WBCテレビ観戦

自分は平均的な日本人だとつくづく思う。普段野球に関してほとんど関心がなく、プロ野球も高校野球もテレビでほとんど見ないが、世間で大騒ぎがあると、ついテレビに釘付けになってしまう。今回WBCに関しては、日本ではマスコミで事前広告があり、初戦から優勝まで、テレビの実況中継があり、その前後のニュース報道・解説も多く、大変な盛り上がりであった。普段野球を見ない私でも6~7割はテレビの実況中継を見た。そこで感じたことをいくつか、書いておきたい。

1つは、このWBCの野球熱は、多分日本がアメリカを誘って「仕掛けた」ところがあり、世界的には関心が低いものと感じた。チェコの選手がほとんど他に職業をもつアマチャ選手だったり、アメリカの大リーガーの選手にとってはこのようなマイナーな大会で怪我をしたら大変という態度が見られた。オーストラリヤでは、WBCはほとんどニュースで取り上げられていないと聞いた。第2に、世界の野球のレベルが上がり拮抗しているということ。韓国のチームも中国のチームも強く、日本が勝ったのは運もあると思った。大谷は次のように述べている。「1次ラウンドから、対戦したライバル国との差は感じていなかった。どこが勝っても不思議ではない。各国とも素晴らしい選手が集まっていた。台湾、韓国、中国に限らず、各国にチャンスがあるというのは実力が拮抗している」。第3に、日本のWBCにわかファンも、結果に関心があるだけで、それほど野球に関心があるわけではないのかもしれないと思った。日本とアメリカの決勝戦の時間、私の卓球仲間ではテレビ観戦よりいつも通り卓球練習をする人が多くいた(私は野球観戦を選んだが)。

私の場合は、野球は、小学生の時の草野球の経験しかないが、野球がスポーツのなかでは一番面白いのではないかと思っている(これが第4)。1回から9回までが1つの人生のようであり、山あり谷ありで、興味深い。さらに、投手と打者の心理的優位さも投球の1球ごとに変わり、その気持ちに肩入れして観戦していると時間を忘れる。ピッチャ―や打者の勝ち負けに同化して観戦すると、選手の歓喜や落胆の気持ちが直に伝わってくる。このような喜怒哀楽を含めて、チームや選手を応援するのが、スポーツ観戦の醍醐味なのであろう。今回のWBCで少しそれを味わった。

第5に、国を背負っての試合には、単なるスポーツ(遊戯)ではなく、宗教的な儀礼(聖)の意味もあることも感じた。(今回のWBCの選手は若いのか、聖より遊戯が勝っているも人が多いと感じたが)。一社会学者は次のように書いている。

「私たち日本人が集団の代表として行動する時、私たちはいわば宗教的な営みを行っているのである。選手たちはもはや「個人」ではない。彼らは集団の繁栄を儀礼的に演出する司祭である。チームの勝敗は背後の集団の実力の程度を象徴するから、絶対に負けてはならない。(中略)日本人の集団スポーツの中には、もう一つ宗教的な特徴がみいだされる。それはリチュアリズム(教え込まれた型どうりの行動)である。(中略)戦争は日本の国家の運命をかけているから、明らかに宗教的なものある。代表意識にかり立てられて、日本を代表する責任を負わなくてもいい人まで死んでいった」(作田啓一「高校野球と精神主義」『恥の文化再考』筑摩書房,1967、pp.257-267)

桜の開花

家の前の小学校の桜があっという間に8分咲きになった(8462)。あわてて自転車の乗り、近所の桜を見に出かけた。千葉市の動物公園の裏の桜は5分咲きくらいでまだまだ満開まで2~3日はかかりそう(下記)。天台の運動場の桜も同じくらい(8534)。モノレールからの眺めも今度試みてみたい。

学校のジェンダー不平等について

ジェンダーの平等が言われているが、教育の世界では依然ジェンダーの不平等が続いている。その一つは、学校の管理職に女性が少ないこと。それについての考察は、河野銀子編著『女性校長はなぜ増えないか』(勁草書房.2017年)などに詳しい。今日(3月18日)の新聞に、そのことの最近の状況が載っていたので、一部を転載する.

