経験より読書

 教員を目指す学生から「豊かな人間性を身に付けるのにはどうしたらいいんですか? 私はいろいろな人とのコミュニケーションを取ることだと思いますが、先生はどう思いますか?」と聞かれた。

 教員採用の条件に「豊かな人間性」という言葉があるのかもしれない。自分は「豊かな人間性」を目指したことがないので、その質問に戸惑った。

 また、今の学生にとって、人とのコミュニケーションや経験が自分を豊かにするものとして認識しているらしいことに、時代の差も感じた。我々の世代では、「豊かな人間性」と言えば、即読書を上げることであろう。

 今学生の周囲にいる人には、偉大な人はいないであろうし、また偉い人がいたとしても、未熟な学生とのコミュニケーションではその人の最良のものを引き出せないことであろう。それよりも「偉大な人」が書いた書物を読み、そこから様々なことを読み取る方が、「豊かな人間性」を形成するのに役立つのではないか。

 そのようなことを学生に答えたが、わかって貰えたかどうか疑問である.怪訝な顔をされた。学生たちは、直接経験こそ学びの中心であり、読書や大学の講義はあまり重要なもの、役立つものと思っていないのではないか。

 昔勤めていた武蔵大学の日本文化学科の瀬田教授が、就職が決まっていたにもかかわらず卒論が不出来で落とした学生に、「卒論を書くということは、古今東西の優れた歴史上の人物と『対話』することであり、そのことは現実経験を積むこと以上に大切だということをわかってほしい。その為にあなたの卒論を不可とする」と言っていたのを、今思い出す。 

高橋源一郎は朝日新聞の「論壇時評」(2015430日)で、「根本的に考えるために」という題で、次のような2つの大学の学長の入学式祝辞を紹介している。

「大学はものごとを根源まで遡って考える場所であり、もしそのような場所が、社会の至るところにあるのであれば、大学は不要でしょう」(立教大学総長・吉岡知哉の祝辞)

 「現実社会は、短期的な成果を上げることに追いかけられ、激しく変化する経済活動の嵐の中で、目の前のことしか見えません。これまでの経験が通用しなくなっている今ほど、大学における自由な探求が重要な意味を持っている時はないと思います」(前東京造形大学学長・諏訪敦彦の祝辞)

今の時代、経験より読書、と私も言いたい。

「大2プロブレム」

「小1プロブレム」とか「中1プロブレム」という言葉がある。その学年が他の学年に比較して、学校への適応やもろもろのことで問題あるということであろう。

大学の場合は、どうであろう。「大1プロブレム」ということがあるのであろうか。昔は、大学生の「5月病」のようなことが言われた。大学受験の目標を達成した後の目標を失った虚脱感のようなものである。今は大学受験がそのような超えるべき目標になっていないので、「5月病」ということを聞かないように思う。

ただ最近は、「初年次教育」の必要性は言われている。高校までの教育と大学の教育は違う。その大学での学びや生活に適応できるように大学がさまざまな対策を取る必要があるということである。つまり「大1プロブレム」があるということであろう。

私は、それより「大2プロブレム」があるように思う。それは、大学生活に慣れてきた大学2年生が、ダレてしまう現象である。1年生の時は新しい環境に慣れようとする緊張感があり、3年生になると先の就職のことを考え気持ちを引き締めようとするのに対して、大学2年生は、その狭間にあり、緊張感もなくぼんやりと弛緩して大学生活を過ごす傾向である。

 これは、2年生と対象にした講義やゼミを担当している時に感じることである。なかなか教科書を揃えなかったり、読んでくるように指示した本を読んでこなかったり、発表をいい加減にやってそれで済ませようとする学生が2年生に多いように思う。

 このようなことが、量的データでも言えるのか、我々の大学生調査のデータでも確かめてみたい(浜島幸司氏が、報告書の2章で、学年差の分析も詳細にしている。)https://www.takeuchikiyoshi.com/wp-content/uploads/2011/12/24531072.pdf

 ただ、大学生として勉強以外にやりたいことが山のようにあり、勉強どころではないということなのかもしれない。教員からの指示を無視や無化して、自分の好きなことに多くの時間を費やすことは、青年期の自立形成には必要なことなので、この傾向を一概に非難できない。

 昨日、敬愛のこども学科の3年生に「大2プロブレム」のようなことがあるのか聞いてみたら、「自分たちは2年生の時、たくさんの必修科目があり大変だったので、遊ぶ余裕はなかった。かえって、3年生の方がのんびりしている」という答えが返ってきた。

少し学年差について、検討してみたい。学科によっても違い、1学期と2学期でも違っていることであろう。

学生と御宿海岸

 

今日(4日)は、外房の御宿海岸で、学生諸君と海を見ながら食事と運動。

海岸は風があり、ウインドサーフィンとカイトサーフィンが気持ち良さそうに波の上を移動していた。それを横目で見ながら、ビーチバレーと三角ベースをした。

最初は、異学年交流のイベントを企画したが、参加してくれたのは3年生ばかり。

若者と1日一緒に過ごせたことをよしとしよう。皆の笑顔がいい、連休ならではのことであろう。

  

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期間限定で、その都度「今」を生きる人生

 上野千鶴子が、「解散を念頭においたチーム作り」という興味深いことを言っている。それは「プロジェクト方式」で、「期間を区切り、運命共同体は作らない」。それは、「同窓会」の対極にあるもので、「手間ひまかけてメインテナンスして続いて」いくものであるという。(人生の贈りもの―私の半生ー上野千鶴子 8、朝日新聞 4月30日 夕刊)

社会学の用語でいえば、コミュニティーではなく、アソシエーションなのかもしれない。ただ、家族や地域や学校や大学(その同窓会も)といったコミュニティーも、期間限定だし、メインテナンスも必要で、安閑としていると消滅してしまうのが現代である。まったりせず、緊張し、生きるしかない(上野千鶴子ほど、テンションを常に高く、自分にも周囲にも厳しく生きることは常人には難しいが。) 

上野千鶴子は「要求水準の高い教師で、『こんなものでいいと思っているのか』と毎回真剣勝負をやってきた」という。それで、「目の前で学生が竹が皮を破ってバリバリと音をたてるように育っていく」場面に直面したという。(同、7、4月28日夕刊) 自分とは対極の教師だと、自己反省。