3.11に思う

3,11の東日本大地震から10年が経過し、テレビや新聞の報道を多く見る機会があった。その感想を記しておく。① 津波が襲う映像や写真を見て、津波の恐ろしさを改めて認識。地震や津波に備えなくてはと気持ちを新たにする。同時に、自分は安全な場にいて地震や津波の映像を見るのは、どこか虚構の映画を観ているようで現実感が薄れていく。気を付けねば。② 津波から一早く高台に逃げて全員の児童が助かった釜石の小中学校と、大人の責任で多くの児童が犠牲になった大川小学校の対比は忘れられない。後者は、日本の学校の形式主義、集団主義、上位下達、保身主義の犠牲としか思えない。大川小学校の例はあまりに悲惨でありやるせないが,そこからから学ぶべきことは多い(下記参照)。③ 福島原発の廃炉が進まず、地元に帰れない避難者も多くいる。それらを忘れ、原発問題が風化しているのが気になる。

東北への支援を続けている敬愛大学では、2月20日に大川小学校に通っていた娘を亡くした語り部の佐藤敏郎氏の「東日本大震災から学ぶ私たちの未来 ~満10年を迎える東北の被災地に私たちが学ぶべきこと」という講演会を開催している。私もWEBであるが、視聴した。とても心打たれる講演会でいろいろなことを学んだ。

https://www.u-keiai.ac.jp/keiai-topics/shinsai10lecture/

佐藤敏郎氏が代表で作った「小さな命の意味を考える」(https://smart-supply.org/img/store/chiisanainochi/chiisana_inochi_2.pdf)という冊子に、震災当日の子どもたちの様子、保護者の無念さ、その後の教育委員会の対応、「大川小学校事故検証委員会」や教育委員会がいかに保身に走っているのかがわかり、子どもを亡くした保護者の怒りと無念さが痛いほど伝わってくる。「事故検証委員会」の報告は客観性が乏しいだけでなく、これでは犠牲になった子どもたちの魂は救われない。それらを指摘したこの冊子(「小さな命の意味を考える」)は、教育関係者が心して読むべきものと思った。

Ado『うっせぇわ』を聴く

今子どもたちの中で、どのような曲が流行っているのかよくわからない。でも小学生や幼稚園生などが口ずさんでいる歌に「鬼滅の刃」の主題歌の他に、Adoが歌う『うっせぇわ』があるという。You tubeで聴いてみた。

歌詞は若いサラリーマンの鬱屈した心情を歌ったもののような気がするが、繰り返して歌われる「うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」の歌詞とテンポのよさが、小さな子どもにも受けているのかもしれない。また、幼い子どもたちも、親や先生たちに、毎日同じようなことで言われ叱られ、「うっせぇ うっせぇ うっせぇわ」と感じ叫びたがっているのかもしれない。

歌手のAdoと『うっせぇわ』の解説もネットから転載―「上司から散々常識を押し付けられても勇猛果敢に抗っていく部下の姿が凝縮された『うっせぇわ』。一見、社会人経験皆無のAdoには、無縁のストーリーのようにも思えるが、ひたすら信念を曲げることなく必死に立ち向かっていく点では重なっている。そして何より、血の滲むようなAdoの叫びがダイレクトに聞こえてくる曲でもある。」(https://www.universal-music.co.jp/ado/usseewa/

宇佐美りん「推し,燃ゆ」を読む

最新の第164回芥川賞を受賞した宇佐美りん「推し,燃ゆ」を読んだ。 不器用で何事にもうまくいかない(家庭に問題があり、高校にも適応できず退学する)少女がアイドルへの「推し」で、自分の肉体や心の痛みを浄化する物語である。

(アイドルへの)「推し」というのは、「片思い」の一つのバリエーションかもしれないと思った。多田道太郎が言うように「それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢をみることである。自分だけの夢、自分だけの『オリジナル』を夢みることである」(『管理社会の影』₍日本ブリタニカ、1979年)。もし,ほんとうのオリジナルである「推し」の彼が目の前に現われ「付き合おう」と言われれば、彼女は「それは違う」と言うであろう。(以下、宇佐美りん「推し,燃ゆ」より一部転載)

「見返り求めているわけではないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけではない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからでなんだろう。あたしだって、推しの近くにずっといて楽しいかと言われればまた別な気がする。もちろん、握手会で数秒言葉をかわすのなら爆発するほどテンション上がるけど。携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない。一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを賭けてのめり込むとき、一方的であるけれどもあたしはいつになく満ち足りている」(『文藝春秋』 2021.3月号、376 頁)

その文章は、「確かな文学体験に裏打ちされた文章」(山田詠美)、「リズム感の良い文章」(松浦寿輝)、「文体は既に熟達しており、年齢的にも目を見張る才能」(平野啓一郎)、「レディメードの文章の型を踏み外してゆくスタイル」(島田雅彦)と、芥川賞選考委員から絶賛されるもので、読んでいてそのリズム感が心地よい。 「寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言ってもいいほど新味がなく」という平野啓一郎の批判もあるが、芥川賞としては久々のこの賞にふさわしい、今後に期待される新人が選ばれたと思う。

菜の花が満開

千葉市にはまだ自然が残っている。ただ財政難なのか自然が手つかずで放置されているところも多い。家から車で10分のところにある花島公園の下を流れる花見川沿いは、いい散歩道・自転車道になっているが、川べりは雑草が生い茂り、夏草が枯れたままになっていて風情もない(下記添付写真参照)。ただ川べりの一部に小学生が種を植えたという菜の花が今満開で、散歩が楽しめた。

 その菜の花を見ながら、今朝you tubeで聴いた曲(南沙織が吉田拓郎と「菜の花をあなたに摘んであげたい」という歌う曲「春の風が吹いていたら」)が耳の奥で鳴った。。(https://www.youtube.com/watch?v=sFSa-oJnM7E