DXについて

英語の単語の略で何かを語られる時、その意味が何かを理解するまでに時間がかかることがある。ましてやその略号が、英語の何の略なのかわからないと、余計に混乱する。最近(学校)教育DXという言葉がよく使われるが、そのDXとは何のことなのか、何の略なのかがわからず、戸惑うことが続いた。皆理解しているようなので、今更聞くのも恥ずかしく、ネットで調べて、やっと了解した。 以下、その転載。

DXは、デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation)の略です。「DT」ではなく「DX」と表記されるのは、英語圏では交差するという意味を持つ「trans」を「X」と略すことがあるためといわれています。DXという言葉を最初に用いたのは、スウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授です。2004年に発表した論文の中で同氏は、DXについて「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」と記述しています。また、経済産業省は、2018年12月に発表した「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)Ver. 1.0」において、DXを下記のように定義しています。「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」https://www.smbc.co.jp/hojin/magazine/planning/about-dx.html

DXとは、データとデジタル技術によって商品やビジネス、業務、企業文化等の変革を成し遂げるものであり、その目的は競争力の維持・獲得・強化を果たすことにあります。/デジタイゼーションとの違い-これまで、アナログで行ってきたビジネスプロセスのデジタル化を意味する「デジタイゼーション」は、DXそのものを指すものではなく、あくまでDXを実現するためのステップのひとつです。これまで紙を用いて作成していた書類をデジタル化して共有するようにしたり、連絡手段としてメールやチャットツールを使用したりすることもデジタイゼーションの一種です。デジタル技術を活用して業務効率化やコスト削減を実現することが目的となります。(https://www.smbc.co.jp/hojin/magazine/planning/about-dx.html)

したがって、学校教育DXに関する理解は、下記のようになるであろう。
PCの端末、タブレットが子ども一人に配布されたということは、それはあくまで文房 具の1つで教育の方法が少し変わるだけなのか、それとも学校教育の仕組みそのものが 大きく変わるDX(Digital Transformation)なのか、この議論が必要である。

春のチューリップ

桜の季節が終わると、次はサツキやバラそして紫陽花の季節になる。その間に、菜の花、パンジー、ポピー、チューリップなど小さめの草花が綺麗で、楽しませてくれる。

昨日(9日)は、「佐倉ふるさと広場」(https://www.city.sakura.lg.jp/sakura/tulip/)にチューリップを見に行った(車で30分)。広い畑に多くの種類のチューリップが咲いていた。その種類は80種にもなり、周囲には桜や菜の花も咲いていて、風車もあり、春を楽しんだ。

500円で畑から好きなチューウリップを10本(JAFの会員は15本)自分で選んで球根から掘り持ち帰ることができる。30本のいろいろな種類のチューリップを持ち帰り、庭に植え、近所にも配り、春の訪れを楽しんだ。

第1印象や先入観の固定化について

第1印象や先入観は固定化する傾向があると思う。その後の事柄の解釈は、第1印象や先入観を補強するような形で働くのではないか。昔アメリカ人のベトナム戦争への見方は、ベトナム戦争の進行と共に、推進派はますます推進の意見に、反戦派はますます反戦の意見になっていったという。同じ戦争の進行の事実を見ても、最初の見方によって180度違ってしまう(ロシヤのウクライナへの侵攻に関しての見方に関しても同様であろう)。さらに定着した制度に関しては、その反対の制度に理解を示すのはなかなか難しい。

 日本の学校では、教室で一人の教師が多くの児童生徒を一斉に教える一斉指導が、明治以来制度と定着している。したがって、そうでない「個に応じた指導」やオープンスクールを,1971 年にアメリカの学校で視察した日本の教師は、その教育方法が全く理解できなかったという(加藤幸次『個別最適な学び・協働的な学びの考え方・進め方』(黎明書房、2022.3,pp22-23)。一斉指導が慣習化した日本の教師にとって、児童・生徒が個別に学ぶという発想は皆無に等しい。

村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』(文藝春秋2014年)を原作とした映画がつくられ、アカデミー賞(国際長編映画賞)を受賞し話題になっている。(https://dmc.bitters.co.jp/?msclkid=cdb72c3cb54111ecb5b4eede9e4e2a98)ただ、映画は原作とはかなり違っているという。それだと、原作を読むのが先か、映画を見るのが先かがなり悩ましいところである。きっと、先に見た方が先入観として残り、その観点から残りの方を見る(or読む)と思う。私の場合は、既に小説は読んでいるので、映画は見るべきかどうかは迷う。

