは、英語嫌いや英語が苦手と思う人を増やすだけではありませんか?

ChatGPTの回答―おっしゃる通り、文学作品には文法的に特異な構造や、日常会話ではほとんど使われない語彙、比喩表現が多く含まれています。日本の中高生がそのような文章に早い段階で触れることが、むしろ英語嫌いや苦手意識の原因になり得る、という指摘には大いに一理あります。特に以下のような問題点が考えられます:1. 文法や構文が標準的でない、文学作品では、倒置、関係詞の省略、詩的な表現、比喩が多用されます。たとえば、Never again would he see the sun. (彼は二度と太陽を見ることはなかった。)のような倒置表現は、普通の英語学習の文脈ではあまり出てこないため、基本的な語順の理解が不十分な生徒には混乱のもとになります。2. 語彙が実用英語と乖離している。文学的な作品では、古風な単語や詩的な表現が使われることが多いです。たとえば、thou, thee, thy(汝、汝を、汝の)、hath(hasの古語)、ere(beforeの古語)などは、現代英語では使われません。こうした単語に出会うと、「英語=意味不明な難しいもの」という印象を持ちやすくなります。3. 日本語と異なる「粋な表現」が誤解を招く。日本語の文学的表現と英語の文学的表現には違いがあります。たとえば、英語の比喩表現 (metaphor, simile) や象徴表現は、日本語とは異なる思考様式に基づいているため、日本の中高生にとっては馴染みづらいことがあります。Her voice was like honey dripping from a spoon.(彼女の声はスプーンから滴る蜂蜜のようだった。)このような表現は、直訳しても意味が理解しづらく、「英語は分からない」と感じる生徒が増える可能性があります。/結果として英語嫌いを増やす可能性.以上の理由から、文学作品を適切に扱わないと「英語はわけのわからないもの」という印象を与え、英語嫌いを生み出してしまうことが懸念されます。特に、日本の英語教育では「正しい文法・語順」を重視する傾向があるため、文学的な表現のような例外的な用法に触れることで、かえって混乱する生徒も多いでしょう。/解決策:文学を入れるならどうすべきか?それでも文学には文化的・思考的な価値があるため、もし教材として使うなら次のような工夫が必要でしょう。①文法的に標準的で簡単な作品を選ぶー例えば、アメリカの児童文学やショートストーリーの中には、比較的シンプルな英語で書かれたものもあります。『The Little Prince(星の王子さま)』英語版(児童向けながら哲学的要素もあり、平易な英語)O. Henry の短編(シンプルな構文ながら面白いストーリー)言語学習としてのアプローチを明確にする。②難解な表現を無理に解釈させるのではなく、日常英語と比較しながら教える。「この表現は文学的な言い方だけど、普通の会話ではこう言うよ」と実用的な視点を持たせる。文学作品を「読むだけ」ではなく、簡単な要約や会話練習と組み合わせる。例えば、登場人物のセリフを使ってロールプレイをしたり、ストーリーの要約を作る活動を取り入れることで、より実践的な学びにする。③全員に強制しない選択制にする。文学に興味のある生徒向けの補助教材として提供し、全員が必ず取り組まなければならない形にはしない/結論:文学教材の扱い方を慎重に考えるべき。英語の基礎ができていない段階で、文学的な教材を入れるのは、確かに英語嫌いを増やすリスクが高いです。文学作品を取り入れるなら、適切なレベルと指導法を考慮する必要があります。日本の英語教育では、まず**「英語を使える」という自信を育てることが重要**であり、無理に難解な文学作品を読ませるよりも、実用的な英語の基礎をしっかり固める方が先決でしょう。

Q3―日本の大学入試に、英語の小説が出題されることは稀だと聞きます。国語に関しても、小説はあまり出題されません。大学入試のことを考えると、日本の高校で英語の小説を、教材にすることは、あまり意味がないように思いますが、どうですか?

