バラの季節2-京成バラ園に行く

今日(9日)は、午前中に京成バラ園(http://momos-navi.net/823.html)へ。家から車で20分の距離。途中渋滞で、入り口も平日なのに大変な列。
今年はバラの開花が例年より少し早いようで、園内はたくさんのバラが、絢爛と咲きほこっっていた。ただ、昨日の強風のせいか、せっかくの花が少し損なわれていたのは残念。
ソフィ―(犬)は連れていけなかったが、同行した子ども(1歳半)とアメリカ女性Sさんが、はじめて見る多くのバラに感激してくれたのは嬉しい。今年はバラの最盛期に、多くの綺麗なバラを見ることができてラッキー。

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地震と「あきらめ」について

私自身、新聞をじっくり読む習慣がない。それでも読んで印象に残ったものや授業で使えそうなものは切りとっておこうと思う。それも忙しさのせいで忘れてしまうことが多い。少し前、哲学者の言葉で、地震とそれに対する心構えに関して、印象に残るコラムがあった。それを忘れないうちに、一部転記しておく。

巨大地震に襲われて 覚悟のいる「あきらめ」 佐伯啓思(朝日新聞、2016年5月5日朝刊より転載)

日本が地震大国であることは誰もが肝に銘じていたはずなのだが、ここへきて、改めてそのことを知らされた。阪神・淡路大地震から20年、東日本大地震からわずか5年。今度は、熊本・大分を中心とする九州中部の大地震である。その間にもいくつかの地震がこの列島を襲い、さして遠くない未来には、東南海や首都圏を襲うでログイン前の続きあろう地震による途方もない被害が想定されている。
この列島中を活断層が走っている。いずれ大地が鳴動することは間違いないものの、いつどこで生じるかわからない。ただひとたび生じれば、一瞬にして生命を奪われ、その生は断ち切られる。この瞬間を境目にして生の様相は一変し、生者と死者は不可避的に引き裂かれる。こういう不条理な不確定性のもとに誰もが置かれ、その不安や不気味さから逃れることができない。しかも、この「生への脅威」は、富裕層であるとか貧困層であるとか、老人であるとか若者であるとか、都会人であるとか田舎人であるとかとは関係なく、誰に対しても平等に襲いかかる。いかに近代社会が、等しく人々の生命財産を保障するという原理を打ち立てても、この不条理は、近代社会の根幹を一気に破壊してしまう。それがいまわれわれが置かれた状況である。
じっさい、活断層地図などというものを見せられると、生命尊重こそを繰り返して唱えてきた戦後日本が、実は何ともいいようのない生命の危機を内包していることがよくわかる。そしてこの事態を前にしてわれわれは立ちすくむほかない。(中略)
きわめて不安定な岩板(プレート)の上に日本列島があぶなっかしく乗っかっていることを知りつつも、ただただこの岩板の変動が最小限にとどまることを祈るだけ、ということにしたのである。さもなければ、東日本大震災から1、2年もたてば当事者を除いて震災の記憶は薄れ、3年もたてばまたもや、あの手この手を尽くした成長戦略を打ち上げ、株価の動向に一喜一憂するという、われわれの不細工な自画像を描く必要はなかったであろう。そして5年もたてば、また、東京オリンピックで建設ラッシュになり、インバウンド観光客の急増で大都市はたいへんな賑(にぎ)わいになったとはしゃいでいる。あの巨大地震の恐怖は、あっというまに、経済成長への期待と不安にとってかわられたのであった。つまり巨大地震については「あきらめた」ことになる。
しかし、この「あきらめ」は、真のあきらめではない。ただの思考停止であり、不都合なものは存在しないことにした、という消極的なものである。確かに、ここまで私的な所有権がはりめぐらされ、産業構造ができあがってしまった国で、根本的な防災対策はきわめて難しい。現状を動かしようがないのである。とすれば、「きたらきたで仕方なかろう」というのもわからないではない。
だが、本当の「あきらめ」は思考停止でもなければ敗北主義でもない。本当に「あきらめる」には覚悟が必要であり、それは容易なことではない。その覚悟とは、人智(じんち)を超えた巨大な自然の前にあっては、人間の生命など実にもろくもはかない、という自覚を持つことである。それは、生への過度な執着を断ち切り、幸福を物的な富の増大に委ねることの虚(むな)しさを知り、そして人の生も自然の手に委ねられた偶然の賜物(たまもの)であり、われわれの生命はたえず危機にさらされると知ることでもあろう。
かつて哲学者の和辻哲郎は、日本人の精神的傾向として「戦闘的な恬淡(てんたん)」といい、また「きれいなあきらめ」ともいい、それをきわめて荒々しい日本の自然風土と結びつけた。確かに日本人の「あきらめ」は、こうした人智を超えた「自然」への畏怖(いふ)と不可分であった。それはまた、今日のわれわれを支配する「近代的」生活や価値観を見直すことでもある。これは相当に「覚悟」のいる「あきらめ」なのである。(さえきけいし。京都大学名誉教授)

