「生徒文化」について

昔生徒文化や青年文化が自分の研究テーマで、それらに関心があった時は、それらに関する情報を集め、青年の聴く音楽や小説や漫画や映画も努めて視聴するようにして、青年文化や生徒文化への内在的理解を深めた。それが歳と共に共感が不可能となり、この分野の研究はもう自分の歳では無理だなと思うようになった。

今年の敬愛大学での「教育社会学」の授業では、1回分を「生徒文化について」と題して、過去の生徒文化の理論や事例をあげ説明した(添付「講義メモ」参照)。それに対して、今の学生諸君がどのように反応してくるか、興味があった。その解答(コメント)読むと、意外と「生徒文化は昔と変わらない」という意見が多かった。ただ、下記のような新しい面の指摘もいくつかみられた。(受講学生の約半分の解答(コメント)を添付で掲載しておく)

現代の「生徒文化」の特質(学生のコメント)

1 クラスの中心的存在で明るい性格の子達のグループの集まりである「陽キャ」とおとなしめの性格の「陰キャ」に分けられる。2 ヤンキーグループはなかった。オタッキーグループは2種類あった(アイドルについてとアニメや漫画、声優についてなど)。 3 今思うと、いわゆる「陽キャグループ」「一般グループ」「オタク系グループ」「静かグループ」と分かれていた。 4 中高生で所属していた型は、ある程度成長してもそのままであることが多い 5 大学には「タバコグループ」がある。6 疑似(会社)社会のような生徒文化があると思う。7 生徒(子ども)が学校生活を安全に楽しくするためや優越感が欲しいがために生じるのではないか。8 その人たちにしかわからない雰囲気や、ノリがある。9 自分がいるグループの立ち位置などをとても気にして全然興味がないことでも興味があると言ってみたり、とても好きだけど別にあんまり興味ないといったりと、とにかくグループに合わせ、自分の居場所を守る。10 教師に生徒文化と関わるうえであまり深入りせず見守っていてほしい。

高層階からの眺め

私はいつでも行けると思い東京タワーやスカイツリーに登ったことはないが、高層階からの眺めは好きである。そこに非日常を感じる(以前にも書いたが、高層でなくても4階と5階からの眺めはかなり違う)。

高層マンションに住む人は、どのような感覚で毎日を送っているのか、以前から知りたいと思っていた。たまたま友人夫婦が、家の建て直しの期間の一時住まいで、眼下が千葉港の展望のいい高層マンションの22階で日常を送っているというので、訪問させてもらった。

部屋は南西向きなので、ベランダに出なくても部屋から東京湾が一望できて、晴れていれば富士山も見えて、夕日や夕焼けが毎日見えてすごい展望の部屋であった。マンションの廊下側からの眺めは、千葉港、千葉駅や幕張メッセ方面が見えてきれいであった。普通どんな景色がよくても、毎日見ていると飽きて、外を見なくなると思うが、夕方の空、夕焼けは毎日違い見ていて飽きないとのこと。ここに住めば旅行など行かなくてもいいとも思った。ただ、マンションの値段や家賃を聞いたら、到底私の住めるところではないので、夢物語であったが、いい景色に癒された。

音楽(歌)の聴き方

私は歌でも歌詞はあまり聞いていないように思う。家族が「今の歌の歌詞はなかなかいいよね」という話をしているのを横で聞き流している。同世代の友人がとても励まされる歌だとしての「歌詞」を送ってくれた(80年代の曲)。確かにその歌詞を読んでみると励まされるいい歌詞のように思うが、詩や和歌の素養がない私には、真にそのよさはわかっていないと思う。

私の場合、その歌の歌詞や意味が分からなくても、曲がよければそれでいい。それから歌詞の方に少し関心を向ける場合もある。でも歌詞まで関心が行くのは稀のような気がする。歌詞までいいなと思ったのは、吉田拓郎の「ファイト」(作詞は中島みゆき)「外は白い雪の夜」、さだまさし「いのちの理由」くらいかもしれない。

友人のいいという歌を、YOU TUBEで見てみたら、1984年の映像で、バブルの頃の歌。同じような感じの歌を昔よく聴いたように思う。思い出したら、映画「ストーリート ファイヤー」の中でヒロインが歌う歌で、それを久しぶりに聴いてみた。歌詞は英語なのでよくわからないが、自分は歌を選び好きな人とは別れる、という女性の哀愁と自立を歌っているように思う。吉田拓郎の「外は白い雪の夜」も、女性に去られた男の話で、皆村上春樹の「女のいない男たち」の小説のような内容ばかりで、私の好みにかなり偏りがあることがわかる。友人には呆れられていると思う。

