大学祭

今日(8日)は、敬愛大学の大学祭(敬愛フェスティバル)のⅠ日目。こども学科の学生が活躍しているので、それを見に行った(正確にはわからないが、こども学科の学生の3人に一人は、フェスの委員会のメンバーで、1週間以上放課後残り、準備をして来たのではないか。準備の段階でも、お揃いのスタジャンを着て、気分の盛り上げているのが、可笑しく、かわいらしかった)。4年生も一緒に参加していて、異学年の交流になっている。地元の人も、子ども連れで来ている姿も見られ、大学と地域の交流に一役買っている。地元のちびっこ子のヒップホップが上手で(3歳〜4歳くらいの子のステージが、リズムにしっかり乗り、上手で好評を博していた)。このように、地域の人も巻き込んでのお祭りに好感が持てた。
ゼミの学生がバンドの出るというのでそれも聴きに行った。それなりに上手だったが、バンドや歌は、人に見せたり聴かせたりする以上、もう少し練習が必要ではないかと思った。自分達が楽しいのと、聴衆が楽しいのは全く別ということはわかっているのであろうかとも思った。自己陶酔して歌ったり演奏したりは論外で、冷静な計算が働かなければ、人に感動を与えることができない。

秋の稲毛海浜公園

ソフィーの散歩に、稲毛海浜公園に行く。同じ犬種のキャバリア犬(3歳)に挨拶。
菊の季節、丹精を込めて作られた菊を鑑賞。

菊の美―犠牲の上の美

菊に関しては、以前にも書いたが、少し複雑な思い。
このような究極の美のような菊の成長の陰には、成長の途中で摘み取られた多くの菊のつぼみがある。

少し飛躍し過ぎかもしれないが、宮崎駿の「風たちぬ」の主人公二郎の作る飛行機の美の陰には、多くの犠牲がある。犠牲があるから美しいと考えるのか、そのような犠牲に上に打ち立てられた美は疎ましいと考えるのか、複雑な思い。(ネットからの転載)
http://blog.goo.ne.jp/sombrerorecords/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

<「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」 という問いに、二郎は、つまり宮崎駿は「ある世界」と答えます。
何の話かというと、ピラミッドのある社会というのは、ピラミッドのような美しいものを、天才的なインスピレーションの具現化を沢山の普通の人々の苦しみが支える社会のことです。
この映画でいえば、二郎みたいな天才が飛行機を作ることを、他の才能のない人は苦しくても支えるべきだ、という話です。菜穂子の苦しみは言うまでもありませんし、二郎が飛行機の勉強や設計、試作に使うお金もそうです。途中、二郎は親友に「飛行機の設計に使うお金で日本中の子供にご飯を食べさせることができる」と言われています。そうは言っても、友達も二郎も「じゃあ、飛行機のお金を貧しい人々に回そう」なんて思いません。自分達は恵まれていて、好きなことができてラッキー、というのが二郎達のスタンスです。自分達の作った飛行機が、戦争で使われて人が殺されるわけですが、それも大した葛藤なく「お陰で好きなことができてラッキー」という感じです。
才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。( 横岩良太)>

昔と今の混同

昨日(2日)、昔住んでいた団地の近くを車で通り、懐かしさを感じた。そこには昔、一緒に子どもを一緒に遊ばせた近所の人やテニスを一緒にやった仲間などがまだ多く住んでいることであろう。
でも、そこから出て行った人間が、そこに顔を出すわけにはいかない。(会ったら、お互いにどのような態度で接すればいいのかわからない。)

昔勤めた大学も同じことで、その近くを通ると、懐かしさを感じる。勤めていた頃のいろいろな出来事が走馬灯のように思い浮かぶ。でも、そこに顔を出すわけにはいかない。
辞めた人間が、まだそこに顔を出せば、戸惑いや居心地の悪さを、本人も周囲も感じるのではないか。
昔の職場に顔を出せば、昔の役職や関係があるので、かっての同僚や後輩からは丁寧に応対されるかもしれないが、実のところ疎まれているというケースはよくある。

