コストコと海

此のところ千葉も天気がはっきりしない。昨日の天気予報は、千葉も夜は大雪とのことであったが、朝起きてみると雪はなく、地面が雨で湿っている程度。4~5日前に降った雪が庭や道端に残っている。それ以前は、2週間近く晴や曇りで、雨が降らなかったので、雨や雪は植物にはありがたい。

10枚ほどの原稿(書評)を今日送ったし、春休みでやることもなく、家人のコストコへの買い物についていく(車で15分)。海浜幕張のコストコは以前は幕張メッセの駐車場近くにポツンと建っていた感じであるが、数年前に周囲に巨大なイオンタウンが出来て、賑わっていた。中は相変わらず倉庫のようなスーパーだが、アメリカ的な雰囲気で、人気は衰えていないようだ。

帰りは、検見川浜の方に回り、海に突き出している桟橋を散歩した。風があり少し寒い。幕張メッセ、マリンスタジアム、海浜幕張のビル街、幕張ベイタウンを遠くから眺めた。桟橋には釣り人もいて、ちょうど40センチほどの魚が釣れて、「よかったら持っていきませんか?」と親切に言われたが、生きている魚が気の毒で、丁寧に断って、海を眺めた。このあたりは、自然というよりは、人工の街、人工の海浜だが、スッキリしていて、こころが落ちつく。

応援(団)のいかがわしさ

オリンピックの競技とその結果と、その後のインタビューをテレビで観ていて、若い選手(特に若い女子アスリート)が皆の期待を一身に背負い、かなり辛い思いをしているのを知り、心痛めてしまう。

 スキー女子モーグルで、惜しいところで決勝まで進めなかった住吉選手が、準決勝で落ちた後のインタビューで言葉を詰まらせ、「これまで、辛いことばかりで、何のためにスキーモーグルをやっているのか、何のために生きているのか、わからなかった」と涙を流しながら答えていました。

AERAの記事でもその点が指摘されていた。<海外に駐在する日本人記者は「日本では選手がメダルを逃して謝罪する光景が多すぎる」と指摘する。「原因としてはメディアがメダル獲得を煽りすぎている部分もあると思います。もちろん、選手たちは金メダル獲得を狙って血のにじむような努力を積み重ねていますが、五輪でメダルを逃すと、お通夜のような雰囲気でアスリートを謝罪に追い込むような環境を作っているように感じる。欧米では、五輪でメダルを獲れなかったかといって選手が責任を過度に背負い込むことはない。試合に負けた後のインタビューで選手たちは敗因を分析しますが、謝罪する光景は皆無に近いです」 昨年行われた東京五輪で、「ニューヨーク・タイムズ」電子版が「金メダルにおよばなかった日本人選手たちは、銀メダルを獲得しても執拗に謝罪する」というタイトルの記事を8月5日に報じて話題になった。(安西憲春)https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb

副田義也先生の「応援団的人間像の研究―日本人論の間奏曲」(『遊びの社会学』1977年収録」)には、日本人特有の応援する人の「脇役の主役化」や「応援のいかがわらしさ」(他人の酒で酔っ払い、大言壮語を常とする人間のいかがわしさ)が、的確に指摘されている。