ChatGPT:の回答―おっしゃる通り、日本の大学入試では英語の小説が出題されることは極めて稀であり、その点から考えると、高校の英語授業で小説を教材とすることの実用性には疑問が残ります。また、国語の大学入試でも小説の出題頻度は高くなく、評論文や実用文のほうが重視される傾向があります。このことを踏まえると、英語の小説を高校の英語教育に組み込むことには、以下のような課題があると言えます。1. 大学入試の出題傾向と合わない。日本の大学入試の英語は、論説文や科学・社会系の文章が中心です。過去問を見ても、小説が出題されることは極めて少なく、出題される場合も非常に限定的です(例えば、文学部の独自試験など)。→ 英語の小説を読むことが、大学受験に直結するとは言い難い。2. 小説は言語的に非標準的な要素が多い。小説は比喩表現や文学的な語法が多く、大学入試で求められる標準的な英語運用能力とは異なる力を必要とします。→ 大学受験のための効率的な学習を考えれば、小説よりも論説文の読解に時間を割くほうが合理的。3. 限られた授業時間の中での優先順位。日本の高校では、受験対策・実用英語(リスニング・スピーキング)・文法など、多くのことを短時間で教えなければならないため、小説を扱う余裕はあまりありません。→ 小説を読む時間があるなら、入試頻出の論説文・ニュース記事・エッセイなどに時間を割くべき。4. 小説を教材にする意義が薄い。文学的な読解力は重要ですが、それを英語で養う必要があるかというと疑問が残ります。/国語の授業で小説を扱う機会があるため、英語でまで学ぶ必然性は薄い。英語を「使える」ようになることを重視するなら、もっと実践的な教材を使った方が良い(ニュース記事、インタビュー、エッセイ、プレゼン資料など)。/結論:高校の英語授業で小説を扱う意義は薄い.大学入試の出題傾向と合わない(論説文が主流)言語的に標準的な英語から外れる(特殊な語法や比喩表現が多い)限られた授業時間の中で優先順位が低い(受験や実用英語の方が重要)。国語で扱う機会があり、英語でまで学ぶ必要性が薄い。これらの理由から、高校の英語授業で小説を教材として扱うことには、あまり合理的な意義がないと言えます。どうしても文学を取り入れたい場合は、簡潔で標準的な英語の短編を補助教材として扱う程度が妥当でしょう。

庭に来る鳥

庭の餌箱にミカンなどの柑橘類を置いて置くと、メジロがよく食べに来て、それを見るのを楽しんでいた。しかし、ある時、うちによく来る地域猫が、メジロの番いを捕まえ、殺してから,餌箱に餌を置くのを止めていた。しかしこの頃その猫が鳥に興味を示さなくなったようなので、餌やりを再開した。柑橘類の他、パン、ご飯、芋、うどん、スバゲッテイ、バナナ、ぬかなど、人が食べ残した物を餌箱に置いて、それぞれの鳥が何を食べるのかを観察している。メジロやヒヨドリは柑橘類、スズメはご飯が好きなよう。

 庭で冬に見られる鳥の順位を、WEB( https://morigurashi.biz/winter-birds50/#toc9)で見ると、1.カラス、2. スズメ、3. メジロ、4. ヒヨドリ5. シジュウカラ 6.キジバト 7.ドバト 8.ムクドリ 9. ヤマガラ 10. ツグミとあるが、うちの庭で見られるのは、スズメ、メジロ、ヒヨドリ シジュウカラの4種くらいと少ない。大きなヒヨドリが来ると、メジロやスズメは追いやられてしまうので、ヒヨドリをつい追い払ってしまう。差別なく、餌を食べに来てくれる鳥は皆可愛いと思えればいいのだが。

