文章にリズムやイメージを

歌人の山田航の「『物語』にはどうもノレない」(朝日新聞1月23日朝刊)という文章がなかなか面白しろかった。「どうも私は散文を読むセンスが欠落している」書いている。私自身は 詩歌や音楽を理解するセンスの欠落しているので、この山田航氏とは真逆の位置にいるのであるが、「文章において一番重要だと感じるのがリズムや音韻、その次がイメージ」という指摘には、共感を覚えた。

私は若い頃は多くの小説を読んだが、齢をとるにつれ段々小説を読まなくなってきた。ストーリーを追うのが、齢とともに面倒になってきたせいでもある。「小説は、散文でストーリーを書こうとする」と山田氏は書いている。ストーリーは映像(ドラマや映画やマンガ)で見た方が理解が早い。小説は、時代の速いスピードについていけなくなったのではないか。

評論やエッセイはどうであろうか。それらは小説の核心部分を、短い鋭い(あるいは柔らかい)言葉で的確に指摘し、イメージを膨らませ、批判する。昔、文芸評論家の吉本隆明や江藤淳の文章の切れのよさやリズムに胸のすく思いをしたことがある。

さらに学術論文はどうであろうか。特に社会科学、人文科学系の学術論文について考えてみると、文章のリズムやそこから喚起されるイメージなどは重視されない。それよりは、論理性や実証性や方法論が重視される。したがって、学術論文を読んで、退屈さを感じても、楽しさを感んじたり、豊饒なイメージを膨らませたりすることはない。

「学術論文は、論理や実証性でストーリーを書こうとする」のではないか-これ自体正しい、価値あることとして誰も疑ってこなかった。しかし、それはそんなに価値のあることなのか。それより、感覚を刺激するリズムやイメージの方が大事という見方をしてみてはどうか。研究者もエッセイや詩歌で何かを訴えた方がいいのではないか、ーそんなことを山田氏の文章から考えさせられた。もちろんこれは極論で、受け入れられないと思うが、せめて研究者も書く文章にリズムがあり、読むと心地よく、イメージも膨らむものが多くなればいいと思う。

アメリカについて 教育の無力さについて

戦後の多くの世代にとって、アメリカ(合衆国)は、その経済的豊かさのみならず、社会の仕組み(特に民主主義)や文化も教育もまた人間性や倫理も尊敬や憧れの対象であった。そして、戦後の日本国民にとってアメリカ社会は目指すべきモデルであり、アメリカに少しでも追いつこうと頑張ってきた。

教育の分野でも、戦前の教育勅語のような封建的な考えではなく、アメリカの教育使節団の指導に導かれ、民主主義の精神を学び、市民的倫理的な人間形成を目指した。アメリカは、世界に先駆けて高等教育(大学教育)が普及した国であり、高等教育進学率は群を抜いていた。教育は、特に大学教育は専門的知識を教えるだけでなく、何ごとも疑い、権力に騙されることなく、自由に思考する批判的精神を教える場である。高等教育進学率と人々の民主主義意識や倫理観は相関し、アメリカは常に世界のトップにいた。少なくてもそのように、世界の人々は思っていた。ただ、アメリカのベトナム戦争や日米安保条約などは、アメリカの強権発動で何かおかしとは感じる人は少なくなかったが、全体としては、アメリカは模範とすべき国で、多くの人が、アメリカを研究し、学び、アメリカに留学し、その仕組みや思想や文化を学んできた。

それが、この4年間、そして最近のアメリカの惨状はなんということなのであろうか。アメリカ国民の半分以上がトランプ支持、差別意識も強く、倫理感もあるとは思えない。アメリカの教育、特に大学教育がやってきたことは何だったんだろうと疑問に思う。もう誰もアメリカの学問も文化も教育も模範にしようと思えず、アメリカに留学しようという気もおこらないのではないかと思う。これまで、アメリカの知識人やジャーナリズムが、一部のエリート意見しか代弁せず、それに対してアメリカの中下層の白人の意見をトランプが代弁してきたということもわからないではない。それにしても、日本のマスコミが伝えるトランプそして共和党、その支持者の人たちの言動は、私たちが、これまでにアメリカ人に対していだいていたものと全く違う。アメリカにいる進歩的な知識人たちが、トランプ政権に、有効な抗議をしたというニュースも聞こえてこない。アメリカに対する失望感は大きい。そして高等教育の一番普及したアメリカという国で、トランプ支持者が国民の半数もいるということに驚く。教育はそんなに無力なのかと。

