生涯スポーツとしての(硬式)テニス

生涯学習というのは、学校や大学を卒業後にも生涯学び続けるという意味だけでなく、学校時代の学びは、学校卒業後も続くものという意味がこめられている。生涯を見据えた学習や教育が、学校時代になされなければならないという意味である。生涯学び続ける意欲や技術を学校時代に身に付けることが必要である。
スポーツにしても同じことである。生涯続けられるスポーツの素地を若い時に身に付けておくことはきわめて重要である。また、そのような仕組みを学校教育の中に作っておく必要がある。
生涯続けられるスポーツはいろいろあると思うが、硬式テニスもその一つだと思う。室内でも屋外でも、1対1(シングルス)でも2対2(ダブルス)でも試合ができる。また多人数での練習もできる。テニスは奥が深く、技術の向上は限りがない。技術や体力に合わせて楽しめる。
しか現在テニス人口は減少し、テニスコートも減っているという。その原因は、中学に軟式テニス部は多いが、硬式テニス部がほとんどないことである。その空白の3年間がわざわいしているという。中学校で軟式テニスをした人が、高校大学そして社会人で、それを続ける人は少ない。私は上智大学に勤務したおり、軟式テニス部の顧問をしたことがあるので、軟式テニスへ熱い思いを抱く人がいることは知っているが、ここは一歩譲って、生涯スポーツの観点から、中学校にも硬式テニス部を(ひいては小学校でも)作ってほしいものである。テニスは、ゴルフなどに比べ、それほど広いコートはいらないし、お金はかからないし、庶民的なスポーツだと思う。
上記のようなことを、下記の新聞記事を読んで思った。

硬式テニス部ある中学校は1割…錦織人気の陰で後進に壁(朝日新聞、2016年3月17日)

 錦織圭選手の活躍に刺激され、テニス人気は上昇中。でも、錦織選手と同じように世界で羽ばたくのを夢見る少年少女の行く手に「空白の3年間」が横たわる。いったい、どんな問題なのか。
 小学生までは民間クラブでテニスに親しんでいても、テニス部(硬式)のある中学校は全国で約1割しかない。このため中学進学を機にやめてしまい、中学時代の3年間に伸びるチャンスを奪われるケースが多いのだ。
 テニス部が少ない背景の一つに、日本中学校体育連盟に加盟していない点がある。加盟するための条件は「全国9地域のブロックのうち、6地域で認められていること」。テニスは現在、北海道、近畿、四国、九州の四つにとどまる。(中略)
 テニス部が増えない理由の一つに、日本発祥のソフトテニスの存在が考えられる。19世紀末、フェルトで覆うテニスボールの国産が難しく、輸入品が高価だった時代に、安く手に入るゴムボールを使ったテニスが普及し、今に至っている。世界のトッププロが巨額の賞金を稼ぎ、五輪でも実施されるテニスと比べるとマイナー競技に感じられるが、全国の中学校で部があるのは男子が52・2%、女子66・8%と高く、日本中体連にも加盟している。 (中略)内山勝専務理事は「中学生世代の空白が埋まれば競技人口が増えて裾野が広がり、錦織選手に続くような世界的なプレーヤーが出てくる夢も広がる」と期待している。

「コトバが現実をつくる」

客観的な状況があってもなくても、コトバ(予言)によって客観的な状況が作り出される(例;あの銀行が潰れるという噂によって、人々が預金を引き出し本当にその銀行が潰れてしまう)ということがあるのは、社会学の常識である(予言の自己成就)。

「保育園に落ちた!!!日本死ね」と書いた人が匿名であっても(実際保育園に落ちたのでなくても、あるいは実際落ちたにしても)、その言葉に共感した人が多数いるということが、重要な「事実」である。この「事実」が世の中を動かす。
このようなことを、3月13日の「天声人語」が上野千鶴子の言葉を引きながら書いている(下記に、転載)

[もっと保育園を作れ」(「天声人語」2016年03月12日 朝刊)
 社会学者の上野千鶴子さんには数々の名言があると、前に小欄で書いた。この度、その名言集が出版され、驚くと同時に喜んだ。『上野千鶴子のサバイバル語録』。「いまを生きる女たちに、もしかしたら役に立つかもしれないことば」が並ぶ。
 語録という性格上、文脈を離れて自由に引くことをお許し頂く。例えばこれ。〈男は言葉を産み、女はいのちを産む、ですって? とんでもない。今や女は、子どもを産み、コトバも産む〉。まさに最近も、一つの痛烈な言葉が産まれ、風を起こした。
 「保育園落ちた日本死ね!!!」と題する匿名のブログだ。もっと保育園を作れという訴えがネット上で瞬く間に広がった。荒っぽい口ぶりに批判もあったが、母親らの間で共感する声が響き合った。それほど怒りは深いのだ、と。
 民主党の山尾志桜里(しおり)衆院議員が取り上げたのに対し、安倍首相は「実際に起こっているのかどうか」と冷淡だった。ならば「実際」の窮状を伝えようじゃないかと、保育の充実を求める署名運動も起こった。
 子育てと仕事の間で悩む女性からの風当たりに驚いたのだろうか。自民党は昨日になって、待機児童問題の緊急対策チームを作った。ネット上の「声なき声」への目配りも強化するという。独り言のような書き込みが政治権力を動かした。
 上野さんの語録から、もう一つ引用しよう。〈コトバは、現実ではない。むしろ、コトバが現実をつくる〉。保育をめぐる今回のいきさつをずばり言い当てる名言である。>