大学生の「生徒化」

我々の研究会で、大学生の「生徒化」という概念で、大学生の実態を解明してきたが、次のようなことも、その表れではないかと、ふっと思った。
どこの大学、どの学生にもみられる現象というわけではないが、中高校生の時に見られた現象で、大学生でも見られる行為がある。
その一つは、授業中の「リアクション・ペーパー」(授業へのコメント)を書く際に、学生たちの中で、早く出来あがった「模範解答」が回覧され、それを写すという行為がみられるということである。これは、学生に勉強させよう、自分で深く考えさせようという教師の意図を骨抜きにするものなので、教師の側の注意が必要である。ただ、いつの時代も「教師は教えたがり、学生は遊びたがる」(潮木守一『キャンパスの生態誌』中公新書)ということが見られるということであれば、別に目新しい行為ではない。また、受講学生の中に連帯関係や連帯感がないと成立しない行為なので、どのクラスにもみられるというわけではないし、連帯感があるのは悪いことではない。
もう一つは、女子中学生にみられる現象の大学生版ではないかと思うことである。仲間同士で担当の教師を毛嫌いし、教師の指示や教え方に嫌悪や反発を示し、それをお互いに確認し合い、私語や無視で対抗しようとする態度である。これはそれほど多くあると思えないが、幼い大学1年生女子に見られるように思う(本人達は、それが幼い行動とは自覚していない)。そのような雰囲気のクラスで教える教師はかなりきつい。

大学という場は、教師と学生の「格闘」の場でもある。

バラの季節

これからバラの季節。バラは、なんといっても、花の中で、一番の地位にある。上品であり、可憐であり、豪奢である。

家の近所のバラも、旬の一輪一輪を見ると、芸術の極みのような優雅さがある。

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地域に根ざした学校

地域に根ざした公立の小中学校は、その地区の実質的にも精神的にも中心なのであろう。その学校がなくなるということは、その地域が消滅することも意味する。
武蔵大学時代に同僚だった黒澤英典先生より、先生が60数年前に卒業された秩父の両神中学校が69年の歴史に幕を閉じ終焉をむかえることに、「心の故郷の喪失で寂しく気持ちがいたします」というお手紙をいただいた。先生は、「地域の志を同じくするか方々とささやかな寺子屋を故里の我が家で始めました」と書かれていて、さすが熱い教育学者と、心打たれた。
私の場合は、市川市の小学校、千代田区の中学校と東京の郊外や都心の学校を出ているので、黒澤先生のような地域への思い入れがない。個人主義的で、地域意識がない。この点は、いかんともしがたい(と言いながら、千葉に愛着を感じているのであるが、、)
小中学校のみならず、高校や大学も含めて、地域に根ざした学校、大学というものは、今消滅しつつある。だからこそ、今地域に根ざした学校を大切にしなければならないのかもしれない。

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