高等教育研究について

大学の運営に何らかの関わりがなくなると(それが教授会や学科会議程度の関りでも)、大学や高等教育への関心が沸かなくなる。大学の偏差値や知名度やランキングにも関心がなくなっている。学会発足当時から参加していた「日本高等教育学会」の会員も一昨年やめてしまった。忘れないうちに、過去に書いた高等教育関係の本、論文や報告書を記録にとどめたい。

Ⅰ 論文、本

武内清編『キャンパスライフの今』玉川大学出版部、2003年/ 武内清編『大学とキャンパスライフ』上智大学出版、2005 年/ 武内清「学生文化の実態と大学教育」『高等教育研究』第11集、2008年 /  武内清『学生文化・生徒文化の社会学』ハーベスト社、2014年/ 武内清・浜島幸司「学生の変化と学生支援」『東北大学高等教養教育・学生支援紀要』第4号、2018年

Ⅱ 報告書 (科研費関係)

1 武内清(研究代表)『学生文化の実態,機能に関する関する実証的研究』平成(8~10年度科研究費(基盤研究(C)、報告書、平成11年2月。/ 2 武内清(研究代表)『学生のキャンパスライフの実証的研究-21大学・学生調査の分析-』平成16~18年度科研費(基盤研究(B))中間報告書、平成18年2月。/ 3 武内清(研究代表)『現代大学生の生活と文化 ー学生支援にむけて』平成16~18年度科研費(基盤研究(B)最終報告書、平成19年2月。/ 4 武内清(研究代表)『大学の「教育力」育成に関する実証的研究-学生のキャンパスライフからの考察』平成19~21年度 科研費(基盤研究(B)中間報告書 平成21年3月。/ 5 武内清(研究代表)『現代の学生文化と学生支援に関する実証的研究 -学生の「生徒化」に注目して』 平成24~26年度 科研費(基盤研究(C)報告書 平成 27 年 2月。

冬の房総(内房)を楽しむ

寒い冬は、空気が澄んで、千葉でも海や海の向こうの富士山が綺麗に見えることが多い。今日(1月7日)の朝は、明け方に降った雨もやみ、天気がよくなりそうなので、車で内房に出かけた。

最初に、穴川インターから高速に乗り、館山道を君津で降り、一般道を少し下り、いつも行く天羽の別荘地から海を眺めた。相変わらず見事な眺めの別荘地だと感心する。風もなく海は静かだが、富士山は雲に隠れ見えなかったのが残念(下記写真)。

さらに一般道を南下し鋸山の少し先の漁師の人がやっている小さな店で、お昼の定食を食べる。お刺身、天婦羅、アジのたたきなど新鮮な海の幸が美味しかった。

少し道を戻り、金谷港より「東京湾フェリー」に乗る。車を金谷港の駐車場に置き、金谷―久里浜の往復遊覧を楽しむ。これだと往復90分のフェリーの遊覧代が一人1150円と格安。4階建ての大きな豪華なフェリー船で、天気もよく風もない中を、東京湾と房総半島と三浦半島の眺めを楽しんだ。房総半島を三浦半島側から見るのは初めてかもしれない。乗っている人は少ない。キャバリヤ犬も乗っていて、昔の家の犬(ソフィー)を思い出す。外は海の風で少し寒く、客室は暖かい。船が金谷港に戻ると、ちょうど夕日が沈むところで、夕焼けが綺麗で、富士山も少し見えた。(遊覧船と夕日の景色は下記をクリック)。今年も、いろいろなところの景色や自然や花が楽しめると嬉しい。

民主主義について

今の国際情勢や民主主義の危機に関して、佐伯啓思氏の論稿「民主主義がはらむ問題」(朝日新聞2022年12月24日朝刊)は、リアルとフェイクの関係に言及していて、興味深い。民主主義は享受するものでなく、人々が日々努力して獲得、維持すべきものであろう。一部転載する。

<戦後の英国を代表する保守派の政治哲学者マイケル・オークショットがかつてこういっていた。現代の大衆は、「幸福を追求する権利」など求めてはいない。彼らが求めているのは「幸福を享受する権利」だけである。人々が政治に求めるのは、「幸福を追求する」ための条件ではなく、現実に「幸福を享受すること」なのである。/ 人々は、政治に対して「安全と幸福」の提供を要求する。その結果、人々は、安全と幸福を与えてくれるような強力な「護民官」的な指導者を求める。/ 人は全体主義や権威主義を批判し個人の自由を主張するが、逆に自分で自分の人生を選択し、そのことに自分で責任をもつのは面倒なのである。/ みなが平等なはずなのに自分が不幸なのは、どこかに利益をむさぼる既得権益者がいるからであり、政治家はこの既得権益者をこそ敵とすべきである、と主張する。こうした社会全般に広がる鬱積(うっせき)(ルサンチマン)を背後において強力な大衆政治家が出現する。/ 民主主義の理念が「討議による政治」であり、少数派への配慮が必要とされるのは、何が真理であるかは誰にもわからない、という前提があるからだ。/ こういう価値相対主義こそが民主主義の根本的な前提をなしている。/ 絶対的な正義や正解が誰にも分からないとなれば、政治の言説もメディアの言説もすべてフェイクといえばフェイクということになろう。/  政治的な公約や言説は、多かれ少なかれ、世論形成へ向けた効果やパフォーマンスと切り離せなくなる。/ 今日、経済は行きづまり、将来の展望は見えない。すると人々は政治に対して過大な要求をする。「安全と幸福」を、言い換えれば「パンとサーカス」(生存と娯楽)を求める。政治は「民意」の求めに応じて「パンとサーカス」の提供を約束する。/ しかし、にもかかわらず経済は低迷し、格差は拡大し、生活の不安が増せば、人々の政治不信はいっそう募るだろう。そこに、わかりやすい「敵」を指定して一気に事態の打開をはかるデマゴーグが出現すれば、人々は、フェイクであろうがなかろうが、歓呼をもって彼を迎えるだろう。こうして民主主義は壊れてゆく。民主主義の中から強権的な政治が姿を現す。/ この閉塞感の中で、西側の民主主義国は、ロシアのウクライナ侵略を契機に、この戦争を、民主主義と権威主義の戦いと見なし、「権威主義の軍事的拡張から平和愛好的な民主主義を守れ」という。もちろん、そのことを否定するつもりはないのだが、それにしてもこれはいささか民主主義に都合のよい作り話、つまり一種のフェイクにも聞こえる。/ 権威主義の脅威を掲げて民主主義を擁護するだけでは、民主主義がはらむ問題からわれわれの関心をそらしかねない。それ自体がはらむ脆弱さによって自壊しかねないことを知っておくべきであろう。>