(ここまでは、ありきたりの話だが、これからが私のオリジナル)
 村上春樹のノンフィクションの方法もこれと似たところがある。村上春樹は、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューしてその記録を『アンダーグラウンド』に、加害者にインタビューして『約束された場所で』に残す。それを執筆するにあたり、ノンフィクション作品の基本ともいうべき「事実の裏を取る」ということをしない、しかもそのことを自分の方法としているという(加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書、2015年、p163)。
<「語られた話」の事実性は、あるいは精密な意味での事実性とは異なっているかもしれない。しかしそれは「嘘である」ということと同義ではない。それは「別のかたちをとった、ひとつのまぎれもない真実なのだ>(「目じるしのない悪夢」『アンダーグラウンド』)
 この方法は、「近代的な遺制」を脱した現代の哲学思想の知の地平では常識的なことだと、加藤典洋は述べている(前掲、p164)
 エビデンスを重んじる現代の教育界の風潮や社会学の実証的方法にも、一石を投じるコトバだと思う。

新鮮な気持ちを書き留める

《旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお》
 『オレがマリオ』(俵万智:2016年3月12日朝日新聞朝刊)

 あまり変わらない日常が続くのに、退屈しないのは何故だろうか、不思議に思うことがある。それは、自分は変わらなくても、自分の周囲にいる人が少し入れ替わっているせいなのかもしれない。
 特に学校や大学は、毎年一定程度の生徒や学生が入れ替わっている。小学校では6分の1、中高では3分の1、大学では4分の1が新入生である。教員の方も多少の入れ替えがある。入れ替わった人は、まったく新しい世界(環境)に身を置くので、日々驚きと新鮮な気持ちの連続で退屈している暇はないと思うが、その他の人も参入者(新入生)の驚きや新鮮な感覚に影響され、新たな気持ちになるのではないか。4月は特にそういう季節である。
 新しい世界(土地、組織、人間関係等)に行った時の新鮮な気持ちは、それがどんな素晴らしいところであっても、日常となると忘れてしまう。それをしっかりと書き留めておきたいものである。

話し言葉の教育について

学校という場は(大学も)、書かれたものが重視され、教科書や黒板やプリントやパワーポイントやノートも、書かれたもの(文字)を中心に、授業がすすむ。
しかし、話し言葉やプレゼンや討論の方が、双方型コミュニケーションがすすみ、重要だという認識が段々すすんでいるように思う。
ただ、教師というもの(特に大学教師)は、書く文字文化の中で育ってきたので、話すことはあまり上手でない人が多い。
それに比べ、政治家というものは、なんて話が「上手」なのだろうと感心する。そのような人が政治家になっているのであろうが、国会での質疑のやり取りを聞いていても、とても活弁で、自分の都合の悪いことはさりげなくかわし、別の話題に逃れたり、相手を責めたり、自画自賛の方向に持っていったりで「感心」する。
今の保育所の待機児童に関する国会議員とマスコミ人とのやり取りを見ていても、それを感じる。
話し言葉の教育は、どのようにすればいいのであろうか。国会議員のような、言葉だけ上手な人を育てればいいわけではない.

3.11に思う

放送大学の文京学習センターの客員教授をしていた時、月に2回開いていた自主ゼミが、今は、メンバーの自主運営で。「SEガーデン」というサークル名で、月1回(原則として毎月第2木曜日の3時半〜6時)放送大学文京学習センターの演習室で開催されている。
昨日(3月10日)のテーマは、3.11にちなんで、「自分の震災体験」であった。
仙台で震災にあい、ひとりで数日、水や食べ物や寝るところを探し求めてさまよったIさんの被災体験報告(本人は、かすり傷に過ぎなかったと述べていたが)を中心に、各自が自分の震災体験を語り、震災や防災、そして原発(の恐ろしさ)への思いを強くした。なかには、東北に3度も行き、震災のすざましさを目のあたりにして、写真も撮れなかったという体験を語るKさんもいた。

私自身はたいした体験もなく(一晩、放送大学仮校舎に泊まった)、多少の寄付はしたが、東北に行くこともボランティアをすることもなく、話せることはほとんどなかったが、次のような感想を述べた。

