夜のテニス(9月25日)

いろいろ疲れやストレスが溜まっているので、運動して体をほぐたいと思った。それで、テニスをすることにした。とはいっても、テニスクラブに入っているわけではなく、テニスをする仲間がいるわけでもないので、登録しているテニススクールのレッスンを受けた。
思い立ってレッスンの申し込みをしたのが夜の21時15分。10分で支度し、近くのダイエーモールの4階にあるSスポーツセンターへ自転車で猛ダッシュ。21時40分からのレッスンに間に合う(23時10分まで1時間半のレッスン)。
コーチはイケメンの若い青年で、テニスもうまく、教え方も丁寧。男性にも女性にも人気で、受講生は多い(今日は私を含め8名)。しかしコーチが次々出してくるボールに、休む間もなく打ち返さねばならず、かなりの運動量。。後半は、試合形式の練習。私は久しぶりのテニスにミスが目立ち、もう少し頻繁に通わねばと反省した次第。
レッスン終了後は、スポーツクラブのスパ・温泉に入り、疲れを取る。サウナもジャグジーバスもあり、体がほぐれる。
それから家に帰ると24時。明日の2時限に授業がある。早く寝なければ。このようなブログを書いている場合ではない。

ツキ(付き)がない

このところ私の周囲で、あまりいいことが起きていない。(今日も目の前で、バスと電車が行ってしまい、予定変更を余儀なくされた)
言ってみれば、「ツキがなくなっている」あるいは、「運に見放されている」。
このような時は、つい落ち込んで、いろいろなことを悪い方に考え、閉じこもりがちである。
でも、このような時こそ、発想の転換が必要なのかもしれない。

Mさんからは、次のようなメールをいただいている。
<ツキは漢字で「付き(附き)」と表記し、意味として広辞苑では「よい巡り合わせ・幸運」、ウィキペディアでは「人間の力ではどうしようもない幸・不幸を支配する要素」とあります。その多くは儒教とか仏教を背景にしています。
ツキに関して取り上げたい諺は「運不運は紙一重 諦めは心の養生 犬も歩けば棒に当たる 果報は寝て待て」などです。「なるようにしかならないのが人生」です。
気持が落ち込んだ時、行為としては「人事を尽くして天命を待つ」、期待感としては「天網恢恢疎にして漏らさず」「地獄で仏」などの諺を思い浮かべ、浮上するのを待つしかないと思います。>

藤原新也は、次のように書いている。
<逆転の発想というものは私の旅の中で身についた癖のようなものであり(いやそうでないと旅は続かないということもある)、今でもなにか身の回りに障害やマイナスなことが起きると、妙にわくわくしたりする。
物事は変化、変転する。
かりに福というものが変転すると不幸に変転するしかなく、不幸というものは福に変転する”可能性”があるということだ。>

「人事を尽くして天命を待つ」や「逆転の発想」で、この「難局」を乗り切りたい。

稲毛海浜公園

今日は、何かを感じて、しょぼんとしているうちの犬(ソフィー)を連れて、元気づけようと稲毛海浜公園に行った(車で15分)。
天気がよく、海もきれいで、うれしそうに砂浜を駆けまわっていた。
しかし、今日は月曜日の為、稲毛海浜公園にある「花の美術館」はお休みで、公園の庭のコスモスなど秋の花は、垣根越しに遠目にしか見ることができなかった。

ペット・ロス(の心配)

今から6年半ほど前(桜の季節)、妻は稲毛海浜公園に犬の散歩に行った折、うちの犬と同じ犬種(キャバリア)の1匹の犬が、公園に捨てられ、さ迷っているのを見た。家に帰ってきてからもその犬のことが気になり、再びそこに見に行った。捨て犬は、数日は野晒らしに置かれたようで、黒ずんで元気なさげで、放浪していたという。妻は、うちと同じ犬種ということもあり、見捨てることが出来ず、車に乗せ連れ帰った。まず、犬の病院に連れて行き、そこで、検査と診察、治療とシャンプーをしてもらった。(2泊3日で費用は、うちの犬の買値より高かかった)。
かわいそうで、うちの犬と一緒に飼うしかないと思ったようだ。ところが、家で一緒に置くと、うちの犬が拗ねて、元気をなくし始めた。それを見た妻は、「半日でも家に置くと、情が移り捨てられなくなる。すぐ保健所に連れて行く」と言い出した。
次女がちょうど帰ってきて、それを聞き、あわてて近所の家に「捨て犬を飼ってくれないか」と頼みに走った。
隣の家では動物好きの人だが、「子犬と猫がいて無理」と言われた。向かいの家の人(最近犬をフィラリアで亡くしている)が、「飼ってもいい」と一度言ってくれたが、「その犬もフィラリアに罹っている」と伝えたら、「それでは無理」と断られた。
斜め前のTさんの家が最後の頼みで聞きに行ったら、「猫が3匹ほどいるけど、ボス猫が認めたら飼ってもいい」と言ってくれた。そこで「お試し宿泊」となり、ひとまず命は救われた。1週間ほどで、無事ボス猫の許可も出て、その家で飼ってくれることになった。
うちでは感謝し、「何かあればうちで面倒を見ますから」ということで、病院での定期検査や薬の投与(狂犬病、3種混合、フィラリナの薬)、病気の時の通院、毛のカット、シャンプー(これは、1か月に1~2回、私が家の風呂場でやった)、犬の餌(キャベツ、ニンジン、サツマイモ、鶏肉の煮込みのようなものを週2回は作り届けた)、それに、Tさんが泊まり込みで出かけるような時は、うちで預かった。

そのキャバリは、見つかった季節が春だったので、「サクラ」と名付けられ、可愛いがられて来た。なぜ、捨てられたのかわからないが、前の飼い主にしつけもよくされた素直な犬で、最初は捨てられて情けない顔をしていたが、段々穏やかな顔つきになっていった。(後の写真で、「サクラ」は向かって右。2年前の様子)
Tさんの可愛がりのおかげであろう。それから6年半の年月が過ぎた。

そのサクラがこの1カ月、急速に衰え、今朝、息を引き取った。

拾った時の年齢が不詳なので、それから6年半たち、何歳だったのかわからないが、きっと犬の寿命だったのあろう。ペットの葬儀場で,葬儀をあげ、火葬して,可愛い箱に入れてもらい、帰宅した。
可愛がってくれたTさんと家族の方(Tさんと二人の息子さん)、うちの妻と娘たちと私、それに近所の人に、ペットロスの症状が出るのは必然であろう。 
「サクラよ、安らかに眠れ!」

雑草の中の花

雑草の中に、可憐に、けなげに咲いている花がある。
人にも、このような人がいるような気がする。

また、彼岸花は、この季節、別のことも思わせる。