アフォーダンス【affordance】

「教室のかたちによって授業の形態も変わってくる。このように環境によって人や動物の行動が規制されることを、アフォーダンス(affordance)という」と、何となくうろ覚えのことを、授業の中で話した。調べてみると、間違っているともいえないが、正しいとも言えない。
アフォーダンス【affordance】という言葉自体が、本来の意味と違って使われ、広まったようだ。
ネットからのいくつかの転載
<ギブソンの提唱した本来の意味でのアフォーダンスとは「動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの」である。しかし近年、特にデザイン領域においては、「人をある行為に誘導するためのヒントを示す事」というような意味で使用される事がかなり多い。これらはギブソンの本来の意図からすれば全くの誤りである。>(ウィキぺディア)
<アメリカの知覚理論家J・J・ギブソンが生み出した概念。生物が知る世界の「意味」は、神経による情報処理によってつくられるのではなくて、すでに外界の客観的構造として存在しているという仮説。要するに、情報は環境の中に満ちあふれており、生き物はその一部をピックアップしているのだということである。一見簡単なことをいっているようだが、これは外界と自己との関係についての基本認識に、根本的な変更を迫るものである。アフォーダンスは、環境をすでに与えられたデータとしてではなく、生きた知覚とのダイナミックな相互作用において考える。>[吉岡 洋]
<アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。>(ウィキぺディア)
(2012年5月24日のブログも参照)

現代の学生考

若い学生との世代差を感じる時もあれば、それほど年齢差を感じない時がある。歳を取ると精神的には若く(幼稚に?)なる部分もあるので、昔より年齢差を感じない場合もある。
最近いくつか、学生の行動で驚かされた事例をあげておく。
① 授業のテキストを買わない、あるいはテキストを共有する学生が少なくない。1年生はさすがにそのような学生は少ないが、2年生以上になると、指定したテキストを購入しないで済まそうとする学生がかなりいる。好きなグループの音楽を聴きに(見に)行くのに1万円近くのチケット代は惜しくないが、2千円弱の本は高いと思う。発表に当たっても、毎回読んでくるように宿題を出しても、テキストは購入しない強者はかなりいる。1回4000円相当払っている1回の授業なのに、2000円弱の本代を惜しむとは、驚き。
② 授業中のスマホいじりを傍に行って注意するとその時はやめるが1分もしないうちに、また見ている。
③ 授業中1分足りとも黙っていられない学生がいる。教室を喫茶店かファレスト勘違いしている。
④ 授業中一人が後ろを向き、一人がスマホを見て、ずーとおしゃべりしている3人の女子学生を注意したところ、怖い顔で睨み返された(他にしゃべっている人、スマホを見ている学生がいるのに、自分達だけが注意されるのは心外という風情。公平感はあるのかもしれない。
⑤ これは、一緒にいて楽しくなる事例だが。
ゼミで予定した外でのレクレーションが雨で中止になり、教室でピザやケーキを食べながらの話題。ひとつは、スマホで顔を入れ替えるアプリ(これは今はやっているらしい)を使い、大うけ(私が入ると50歳以上の歳の差の交換に気色悪さが伴い、これは✖)。もう一つは、黒板に過去の付き合った異性の名前を時期順に書き(名前をきちんと覚えている)、皆も共感しながら、付き合い方の勉強(2〜3日の付き合いがあったり、次がすぐ見つかったり、これまで10名以上も挙げる強者もいて、感心した。二股というのは皆無?)。

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日本子ども社会学会23回大会プログラム

日本子ども社会学会23回大会が、6月4日(土曜日)5日(日曜日)に、沖縄の

琉球大学で開催される。そのプログラムが、学会のHPに掲載されている。

私達もデジタル教科書に関する調査のデータ(小中の教員と児童・生徒対象)を報告する。

http://www.js-cs.jp/wp-content/uploads/2015/10/jscs2016programme.pdf

余計なおせっかい?