追記 上記は、少し極端に書いたもので、別の側面もたくさんあるであろう。

アメリカの建国の歴史から考えたら、ことはそんなに単純ではないのだろう。内田樹の最近の講演「市民社会とコモン」を読むと(http://blog.tatsuru.com/2021/01/19_1043.html)、「トランプは典型的なリバタリアンです。リバタリアンにとって最も大切なのは「自由」」です。公権力が介入してきて自分たちの考えや行動を規制することに徹底的に抵抗する。」というように、トランプ支持者が「自由」を求めていた側面もある。 

日本の知識人の中にも、トランプ支持の人は少なからずいる(添付参照)。

 私も過去のブログで、アメリカの教育や大学の素晴らしさに関して、wisconsin での1年間の体験から書いている(2018年7月16日参照)

学生の為の大学

大学は最初「制度(組織)の為の大学」であり、次いで「教授の為の大学」になり、その後「学生の為の大学」であるべきと考えられてきた(リースマン,喜多村和之)。しかし、何が学生の為になるのかは学生自身がわかっているわけではなく、それを大学や教授が考えるということで、いつの間にか「学生の為の大学」は忘れられていったように思う。そのような中で、法政大学の田中優子総長の最近の「大学論」は、新型コロナ下の大学のあり方を、大学や教授の為ではではなく学生の視点から考えているように読める(下記、日経新聞より転載

時代劇の不思議 

今のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」もそうだが、時代劇を見ていていつも不思議に思うことがある。それは,上に立つもの(殿さま等)の生きざまが描かれ、武士の鏡のような潔い生き方で、負け戦とわかっていても筋を通すために戦い敗れ自害するあるいは討ち死にする姿がよく描かれる。そのドラマを観て、人々はその殿様の自分の信念に殉ずる真摯な生き方に称賛を送る。

私が不思議に思うのは、家臣たちとりわけ足軽で上の命令通り動かざる者たちが、殿様の意向に添い、無意味に戦い、次々と殺されていくことである。彼らにも意志や心はあるはずなのに、それは描かれず兵の数としかカウントされない。主君のこだわり(くだらない意地のことが多い)の為に、なぜ多くの人(兵)が殺されなければならないのかと思う。戦うのであれば、大将同士が、素手でも武器を持ってでもいいから戦い、それで決着を付ければいいと思う。(そのような西部劇はあったと思う。またウォーター・ヒル監督の『ストリート・オブ・ファイヤー』(Streets of Fire)(1984)もボス同士の一騎打ちで戦い、一人も死なない)

これは、近代以降の戦争に関してもいえて、多くの国民が、国家元首の意地の為に、殺し合いをする必要はないと思う。もちろん近代の戦争は、国の利害が絡んでいるのであろうが、その勝ち負けを決めるのに、総国民が戦う必要はないのではないか。元首同士が、拳銃の決闘でも、素手の殴り合いをすればいい。代役をたててもいい。何故そうしないのか、不思議である。その方が、よほど双方に損害は少ない。

何故、我々はトップに立つものが、多くの家臣や国民(住民)をその意向に関わらず戦わせ、死に追いやり、自分の信念や意地に殉ずるのを称賛するのであろうか。自分がただ殺されるだけの足軽や国民(住民)だと思わないのであろうか。時代劇の中でも、忠臣蔵は、主君の為に戦う家臣の苦しみや葛藤が描かれているのでまだましである。近代以降の戦争映画では、「プラトーン」が、将軍たちではなく、戦う兵士の苦悩を描いたという点で評価できると思う。

特別講義 佐藤邦政氏(敬愛大学准教授) ルソーの「子どもの発見」

私の敬愛大学後期の「教育課程論」は、私の講義ノートと授業資料を大学のサイトから学生に送付し、オンデマンドで行っている。送付するのは文字情報だけなので、学生にも飽きが来ているのではないとか心配している。そこで知り合いの若い研究者に動画で講義をしてもらい、その映像を配信することを2度ほどした。

その1回は、敬愛大学国際学部国際学科准教授の佐藤邦政氏で、教育哲学と英語教育が専門の新進の研究者である。最近『善い学びとは何か―<問ほぐし>と<知の正義>の教育哲学』(新曜社、2019)という著書も出されている。佐藤氏に「ルソーの『子どもの発見』」というテーマで、1時間弱の講義をしてもらい、その動画を配信し、私の方から3つの課題を出し、学生に解答(コメント)を書いてもった。受講生は70名(経済学部19名、国際学部51名、学年2年~4年)である。佐藤氏の講義から、学生は、ルソーの生きた時代(フランス革命前後)、ルソーの教育思想に関して深く学び、これからの教育や子どもへの対処の方法などいろいろ考えたことが、送られてきた解答(コメント)から伺われる。