追記 新聞の関連記事を転載

 北京五輪ジャンプ混合団体で、スーツの規定違反で失格となった高梨沙羅選手は、SNS上で「皆様を深く失望させる結果となってしまった事、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪した。/日本選手はなぜ、わびるのか。/ オーストラリアと韓国は前向きで、オーストラリアは「興奮」「すごい」「やった」などの喜びを表す言葉、韓国は「ひざが割れても必ず勝つ」「負けないという自信」など、必死さやそれを乗り越えた自信を表す言葉が多く見られました。一方、中国と日本はネガティブで、中国は「訓練」「犠牲」「重圧」など苦しみの表現が多く、日本は「金メダル以外は(負けと)同じ」など自分に対する厳しい言葉が多いのも特徴でした。/ 日本人にとってわびることは、一種の「クッション」のようなもので、円滑なコミュニケーションにつなげようという意識の一つだと思います。/ 言語学には「ポライトネス理論」というのがあります。人間関係の距離を調整するための言語的な配慮のことを指します。 ポジティブとネガティブの二つの概念があって、ポジティブは、他者から称賛されたい、好かれたいという欲求で「自己主張」的なものも含まれます。 一方ネガティブは、他者から距離を置きたい、関与されたくないという欲求で「おわび」的なものも含まれると言っていいでしょう。 欧米ではポジティブが多く、敬語がある日本やほかのアジア諸国はネガティブが多いと言われています。/ 「私は頑張りました」みたいに言い切ってしまうと、ちょっときつい印象を与えます。「何をえらそうに。謙虚さが足りない」と受け取る人が出てくるので、好まれないというのがあると思います。 ――高梨選手がSNS上で謝罪したのも、そういう受けとめをしやすい「SNS世論」があるのではないかと感じます。(朝日新聞、2022年2月19日 より一部転載)

絵について

音楽と同様、絵に関しても、私には素養がない。育ちが影響しているのかもしれない。小さい頃に音楽と同様、絵をみたり美術館に行った記憶がない。大人になってからでは学ぶのに遅すぎることがあるのであろう。

大人になってから見に行って唯一感銘を受けたのは、船橋の西武百貨店の催し会場で開かれていた宮城まり子の肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」の子どもたちの書いた絵を見た時である。何かわからないがその圧倒的な迫力(生命力?)に圧倒されて、息をのんで絵に見入ったことがある。今も掛川の美術館に「ねむの木学園」の子どもたちの絵が展示されているという。近くに行く機会があれば是非見てみたい。

これは、(ネットで見ただけなのでその実際はわからないのだが)、藤原新也が紹介している丸木スマの絵は、同じような生命力に満ち、衝撃が受けるものなのかと思った。こちらもいつか見てみたい。

「丸木スマという人は原爆の図を描いた丸木位里の母親であり画家というより七十歳を過ぎて突然絵を書き始めたへんてこりんな人である。この天心乱漫な絵、そろそろコロナ明けの近い春の陽気の中でしばし楽しんでいただきたい。」(藤原新也)。「どの絵からも生命力が溢れていますね。」「スマさんの画風は、生きていることの悦びの心象風景という感じで圧倒されます。丸木スマさんの絵。シャガール?と思いましたが、むしろゴーギャンかな。船長の絵とも似たところがありますね。」(会員)

https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/suma/
https://www.bing.com/images/search?q=%e4%b8%b8%e6%9c%a8%e3%82%b9%e3%83%9e&qpvt=%e4%b8%b8%e6%9c%a8%e3%82%b9%e3%83%9e&tsc=ImageHoverTitle&form=IQFRML&first=1

大学での講義と私語について

同世代の元大学教師のN氏が、私が以前に「敬愛大学国際研究30号」(2017年)に書いた「学生、大学教育、学問他についてー教育社会学からの考察」(下記、再掲)を、読んでくれたようで、電話で大学の授業での私語のことが話題になった。N氏は私が「大学の授業という場で、私語やスマホいじりが頻繁にみられる」(110ページ)と、書いたのが気になったのであろう。

 N氏は、授業の初回に学生に、「良い授業をする、私の授業を真剣に聴かなければ、皆さんが損をする、私語・内職や居眠りなどを禁止する」と明るく宣言するという。そのことは自身に「相当なプレッシャーを与え、頑張るエネルギーになり、自分にもいい授業を行うことを課し、学生の為になる授業をやるように努力する」という。このように授業の最初にきちんと教員の意向や意気込みを話すと、以後の授業ではほとんど私語はないという。もっともN氏は博学の方で著書や論文の多い研究者なので、その講義内容は密度の濃いものだと推察される。同時に落語が好きで、落語から話し方や間の取り方を学んで、それを自分の話し方も取り入れたという。