Iさんの体験談から、各自の生き延びる努力、そして見知らぬ人との相互扶助の大切さを感じた。
日本全国の学校では、安全教育、災害対策がすすんでいるのはいいことだと思う。ただ、子どもを親に引き渡せばいいという学校の姿勢には疑問を感じる。
小熊英二の指摘(3月8日、朝日新聞)のように、東日本大震災の復興費用32兆円のほとんどが高い防波堤を建てるというインフラ整備にかけられ、被災者の生活再建に直接支給は1%と少ない施策には疑問を感じざるを得ない。発想の転換が必要である。
震災当時、福島はもちろん関東そして日本全土が放射能汚染で危なかった原発事故を思うと(NHKのドキュメンタリーがそのあたりを詳細に報道していた)、原発の再稼働は考えられない。なぜこの教訓が日本で生かされないのであろうか。
津波の被害も甚大だが、それ以上に原発の放射能に汚染された福島地区の悲惨さは壮絶である(NHKの番組でよく放映されていた)。放射線量が高く、立ち入り禁止地区になると自衛隊も救援隊も入れず、亡くなった人も放置され、見捨てられた地区となる。このような犠牲の上に、今の(美しい?)日本という国が成り立っている。

関連記事 朝日新聞、2016年3月13日(ニュースの本棚)転載
原発事故5年 責任と開発体制の見直しを 大島堅一

福島第一原発事故から8カ月後、敷地内の放射線量は毎時70マイクロシーベルトを超えていた(福島県大熊町)
 東京電力福島第一原発事故から5年が経った。一体なぜ事故が起きたのか。その原因が、安全性を軽視し、無責任に原発を拡張し、原子力を開発してきた体制そのものにあるのは明白である。関係者に責任をとらせ、この体制そのものを解体しなければ、原子力をめぐる問題は、これからも生み出されるだろう。
 事故後も、このログイン前の続き体制は健在である。これは、一方では原発事故被害者を打ち捨て、他方では原発を再稼働させている。
 日野行介『原発棄民 フクシマ5年後の真実』は、避難した人々、特に避難区域外から避難した人々が、十分には救済されず、国や県によって無視されている現状と、その結果人々が直面する困難を詳しく描く。避難が復興の妨げであるかのように扱われ、十分な賠償が行われるどころか、避難者に対する僅(わず)かな支援すら打ち切られようとしている。事故被害者に落ち度はない。東京電力と行政の責任は重く、切り捨ては許されない。
 ■実被害を矮小化
 事故が起きたにもかかわらず、誰の責任も問われなかったため、原子力回帰が進んでいる。その主体は、経済産業省と電力会社を核とする、いわゆる「原子力村」である。小森敦司『日本はなぜ脱原発できないのか』は、その内実を見事に明らかにしている。福島原発事故後初のエネルギー基本計画策定過程で、政府が国民から集めた意見の9割が原発反対であったことを経産省は隠した。原子力死守の動きをえぐり出し、白日の下にさらしたくだりは圧巻である。
 責任をあいまいなままにすることは、被害実態の把握をもゆがめている。study2007『見捨てられた初期被曝(ひばく)』(岩波科学ライブラリー・1404円)は、事故発生直後に防護体制が全く機能しなかったこと、さらには、被曝被害が小さく見せかけられてきたことを実証した貴重な文献である。被害の矮小(わいしょう)化は、原子力規制委員会が作成した原子力災害対策指針に事故の教訓が生かされていないことにもつながっている。
 福島原発事故の被害は、被曝にとどまらない途方もない広がりをもっている。原発事故被害の本質は、地域の人々の人間らしい生活そのものが奪われたことにある。淡路剛久ら編『福島原発事故賠償の研究』は、東京電力と国の責任、原発事故による被害実態と損害、除染の問題点と課題など、原子力損害と賠償に関連する論点を包括的に整理し、原発事故被害をいかに救済すべきかを明らかにしている。第一線の研究者と弁護士の共同研究の成果である。
 原子力開発体制のあり方は、福島原発事故以前から問題視されていた。吉岡斉『新版 原子力の社会史』(朝日選書・2052円)は旧版を修正、福島原発事故に関する章を加えて、事故後、出版されたものである。日本の原子力開発の歴史を知ることのできる現代の古典である。
 ■解決方法を提示
 無責任な原子力開発の結果、福島原発事故以外にも、廃炉、放射性廃棄物問題などがもたらされた。困難な課題を解決するにはどうすればいいのか。この点については、評者自身もかかわった原子力市民委員会『市民がつくった脱原子力政策大綱』(宝島社・994円)が、福島第一原発の後始末や放射性廃棄物の処理・処分を含め、具体的解決策を提示している。原子力技術者から社会学者、経済学者まで広範な専門家と市民の共同作業で作られたものである。
 ◇おおしま・けんいち 立命館大学教授(環境経済学) 67年生まれ。『原発のコスト』『原発はやっぱり割に合わない』など。