吉田拓郎メドレー(外は白い雪の夜」が入っている)と、「ストーリート ファイヤー」のYOU TUBEを、下記に転載しておく。

https://www.youtube.com/watch?v=QRwBXtKLyAs
https://www.bing.com/videos/search?&q=%e3%82%b9%e3%83%84%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%81%a8%e3%80%80%e3%81%8a%e3%81%b6%e3%80%80%e3%83%95%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%84&docid=603537501761658786&mid=161057C9365459879578161057C9365459879578&view=detail&FORM=VDRVRV&ajaxhist=0

追記-今歌詞が若者に1番受けているグループにback numberあるという。連続テレビ小説”舞いあがれ!”の主題歌も歌っている。1月19日の”NHK MUSIC SPECIAL back number”を観た。確かに歌詞が若者の気持ちを歌っているようで、それに涙する多くの若い女性も映っていた。ミスチルの現代版なのかなとも思った。歌詞の内容は年配者には共感は無理で、チャンネルを直ぐ切り替えてしまった。

初詣に行く

友人が「(以前に)成田山新勝寺初詣に行きましたが、すごい人で道路は埋め尽くされ、足を踏み出すことさえできませんでした。これに懲りて以来、初詣は止めました」と言っていた。私の場合は、あまり信心深くないので、神社にお参りに行ったりすることはあまりない。それでも新年くらいは、近くの神社には初詣に行く。

初詣といっても元旦ではなく、詣の人が少なくなってから行く。本日(1月12日)がその日で、朝起きたら天気もよく初詣に出かけた。行ったのは幼い頃(小学校入学以前)近くに数年住んでいた記憶がある「稲毛浅間神社」である。なかなかよい(空)気を感じる神社である。この1年の家族の健康と招福、世の中の平安を祈願し、昨年の破魔矢を納め、新しい破魔矢を購入する。近くの稲毛海岸にも立ち寄り、穏やかな海と遠くの富士山を眺めた。

楽譜と演奏との関係について考える

私は、文学も音楽も、芸術分野に全く疎いので、これは見当外れな考えと思うが、ふと思いついたことがあるので、書き留めておきたい。

ピアノ教師(本人もピアニスト)が生徒にピアノのレッスンをしている動画を見て思ったことである。楽譜と演奏の関係は、どのようなものなのかと思った。ピアノ教師は、楽譜を見ながら、ピアノの弾き方を熱心に生徒に教えている。その解釈は、楽譜に書かれているものなのか、それともそのピアノ教師のオリジナルなのか知りたくなった。演奏は楽譜通りに弾くのが基本かもしれないが、ピアニストによっても解釈は違って来るのではないか(オーケストラの場合は指揮者による演奏の違いがある)。

それを小説と楽譜との違いで考えてみた。4つくらいのことがある。①小説は作家が何度も推敲して書き換える場合があるが、楽譜の場合はどうなのであろうか。楽譜は、一度完成したら書き換えはないのであろうか。源氏物語は底本がないといわれるが、昔の楽譜の場合、どれがオリジナルかわからないということはないのであろうか。②小説の場合、それを解説、批評する文藝批評家がいる。楽譜の場合、その批評家は演奏者になるのではないか(もちろん音楽評論家もいるが、主に演奏を批評している)。③ 小説はつまらないのに、その文藝批評は優れているという場合がある(小島信夫の『抱擁家族』に対する江藤淳の『成熟と喪失』の中の文芸批評など)。これと同じように、楽譜はつまらないのに、その演奏は素晴らしいということがあるのであろうか。音楽の場合それはないのであろか(もちろん編曲というのもあるが)。 ④ ピアノの楽譜を見てみると、その残存音を考慮して作曲されているようにも感じる(和音など)。それと同じことが、小説や文章にもいえるのではないかと感じた。優れた文章は、前に書かれた文章の余韻を意識しながら、書かれるのでないかと思った。(そんな高度なことは、到底自分ではできないが)。文章(小説)と音楽にこのような共通性があるとすれば、優れた文筆家は音楽にも通じていることになる。