私の授業観や実際の授業はN氏のものとはかなり違っていたと思う。「私のこれまでの大学での教員人生を振り返ると、とにかく書かれた優れた資料を探して、それの説明に終始してきたように思う。話し方を工夫したこともない。内容さえすぐれていれば、学生はそれに感銘を受けると考えてきた。」と以前のブログに書いたことがある。つまり話し方に工夫が必要とあまり感じたことがなく、その改善の努力もしてこなかった。学生はさぞ聞きづらく、退屈だったのであろう。

私の教室での講義は、どこでもかなり私語が多かったのではないかと思う。上智大学時代の「教育社会学」の講義では、聴講している学生の中で私のゼミ生のおしゃべりが一番多い時もあり閉口したことがある。少人数の講義より、かえって上智全学から受講者が300人以上いた「教育原論Ⅱ」の授業の方が、私語がなく静かであった。

私の私語観は、「現代学生の私語」と題して「IDE・現代の高等教育」(NO323、1991)に書いたことがある(下記参照)。それを読んだ同僚の先生から、「学生に甘すぎる」と批判されたものである。今,読んでもあまり意見は変わっていないので、今私が大学で講義をしたら相変わらず私語が多くなることであろう。

追記 私が大きな影響を受けた研究者のひとりに作田啓一がいる。作田啓一の著作は何度も読み返した。ただ、教えを受けたこともなく、面識もない「師匠」である。武蔵大学のゼミで作田啓一の「価値の社会学」(岩波書店)をテキストにして、作田啓一がいかに素晴らしいかを力説したことがある。ゼミ生のひとりが京都に行った折、京都大学の作田啓一の授業に潜る込み聴講してきて、その様子を報告してくれた。「ぼそぼそと小さな声でしゃべり、ほとんど聞き取れなかった」とのこと。本の文章は緻密で明晰なのに、話はひどいのかと思った。そのことで、氏への尊敬が薄れたことはない。

ウイズ・コロナの時代の教育

 「教育再生実行会議 第12次提言」(令和3年6月)には、「ニューノーマルにおける新たな学び」「遠隔・オンライン教育の推進」というキーワードが掲げられている。新型コロナの終焉が見えない中で、教育の当たり前を見直し、デジタルを利用して新しい学びの形態が模索されている。

 一斉教育、チョークと黒板、紙の教科書、学校行事、部活動が当たり前の学校教育から、デジタル教科書、遠隔教育、個別最適化などを取り入れた教育方法への転換が試行されている。

しかし子ども一人一台の情報端末を配布すれば、デジタル教育が進むわけではない。それには学校のデジタル環境の整備、教員の研修と意識の変革、家庭のデジタル格差の是正、教育の実践の積み重ねとデータでの検証が必須である。

学校の当たり前の見直しも必要である。学校に通うことは全ての子どもに必要なことなのか。遠隔でできることはないか、無駄な学校行事はないのか、部活動を外部化できないかなど、この機に学校生活の当たり前を見直し、過密を避け、多忙化している教員の負担も減らしたい。

 将来の社会生活を考えると小中学生にはリアルな対面指導や学校生活の重要性はなくならない。高校生大学生になると社会性も育っているので、デジタルを利用した遠隔教育も有効である。遠隔教育を経験した大学生の声をいくつか紹介する。

 「(対面教育)ならではの緊張感、表情が見える教育、人に会う苦痛やストレスの耐性を付ける。(遠隔教育で)通学時間が省ける、人に会うという苦痛から解放される、自分のペースで学習できる、私語やスマホに気を取られず集中して学べる、自分の意見を主張しやすい。対面と遠隔の両方を組み込むのが最適」など(敬愛大生)

 人には環境の変化に対して動的に応じていくレジリエンス(適応能力)がある。それは環境の変化に対して自らを変化させて対応する柔軟性である。これを駆使して難局を乗り越えたい。(『内外教育』2022年1月25日号、原稿)