風の便り77号

毎月1日に送って下さる辻秀幸氏の「風の便り」は、いつも色彩豊かな写真で彩られている。紙面の構成も工夫されていて感心する。辻氏は若い頃,市川市やその近隣の高校の図書館に勤め、その時広報誌を作成していた経験もここに生かされているのであろう。(以前にも書いたが)、辻氏には市川市の図書館で開催されていた「鑿壁読書会」に、私が大学生の頃参加させていただき、大変お世話になり、私の読書の幅が拡大した(そこで大江健三郎、阿部公房、倉橋由美子など小説をはじめて読んだ)。読書会の仲間といろいろな小説を共に読み、語り合った若い頃の思い出は、今でも鮮明の覚えている。それから半世紀以上の月日が経過しているのに、交流が続いているのがうれしい。その時のメンバーと私が現在も連絡を取れているのは、辻氏を除くと年賀状のやり取りがあるK氏のみである(辻氏とは。数年前に船橋で1度お会いした)。この「風の便りは」その時の数名にのみ送られているようだが、当時の他のメンバーが、このブログで見て、連絡をくれると嬉しい。私の一生の友と思ったTo氏とも20年近く前一度会ったきり連絡が途絶えている。彼が生きているかどうかもわからない。そのように年月は過ぎていく。

国際共通語としての英語

中央教育研究所 報告書NO 103『現代の教育課題を読み解く』の第2章で、加藤幸次・上智大学名誉教授は、 「自分英語(マイ・イングリッシュ)」の世界を創造する―国際共通語としての「日本英語」への扉を開く―」という興味深い論稿を書かれています。その要約を加藤教授は、下記のように書かれています。

<日本人は、いつまでイギリス英語とアメリカ英語を「スタンダード英語」として拝み立て続けるつもりでしょうか。「世界共通語としての英語」は、すでにとっくに、土着化し、多様化しているのです。母語を日本語として育ち、日常生活で母語しか使わない日本人いとって、「スタンダード英語」は遠すぎです。日本はFar Eastに位置します。Farなるがゆえに、スタンダード英語が崇められ、日本人は英語に対してビクビクし、オドオドしてしまっていないか。世界的な会議では、それぞれ“お国訛り”の英語が飛び交っているのです。日本人の耳はその“お国訛り”の英語が聞き分けられないだけのことです。そろそろ、日本人訛りの「自分英語」、日本の文化や思考を反映した「日本英語」づくりを始めるべきではないか。グローバル世界に向かって、堂々と、「自分英語」で自分の考えを発信していくべきでしょう。英語は二の次で、内容が第一です。>(https://chu-ken.jp/pdf/kanko103.pdf

日本の教育現場の英語教育はどのように行われているのでしょうか。その報告はいろいろなところで行われていると思いますが、ここでは、日本の学校現場に派遣されるALT(外国語指導助手)の国籍別のデータをみておきたいと思います。下記のように、欧米だけでなく、フイリッピン、南アフリカ、ジャマイカ、ベトナムなど、アフリカや中南米、アジア諸国からのALTの派遣も多くなっています。つまり、加藤教授の指摘する「世界共通語としての英語」が、日本の英語教育の(発音)指導者にも浸透していることがわかります。英米の「スタンダード英語」の発音を教えることは不必要と考えられている節(ふし)があります。

<JET外国語指導助手プログラム参加国―JETプログラムへの応募方法については、母国にある日本大使館のウェブサイトをご覧ください。日本大使館、総領事館については外務省のウェブサイトをご参照ください。英語圏出身の(ALT)はJET参加者の多数を占めています。また、非英語圏出身の外国語指導助手(ALT)もいます。令和6年度にJETプログラムは世界51か国から参加者を迎えています。         

   ALTの参加人数(総計5,373)の詳細はこちら(2024年7月1日現在)

アメリカ合衆国 2,885、イギリス   702、カナダ528、フィリピン共和国 334、オーストラリア連邦264、南アフリカ共和国 181、ニュージーランド170 アイルランド104、トリニダード・トバゴ共和国69、シンガポール共和国51、ジャマイカ45、ベトナム社会主義共和国28    ドイツ連邦共和国20、以下略 https://jetprogramme.org/ja/countries/?utm_source=chatgpt.com