友人の価値―「レンタル フレンド」から考える

昨日(5月30日)のNHKテレビで、「レンタル フレンド」のことを扱っていて、友人の価値について考えさせられた。
 普通の人にとって、友人(異性の友人も含む)は空気のような存在なので、その大切さを自覚しないし、それに価値があるとか考えない。しかし、とても貴重なもので、それをお金で買おうとするとかなりの高額になる。
 世の中には、置かれた事情や生来の性格から友人が得られない人がいる。また、人はいつそのような状況に陥るのかわからない(村上春樹『女のいない男たち』参照)。それを考えると、今いる友人や友人関係を大事にしなくてはいけないと思う。
 番組では、今友人のいない人、友人を求めている人に、「レンタル フレンド」を紹介する会社があること、そこに頼むと、友人をレンタルで貸してくれることを、事例をまじえて取り上げていた。
 おたく系の若い男性(30代半ばくらい)が、キャッチボールをしながら、話し相手になってくれる女性をレンタルして、楽しそうに1時間を過ごすことができていた。料金は1万8千円。彼にとって、1万8千円は、「ガールフレンド」と1時間一緒に過ごせることを考えれば、高くない(最後に握手までしてくれている)。
 60歳代の男性(妻を亡くし、91歳の母親を一人介護する日々を過ごしている)が、月に1度、母親がデイサービスに行っている昼間、一緒に海を見に行ってくれる女性をレンタルして、いろいろ悩みも聞いてもらい、満足げであった。料金は4万8千円。

  相手をしてくれる人は、友人のように親身に話を聞いてくれ、レンタルした人に、心理的満足感を与えてくれる。その心理的満足への代償[支払]が、金額にすると1万8千円だったり、4万8千円だったりする。
 「感情労働」というものがあるということであろうが、心理的奉仕に関して、支払われるものは、意外と高額である。(結婚や家族というものは、その高額の最たるものかもしれないが。)
 この番組を見て、身の回りにある友人関係を大切にしたい、友人たちに感謝しなければいけないと思った。友人たちから多大な心理的慰めを受けている私は、一緒に食事をしたり飲んだりした時、割り勘ではなく、おごらなければいけないのかもしれないと思った。(学生も、私にとっては、友人のようなものである)

本を贈られたり、送ったりすること

人から本を贈られるとうれしい反面、少し困惑する。その心情を書いておこう。
第1に、純粋にうれしい。本を買わなくていいし、苦労せずに本が手に入り、いつでも読める。その人が自分のことを気にかけてくれたこともうれしい。
第2に、でも、本を贈ってくれた人に、借りができたようで、少し居心地が悪い。
第3に、さらに、本の礼状を書かなくてはならないことを思うと、気が重い。今は、メールで礼状を書けばいいが、それでも少し読んだ感想も書かなければならない。忙しくて、送られた本を読む暇などない。手紙やはがきで礼状を書くのはさらに大変。「これからゆっくり読みます」とメールで送るのがせいぜい。
第4に、自分と同世代や若い人から本を贈られると、自分のまとまらない研究のことを思い、くやしく、心穏やかでいられない。

このように、人に本を送る行為は、送られたものに心理的ストレスを与えるので、なるべくやめた方がいい。
本は読みたい人が、読みたい時に、買えばいいのだから。
大学の紀要に書いた論文は、本人とせいぜいあと2〜3人が読むだけと聞いたことがある。それを本でしても、読む人はせいぜいその倍、つまり10人くらいではないだろうか。
それでも人に本を送るときは、自己満足と考え、礼状をもらうことや読んでもらうことを期待しない方がいい。

『学生文化・生徒文化の社会学』の刊行

このたび、敬愛大学から出版助成をいただき、敬愛大学学術叢書の1冊子として『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年3月)を刊行することができた。敬愛大学に心より感謝する。
 
本書の構成は、学生文化や大学に関するものを第Ⅰ部とし、第Ⅱ部に生徒文化に関するもの、そして、子どもや生徒を外から規定する家庭や学校に関するものを第Ⅲ部、さらに、コラム的なものを第Ⅳ部に置いた。上智大学を退職する折、手作りで作った冊子が元になっている。

 第Ⅳ部は、このHPからコラムを選択したものである。最初は、様々な分野のものを入れていたが、本の題にそぐわないと感じ、題に合致するものだけを選択したため、少し硬いものになった。

