子猫三度

(野良の)子猫を引き取ってくれる人を探す「猫の里親」のサイ,たくさんあると、先ほど知った。

猫好きの近所の人が連絡して「猫の里親」団体の人に、野良猫が集まるところに来てもらい、子猫の写真を撮っていった。この子猫たちの貰い手が見つかるとうれしい。

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検見川浜に行く

今日(9月8日)夕方は少し涼しくなったので、夕焼けでも見たいと、家から車で12分のところにある検見川浜に行く(駐車場が30分以内は無料)。犬と幼い子どもも、久しぶりの海に大喜び。ただここは東京湾内で、外房の海とは、水のきれいさは少し違う。また砂浜も整備や掃除がされていない。その点、少し興ざめ。空に雲があり、今日は夕焼けは見られなかった。
遠くにディズニーランドが見える。そこから車で5分の海浜幕張の「コストコ」に行く、コストコの駐車場からは、幕張メッセや海浜幕張のイオンモール(これがとても大きい)、そしてマリンスタジアムと海(東京湾)が見える。この地区に住むと便利だし、心地よい海風にあたり、日の入りが毎日見えて、快適だろうなと思う。

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子猫再び

2か月ほど前(7月7日)に同じようなことを書いたが、近所でまた4匹の子猫(野良猫)が生まれたようだ。近所の人は、野良猫を捕まえては避妊手術の為に動物保護センターや獣医のところに連れているが、追いつかない。 子猫に近づくと親猫に威嚇される。子猫は可愛いいが、野良猫の為、段々猫相が険しくなる。近所でいろいろな問題も起きている。猫の出入りするところは、異臭が漂う。餌をあげている猫好きの家と猫嫌いの家が何となくよそよそしくなるという事態も生じている。「あなたたち、これからどうするの?}(子猫に聞いても仕方がないか)

水沼さんから仙台も同じような事情の様子であることをお知らせいただいた。

<知人に町内会長をしている人がいて、野良猫(仙台弁ではのっつぉねご)をめぐる住民のトラブル、ゴミ対策などが大変なようです。猫は多産系の動物で年に3~4回出産するそうです。避妊ボランティアが仙台にもたくさんいて、市からの補助を受け、猫を捕獲しては動物病院に送り込んでいるようです>(水沼>

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SEガーデン

放送大学東京文京学習センターの客員教授をさせていただいていた時代(20010年4月〜2015年3月)に教育に関する自主ゼミを月2回開催していた。その自主ゼミが、私の退職後もサークル(SEガーデン=教育社会学の庭)として存続し、だいたい月1回(第2木曜、15時30分〜18時)、東京文京学習センターの演習室で開かれている。 昨日(8日)は、永井聖二「人間形成と教育」(高野良子・武内清編『教育の基礎と展開』学文社、2015、第1章)がテキストで、参加者は8名で、活発な議論が展開された。 永井先生(東京成徳大学教授、日本子ども社会学会会長)の書かれた章は、簡潔、明快に、教育の本質と特質、その社会的特質について説明されており、そこからいろいろ議論が発展した。 特に、野生児の研究(最近も犬に育てられた女の子がいるという?)、育児の国際比較(スポック博士の育児書の内容が日本の母子手帳に記載された時代がある等)、消費社会化(純真無垢ではない子ども、ポケモンgo)について、現代的な問題が、皆の経験をもとに、議論された。 放送大学には、多様な年齢、経歴、関心の方が集まり、気楽に議論、交流できるので楽しい. 次回以降も、このテキストを使った議論が続く。

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学びの共同体

戦後大学に講座ができた「教育社会学」は、既存の教育学があまり扱っていない学校教育の周辺のこと(地域社会や階層)を主に扱ってきたので、学校教育の中核部分であるカリキュラム(教育内容)や教育方法に関しては疎い(苦手)ところがある。
しかし教育社会学が学問として確立し世間でも認められるようになった今、教育社会学も学校教育の中核部分に切り込むことも必要である。(先に学校社会学研究会で報告のあった名越氏はじめ、何人かの教育社会学者は、それをはじめている)
さしあたり、私は教育学で定評のある本を読むことからはじめよう。たまたま手元にあった佐藤学『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)を読んでみる。佐藤教授はとても含蓄のあることを書かれている。そのいくつかを抜き出してみよう。

「静かな革命は、学びの様式においては、座学の学びから活動的な学びへ、個人的な学びから共同的な学びへ、獲得し記憶し定着する学びから探求し反省し表現する学びへの転換として表現され、授業の様式においては、伝達し説明し評価する授業から触発し交流し共有する授業への転換として表現される」(7頁)
「学びとはテキスト(対象世界)との出会いと対話とであり、教室の仲間との出会いと対話であり、自己との対話の3つで対話的実践によって構成されるのであり、「活動的で協同的で反省的な学び」として遂行される。」(13頁)
「ほとんどの教師が魅了されている授業は、しっとりとした関わりの中でつぶやきや声を聴き合い、一人ひとりの細やかな思考をていねいに擦り合わせる授業である。これまで喝采を浴びてきた授業が、にぎやかな劇的な動きのある派手な授業であったのに対して、今の教師たちの心を捉えているのは、繊細な響き合いによってていねいに進められる、静かで地味な授業である」(29頁)
「授業を創造する教師の力量において、専門的な知識や授業の経験はその3割に過ぎない。残りの7割は、子ども一人ひとりの思考や感情をどれだけ尊重し、一人ひとりの子どもの隠れた可能性をどれだけ引き出せるかにある」(62頁)
「子どもが求めているのは、落ち着いて学び、安心して自分の可能性を開くことのできる教室である」(45頁)(『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)

この本は13年前に出版されていて、アクティブ ラーニングという言葉は出てこないが、内容的には、アクティブ ラーニングへの転換が提唱されている。
佐藤教授は、派手に活動する授業ではなく、静かに深く学ぶ授業を提唱している。本の中に「響き合う」「柔らかな」「しっとり」という言葉が、頻繁に出てくる。佐藤教授の「学びの共同体」論は、机上のものではなく、教授が1万近い教室を訪問・観察して出てきたもので、説得力を持つ。
教育社会学の立場からすると、データの裏付けやその論の社会的意味もほしいと感じた。教師の属性による教育方法の違い、教師の教育実践と子ども反応との関係、時代的背景と教育に対する社会的要請など。
2016年の今は、教育学ではどのような学びが必要なものと提唱されているのであろうか。教育社会学の立場から、批判的にも考えていきたい。