<学校のジェンダー不平等 女性校長、公立中高で1割満たず/ 中学校は9・8%、高校(全日制)は9・2%――。これは、公立校の校長に占める女性の比率です。ジェンダー平等の実現が国際的な課題となるなか、日本の校長の女性比率は諸外国と比べて極めて低いのが現状です。/ 文部科学省の学校基本調査(昨年5月1日現在)によると、公立校の校長の女性比率は小学校で約25%なのに対し、中高では1割に満たない。「教員」「副校長・教頭」「校長」と職位が上がるにつれて女性比率が下がる傾向がどの校種にも見られた。/ 女性校長が少ないことは、何が問題なのか。まず挙げられるのは、「リーダーは男性」といった性別役割分担意識を子どもが持つ恐れがあることだ。/ 次に挙げられるのは、学校における意思決定層の多様性の欠如だ。/ では、なぜ女性校長は少ないのか。どうすれば増やせるのか。 管理職になりたくない理由の中で、男性より女性が選んだ割合が特に高かったのは「育児や介護などとの両立が難しい」だった。ジェンダー平等の実現が叫ばれるなか、家庭の負担が女性に偏っているのが実情だ。/ 管理職へのキャリアアップに求められる「暗黙の要件」が女性教員を排除してきたと指摘するのは、山形大学の河野銀子教授だ。管理職になるための事実上の要件として、長時間労働を伴いがちな教務主任の経験や、合宿型の中央研修への参加などが求められ、家庭との両立が難しい女性教員が管理職になるのを阻まれてきたという。また、地域によっては「夫婦で教員の場合は両方が管理職になるのを避ける」「女性教員は孫が生まれたら退職する」などの慣習があり、女性管理職が増えない要因になっているという。河野教授は「女性が排除されやすいルールや慣習を見直すべきだ」と話す。>(朝日新聞、3月18日朝刊より一部抜粋)

ジェンダーの平等も含め、今話題になっている教育の多様性に関して、河野銀子さんの講演や河野さんが参加するシンポがいくつか開催されるようだ。

3月22日:学術会議 https://www.scj.go.jp/ja/event/2023/331-s-0322.html

3月26日:人文社会科学系学協会男女共同参画推進連絡会(GEAHSS) https://geahssoffice.wixsite.com/geahss/single-post/geahss_20230326

過去の読書体験について

読書、特に小説に関しては、自分の好みの作家のものを読み、なかなか未知の作家の作品を読むことが難しい。ただ、若い時は国語の教科書に載っている作家のものや先生や友人から勧められた本を読むことはすると思う。私の場合、大学3年の時にたまたまポスターを見て参加するようになった『鑿壁読書会』(市川の図書館の読書会)で、月2冊、課題の本(小説)を読み、読書の幅が広がった。

最初に参加した時に取り上げられていた小説が、大江健三郎の「死者の奢り」で、はじめて大江健三郎の小説を読み、そのみずみずしい感性と文体に衝撃を受けた。その会の中心を担っていたK氏ら(「風の便り」の執筆者の辻氏はその時のメンバー)は自らも小説を書き、新しい小説に関心があったようで、そこで取り上げられる作家は、大江の他、安部公房、倉橋由美子など、斬新なものが多かった。それ以前、武者小路実篤、井上靖などしか読んでいなかった私も、おかげで時の最前線の小説を読む機会を得た。

大江健三郎が先日88歳で亡くなったという報に接し、上記を思い出したので、私の大江の読書体験を期しておく。同世代の友人からは「いま大江健三郎の訃報に触れました。私たち青年期に読んだ巨匠が…ショックを受けています」というメールもらい、下記のように返事を返した。

私の場合は、「死者の奢り」や「飼育」「芽むしり仔撃ち」を最初に読んで、その文章と内容のみずみずしさに心を打たれ、すっかり大江ファンになりました。ところがその後の作品で、共感が得られずそこで「挫折」してしまいました。さらに、江藤淳が大江健三郎の小説「個人的体験」の終わり方に二通りのものを用意した(専門家向けと一般向け)ことに対して呆れたと書いていることに共感し、それ以降大江健三郎の小説も文章も読まなくなりました(「ヒロシマノート」も読んでいません)。もう少し冷静に大江健三郎を読んでおけばよかったと、今頃になって思います。