紙媒体(本や雑誌等)の扱い

紙媒体の本や紀要、抜き刷り、雑誌、漫画、新聞の読んだ後の取り扱いや保管を、他の人はどうしているのだろうか。少し気になりだした。

昔、副田義也先生が大学の研究室の本棚に少年マガジンの毎号をきちんと並べてあったのが、全共闘の学生が研究室に押し入り滅茶苦茶にされたと書かれていたのを読んだことがある。漫画の研究もされていた副田先生にとって、毎週発売される漫画雑誌は貴重な研究資料であり、本棚に保管されていたのである(A)。一方、同じような時期に書かれたものだと思うが、子ども研究に詳しい先輩の近藤純夫氏が、電車の中で少年たち数人が買ったばかりの1冊の少年漫画雑誌をバラバラに寸断し読んでいる光景に接し、少年達にとって漫画雑誌は本ではなく、単なる印刷物であり、バラバラにして読み捨てられれるものであることを指摘していた(B)。このAとBでは、紙媒体の扱いが対極に位置する。

私達の紙媒体のものに対する意識や扱いは、今や後者のBに近くなっているのではないか。それにはデジタル化の影響もあると思う。Aのように、一度読んだものは、大切に保管し、繰り返し読む(新聞の場合はスクラップを作る。漫画の場合は単行本を買う)のがこれまでの紙媒体に対する扱い方であったが、今はスキャンしてデジタルで保管するか、一度読んだら(あるいは読まなくても一瞥したら)後は捨てるという方法をとるようになっているのではないか。本や紀要や冊子や雑誌も、新聞と同様、即(そく)捨てられる運命にあるのではないか。

今のテレビで紹介される贅沢を尽くした素敵なデザイン、インテリやの家や別荘も紙媒体の本の姿はほとんど見ない。本のない生活は、スッキリとして快適というのが、これからの理想の住まいと考えられえているような気がする。「どんなに意匠を凝らした建築や部屋でも本(棚)がおかれていないと貧相に見える」(2022年1月25日、ブログ)などというのは、旧世代の感覚になりつつあるよう思う。

武内清『教育、大学、文学、ドラマ、日常―教育社会学的考察‐』(2022.9)について

この夏の暑い時期に、新型コロナで旅行もできず、テニスも卓球もできず、暇で、これまで書いたブログの文章を、テーマごとに少しまとめ(並べ替え)、1つの冊子にしてみた。これは編集を通さない手作りの冊子(印刷と製本は印刷屋に依頼した)の為、私のいい加減さもあり、誤字、脱字などの誤りもいくつか見つかっている(下記)

正誤表 ; 57ページ 11行目、13行目 大学教育 → 大学研究 /  64ページ 下から3行目~ 65ページ 2行目まで → 削除 /  73ページ  6行目 ようである。→ 削除 /  106ページ106ページ  6行目   振替え → 振り返っ

その配布目的は、3つあって、一つは、敬愛大学での後期の授業(「教育社会学」)の授業資料、2つ目は、研究者への情報(というよりは視点)提供、3つ目は、定年退職者同士の話題提供。

冊子の全体は、10章からなる。これまで、このブログでも一部公開してきた。今回は、「X 定年後の生活 自分史」を掲載する。

昔の写真

少し自分の部屋(書斎)を片付けようと、いろいろな書類を整理していると、昔の写真が出てきて、それに見入ってしまい、片付けが進まない。

今からもう12年前になる2020年2月20日という日付の入った1枚の写真が出てきた。大学の食堂で私も含め8人が立って並んで写っている。私が上智大学の退職時の懇親会の時のものである。退職時のドタバタや当日のことをいろいろ思い出される。それにしても、一介の専任教員の退職時の懇親会に、学科の同僚の先生方だけでなく、理事長、学長、副学長まで出席してくれるなんて、上智大学は何と教員思い大学なのかと、昔の写真を見て、改めて感謝する。

また、教え子のライターが、私の上智の研究室に来てインタビューし、その時の写真をブログに載せているのを最近送ってくれた (https://crystalaki.exblog.jp/347148/)。四谷の高層の階にあった景色のよい研究室と、そこでのいろいろなことを思い出す。(これ以上、過去の思い出にふけると危ないのでやめておこう)