私の小説への感想は、あまりいいものでなかった。車を運転する女性に関する描写や、役者(俳優)の心理に関しては興味深い指摘がたくさんあったが、この小説のメインテーマである亡くなった妻(女優)が、生前つまらない男に惹かれたのは何故だろと悩む主人公の心理はあまり理解できなかった。

この映画は、原作の小説「ドライブ・マイ・カー」だけでなく、村上春樹の他の作品も取り入れ、春樹ワールドを描いているのという解釈もあり、映画が原作を逸脱して優れたものになっているのであれば見たいと思った。

村上春樹がこの本(『女のいない男たち』)のまえがきに書いていることであるが、氏は出版社から依頼されて原稿を書くことはしない。自分のペースで小説を書き、書きあがったら出版社を探すと述べている。多くの作家は依頼されて小説を書くのであろう。

大学の研究者も、原稿を依頼されて書くことが多いのではないか。それで、大学を退職して原稿の依頼が来なくなると執筆も研究も辞めることになる。内田樹の言うように、社会から何の期待もないランティエ(年金生活者)や高等遊民には、知的ムーブメントを牽引する力がある(あった)とすると、研究者が依頼されて原稿を書く(研究をする)という慣習は、村上春樹を見習い、少し考え直した方がいいかもしれないと思った。

「深い学び」について

文部科学省の「主体的対話的で、深い学び」のうち、「深い学び」に関していろいろ議論されているが、次のようなことは含まれているのだろうかと、内田樹氏の、最近のブログを読んで思った。それは、具体的な事柄から、その背後にある歴史的な事象や普遍的なパターンを見出す、という学びである。

内田氏は、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』の具体的な一場面から、旧世界の貴族やランティエ(年金生活者)たちの「ノブレス・オブリージュ」のモラルを蹴散らして登場してきた20世紀初頭の新興勢力の貨幣と軍事力による支配への移行を読み取っている。このような読みこそ「深い学び」の中核ではないのか。氏は下記のように、書いている。

<勤め先がなく、扶養家族がなく、小金を持っている。そういう人たちが19世紀末まで、ヨーロッパにおける知のフロンティアを担ってきた。この「暇人」階層こそ、ヨーロッパ近代における芸術的な、あるいは学術的なイノベーションの温床だった。そういう諸君が文学作品を書いたり、その登場人物であったり、あるいはその読者であったり、批評家であったりした。彼らが、ヨーロッパにおける「何の役にも立たない」ような各種の知的ムーブメントをほとんど独占的に牽引していた。そういう社会的な階層が長期にわたって存在していたのです。それが第一次世界大戦の勃発と同時に消滅します。インフレで貨幣価値が一気に下落したからです。/カズオ・イシグロに『日の名残り』という話があります。これは一九三〇年代の話。大戦間期に、イギリスの貴族がドイツやフランスの要人たちとひそかに連携して、戦時賠償で苦しんでいる敗戦国ドイツを救おうとする。そういう古いタイプの政治家たちが集まって密談しているところに、アメリカからの来客である上院議員が登場します。彼は集まった上品な政治家外交官たちに向かって、冷たくこう言い放ちます。「ここにおられる皆さんは、まことに申し訳ないが、ナイーブな夢想家にすぎない。(・・・)上品で、正直で、善意に満ちている。だが、しょせんはアマチュアにすぎない。」「諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか?高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。ただ、ヨーロッパにいる皆さんがそれを知らないだけの話。・・・)ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです。」(カズオ・イシグロ、『日の名残り』、土屋政雄訳、早川書房、2001年、147-8頁) これからは軍事と金のリアルポリティクスの時代である。もう、あなたたちのような貴族同士の信義とか友情とか、そういうことで外交ができる時代は終わった。アマチュアは政治の世界から出ていきなさい。上院議員はそう一喝します。 僕は『日の名残り』というのは、執事とメイドの控えめな恋の話だと思って気楽な気分で読んでいたのですが、実はなかなか深い政治史的転換が物語に副旋律を奏でていたのです。>(「内田樹の研究室」「危機の危機」http://blog.tatsuru.com/2022/03/28_0812.html )