「自分にしてほしくないことを、人にしてはいけない」というのは、子どもへのしつけや道徳教育で言われると思う。
それでは「自分にしてほしいことを、人にしなさい」というのは正しいことであろうか。
昔家族でアメリカのマディソン(U.W.)で1年過ごした時、そこのアメリカ人からたくさんの恩恵を受けた。いろいろな行事に誘ってもらったり、家に招待してもらったりと。異国で土地勘もなく、知り合いも少ない中で、それらの招待や誘いは大変有難かった。
ただ、その恩恵は一方的なもので、お返しができないのがもどかしかった。その分、もし同じ人でなくても、外国の人が、日本に来たときは、そのお返しをしたいと思っていた。
最近、隣の家にアメリカ人が滞在しており、暇そうにしている時もあるので、「うちの家族と一緒にバラ園にいきませんか」とか、「海を見に行きませんか」と誘ってみることがある。その人は、その誘いの半分くらいには応じ同行し、「親切にしてくれて、ありがとう」とお礼を言うのであるが、誘いに少し迷惑を感じているのではないかと思う時もある。(http://www.iamalive41.com/)
人それぞれ、生活のペースや好みはあるものだし、自分の好み(自分が外国に行った時してほしいこと)を人に押し付けるのは、たとえそれは親切心からであっても、余計なおせっかいなこともあるのかもしれない。

自分にしてほしくないことは他人もしてほしくないことであることは多いが、 自分にしてほしいことは、他人もしてほしいことではないことも多く、「自分にしてほしいことを、人にしなさい」とは言えないかもしれない。

追記(6月2日)

ただ上記も日本人にありがちな遠慮だったかもしれない。彼女の滞在記(ブログhttp://www.iamalive41.com/)を読むと、下記のように、私達の家族の「おせっかい」も楽しんでくれたようで、それならもう少し、誘っておけばよかったと今は思う。
I made friends with the family across the street and they took me on several outings including two very nice flower gardens, a gigantic mall, and they invited me to their backyard BBQ dinner. Three generations live in the same house and one daughter is in Tokyo. The entire family speaks fluent English, which was refreshing…even the three-year-old grandson…who is the sweetest little boy and can sing Row Row Row Your Boat like a professional!

IMG_2318(Y 歌)

 

 

下流老人化社会の「賢い」選択

ペットはいつまでも可愛く、また飼い主を裏切らないが、子どもは大きくなれば親に反抗するし、親を裏切らないまでもいつまでもやっかいをかけ、老後の面倒もみてくれないかもしれない。それならば、子どもを産むよりはペットを飼った方がいいと考える人も、少なからずいるであろう。
話題になっている藤田孝典『下流老人』(朝日新書、2015)を読んでみた。その中に「子ども一人あたりの教育費」は、大学まで出すと、すべて国公立の場合1015万円、すべて私立(大学は理系)の場合2466万円で、子どもを持たなければ(「出産しないという’合理的選択‘をとれば)その分だけ自分の老後の資金に回せ、「下流老人」になるリスクが少なくなる、というようなことが書かれていた(43ページ)。
もちろん子どもを持つことは自分の老後の為ではないが、子どもがいるといつまでも手がかかり、さらに自分達の老後の面倒もみてくれそうもないとすると、夫婦は子どもを持たない方が、さらに結婚せず独身でいる方が、今の下流老人化社会においては「賢い」選択ではないかとも思った。

水沼文平さんより、上記の文章にコメントをいただいた。その一部を転載させていただく。
先生のブログ《下流老人化社会の「賢い」選択》を拝見しました。
親と子の問題のことを考えるたび、安部譲二の「子供は三歳までに一生分の親孝行をする」という言葉で後悔の念を薄めてきました。「子を持って知る親の恩」という諺がありますが「親孝行、したいときに親はなし」も身につまされる諺です。子どもとは「親不孝な者」「何も期待してはいけない者」「ひたすら親に要求してくる者」と思ってしまえば、子どもたちの身勝手も納得がいくというものです。
結婚しても子どもを作らないどころか未婚の男女が増えています。理由として女子に圧倒された“草食男子”の増加、‟Y染色体“の劣化などが上げられますが、自然界でのメスを巡るオス同士の熾烈な戦いの映像などを見るにつけ、氷河期到来の予測と重ね、人類は衰亡に向かっているのではないかという懸念を覚えます。
「下流老人」は読んでいませんが、多くの貧困老人を産む社会は、戦後日本人歩んできた「物・金」至上の価値観がもたらした結末だと思います。この価値観をベースに賢く生きるか、他の生き方を求めるかは私たち老人の大きな課題です。老人にとってお金は生きていくために必要なものですが、私はお金では買えない目に見えない豊かなものを心の中にたくさん持って生きていきたいと思っています。
大谷映芳著「森とほほ笑みの国 ブータン」(集英社文庫)を読みました。著者がいう「世界一幸せな国、ブータン」とだけは言えない面もあるようですが、自らの「ブータン国」の確立を老後の目標としたいと思っています。(水沼文平)