私達は、制度や組織の中で生きている。制度や組織を離れた人間は、昔を懐かしむのはいいが、そこに入って、昔と今の混同を起こし、戸惑ったり、疎まれたりしてはいけない。

3度の食事の大変さについて

生きていく上で毎日しなければならないことがいくつかある。睡眠と食事の2つは必須中の必須であろう。
それらを人は、楽しんで行っているのであろうか、それとも義務として苦痛を伴い行っているのであろうか。あるいは、習慣になり楽しみも苦痛もなく、何も感じることなく行っているのであろうか。

自分のことで振り返ってみたい。
睡眠に関しては、今は眠たくなれば寝て、朝自然に目が覚めるような生活を送っているので、楽しみでも苦痛でもない。
ただ、学校に通っていた青少期を振り返ると、起きて学校に行くといろいろ辛いことがあったのか、なかなか起きられなくて、眠っている時が一番幸せと感じていたような記憶がある。

食事に関しては、戦後の食糧難の時代、そして裕福でない家に育ったせいか、お腹さえ膨れればいいと思っていたので、食事を楽しみにしていた記憶がない。ご飯が白米ではなく麦が入っていた記憶や、親が子どもにだけおかずを用意していた辛い記憶がある。
学校給食は脱脂粉乳(?)だったし、たまに出て楽しみにしていた「トン汁」は豚の脂身だけが浮いていた。貧しくてお昼にお弁当を持ってこられない子もいて、心が痛んだ
したがって、食事に関していい思い出がない。

先週、お昼に近くを通りかかったH大学で、あまりにお腹がすいたので、大学の食堂に入り、カレーラスを食べた。そのあまりの不味さにびっくりした。ただ、それ以上に、(それは普通の大学のカレーライスの味に過ぎなかったのかもしれないのに)このカレーライスを美味しくないと感じる自分にびっくりした。
結婚して以来、妻や娘が美味しいものを家で作ってきてくれたのであろう(私に料理の技術もセンスもない。妻や子どもは、美味しくないものを食べるくらいなら、何も食べなくていいと考える世代である)、また、よく行くカレー専門店のカレーに味に馴染んでしまったのかもしれない。

飛行機に乗ったとき、乗客に食事や飲み物を提供するのがスチュワデスの仕事の大半を占める。
母の入っている老人施設の様子を見ると、3度の食事の世話が介護の大きな比重を占め、人が一日3度の食事をするのは大変なことだとわかる。

美味しいものを毎回食べる習慣や文化が、今私達のまわりに定着し、3度の食事(準備、料理、後かたずけ)が大変な時代になっているように思う。

上記の内容に関して、武蔵大学の卒業生のSさんより、下記のコメントをいただいた。

< 先生の食に対する思いを、もう少しお聞きいたしたく存じます。
なお、介護の場面において食事介助は大切な介護のひとつです。少ない経験ながら、本人に食べる意欲があるかどうかで介助の負担が大きく変わるということがあると思います。
介護の現場において、時折、被介護者は生きているのか生かされているのか、と介護する者が思い悩むのです。多くの場合、本人に意欲がなく、介護する側の独りよがりになっている場合があります。このような場合、当然のことながら、食事介助は容易ではありません。
よって食事そのものや食事環境への工夫が必要になります。つまり食事を美味しくしたり、食堂の雰囲気を心地よいものに変えてみたりすることが大切です。
これは、子育ての際に子どもが自ら食べることを楽しんでいるのかどうか、にも当てはまるのではないでしょうか。そして、このような子どものころの原体験が、その後の食生活にもつながる…。食事は大変なのか、楽しみなのか?
食という行為は、生産から事後の処理まで多くの領域を含み、社会の中で循環しています。食べ物に対する美味い不味いという一端の事象から、さまざまな方向へ想起させられます。
社会を読み解くうえで、とても興味深いテーマであるように感じました。>