それぞれの章を通して、子どもや児童・生徒、そして学生の実態や心情に関して、多少なりとも再考し、新しい知見を得ていただけたら嬉しい。
それぞれの論稿の執筆には、これまで、多くの方からのご指導や支援によっている。感謝したい。

次のような「あとがき」を書いた(転載)

「武内さんは、ふわふわしたものをふわふわした方法で捉えますね。それは他の人が真似のできない名人芸です」と、後輩の小林雅之氏(東大教授)から言われたことがある。
 私の学んだ東京大学の教育社会学研究室の学風は、教育を社会的事実(もの)として捉え、それに厳密な社会科学の方法でアプローチし、教育のシステムや制度のメカニズムを明らかにし、それに基づく政策提言を行うというものである。それは今の社会や教育界や教育現場で求められているものを的確に把握し、改革の方法を提示するものである。そのような研究室の学風の中で、私の研究関心や研究方法は少しずれていた。
 自分との関わりのある現象の中に、自分の研究テーマを探していった。高校生や大学生の時、自分の育ってきた地域や家庭の文化と、通った高校や大学の文化との間には大きな文化的ギャップを感じたが、それが研究テーマの底流にある。
 指導教授の清水義弘先生や松原治郎先生の社会調査の手伝いをし、また深谷昌志先生、萩原元昭先生、門脇厚司先生らの子ども・青年調査のメンバーに加えていただき、またその後自分でも大学生調査を企画し、主に意識調査(アンケート調査)によって、青少年研究を進めて来た。
アンケート調査の限界はさまざまに感じながらも、データを検証する中で、新しい発見も多くあった。アンケート項目の変数間に関連が見出せても、それは疑似相関ではないかと疑い、統制変数を投入し、多変量分析を駆使して、相関関係や因果関係を明らかにしてきた。
生徒や学生の意識や行動を規定する要因はさまざまあり、まだ生徒文化や学生文化に関しては解明できていない点も多い。現在も、大学生と接し、研究仲間と大学生調査をして、新しい発見を目指している。 
 社会学者の副田義也先生が、マンガ『嗚呼!! 花の応援団』の分析(『遊びの社会学』1977年)で、遊んでばかりいる大学生でも大学に通う意味はある。もし彼らが大学に入学せず、社会に出てしまったら、どのような犯罪を起こすかもしれない。大学は、「時間の浪費の制度化」」をしているところあって、退屈で時間を持て余す若者の犯罪防止制度としての十分機能している、と書かれているのを、院生時代に読んで、社会学的分析の面白さを感じたことがある。
 その中でも言及されていたが、退職した老人が世の中で多くなって、そのまま放置しておいたら、不良老人たちが何をしでかすかわからない。写真でもスポーツでも生涯学習でもブログでもなんでもいいが、何かに没頭させておけば、社会への不満や批判に目がいかず、今の社会(体制)は安泰であるという。
 私のブログは、そのような社会の安全弁機能、社会体制維持機能を目指しているわけではないが、本書の第4部が退屈な日々の暇つぶしになり、社会学や教育社会学の面白さを少しでも感じて下されば嬉しい。
 学校、大学や生徒、学生は日々変化している。したがって過去に書かれたものは現代に通用しない部分も多い。
 しかし、学校、大学や生徒文化、学生文化の本質は不変(普遍)の部分もあり、本書の内容を素材に、今後の学校、大学と生徒、学生のあり方に関して、いろいろ議論していただければありがたい。  2014年3月 武内 清

関西大学教授・京大名誉教授の竹内洋氏より,あたたかい励ましのお言葉をいただいた。感謝したい。
<武内先生、このたびは、ご高著『学生文化・生徒文化の社会学』をご恵贈いただきありがとうございました。
あとがきに「ふわふわしたものをふわふわした方法で捉まえる」とありましたが、これこそ文化をつかまえる極意ではないでしょうか。先生の大学生文化研究がおもしろい所以です。ますますのご健筆を。竹内洋>

深谷昌志先生(東京成徳大学名誉教授)からも有難いお言葉をいただいている。
<貴書拝読しました。これまで読んできたものも含まれていますが、改めて、読み
直してみると新鮮ですね。学生文化という新しい領域を開拓してきた足 跡がよく分かります。20年前の学生の姿は今となると復元できないだけに貴重ですね。>

ソフイーも少し緊張気味。でも不満そう。「本より何か食べ物の方がいい]