学会発表について

学会発表では、自分の持ち時間が20分程度与えられるが、これは短いようで、かなり長い(すごいことの)ように思う。
学会は、その分野の最先端が報告されるのが通常で、その部会の参加者(聞き手)は、その分野の専門家が集まる。その専門の研究者の前で、20分も報告できるのは発表者の特権である。
聞き手は質問時間10分の中のわずかな時間をもらって質問したり意見を述べ
たりできるだけである。たとえ発表者が若い院生で、質問者(聞き手)が有名な教授であっても、発表者は20分、質問者は1~2分という発言時間のルールは守られる。
今回、教育社会学会で若い人の発表に、その分野の有名な学者(教授)が質問と意見を述べる場面をみて、上記のことを強く感じた。学会発表の特権と学会発表の貴重さを強く感じた次第。

日本教育社会学会第68回大会に参加

日本教育社会学会第68回大会が、9月17日(土)〜18日(日)に、名古屋大学で開かれそれに参加し、多くの発表を聞き、知り合いや友人にも会い、有意義な3日間であった。大会校開催校の伊藤彰浩教授、渡邊雅子教授らスタッフの行き届いた配慮と学生諸君のテキパキとした働きで、とても快適な学会であった。
発表者は180人を超えて、興味深い発表が多く(浜島幸司氏の大学生の社会意識に関する丁寧なデータ分析の発表もあった)。教育社会学研究の勢いを感じた。全体の参加者は600名を超えていたようだが、70歳以上は私も含め10名もいないのではないかと思え、その点さびしい限りであった。
泊まったホテルも快適で、夜は17日の名古屋大学食堂での懇親会の他、16日には竹内洋氏(京大名誉教授)や岩井八郎氏(京大教授)らともはじめて一緒にビールを飲み、いろいろな話ができた。

いくつか、学んだこと(記憶に残っていること)を記しておきたい。

1 日本におけるニューカマー研究は、欧米のニューカマー研究の研究枠組みをそのまま借りてきているところもあるが(それが不徹底という説もある)、日本の場合、欧米諸国とは社会的状況も違い(たとえば、ニューカマーは日本語と母語だけでなく英語も学ぶ必要がある等)、その日本的事情も十分考慮する必要がある。ニューカマー2世の研究から新たに見えてくることもある。
2 サポート校は、生徒の出入りが激しく、その生徒文化は固定的な学級に所属する従来の学校の生徒文化とは違った、新しいタイプの生徒文化が形成されている。
3 私立の通信制高校は、不登校の生徒の受け皿としての役割を果たし、高校教育を補填するという側面をもつが、そのカリキュラムは生徒寄りのもの(アニメやダンス等)もあり、授業料は高額で、「貧困ビジネス」という側面もあり、注意が必要である。
4 学校におけるいじめの責任(帰属)については、社会(特にメディアが作るモラルパニック的誇張が強い)、司法(独立の立場に立つが、段々社会に近づいている)、そして学校(教師の教育的配慮、実践)の3つがある。それに、「第3者委員会」が加わる。それらの間にはズレがあり、学校は他のセクターの動きに翻弄される。段々、教育(学校)の論理は無化される方向に向かいつつある。

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中秋の名月

今日(15日)、中秋の名月。
日本人にとって、月は特別の存在なのか。天声人語に次のような記述がある。
<こよいは旧暦の8月15日、中秋の名月である。残念なことに雨や曇りで見えづらい地域が多そうだが、日本海側などでは静かに光る姿がおがめるかもしれない▼北海道で教鞭(きょうべん)を執ったロシアの民俗学者ネフスキーは日本や中国の詩に、月のモチーフが多いことに驚いたという。日本人にとっての月とは「世の中の歓楽喜悦は永劫(えいごう)のものでなく、何時か最後が訪れる」ことを感じさせるものだと説いた(『月と不死』)。現実を超える魔力があるのだろう▼〈来世と過去世を宙に綯(な)い交ぜて圧し光(て)るものを月と謂(い)うべし〉秋葉静枝。日常の慌ただしさに、心が張る。そんなときは月を探してみるのも一興であろう。>(朝日新聞、2016年9月15日朝刊)。

雲の隙間から、少しどんよりとした満月。ススキも御団子もなく、ソフィー(犬)と一緒にみる。

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つつましやかな満足

経済不況の折、一家の主婦は、新聞の折り込みチラシを見て、1円でも安い品物を求めて店を回っているという新聞記事を目にすることがある。そのように節約した金額が、「チリが積もれば山となる」で、1年間で大きな金額(節約)になるという。これを、幸福度や満足度からみてみたらどうだろう。

私の身近な例でいえば、近くの大きなスーパーで400円のお弁当がそれなりにおいしく量もあり昼食として満足できる。ただ、近くの小さな店のお弁当は500円と少し高いが、注文してから作ってくれておかずの種類も多く温かいお弁当でとてもおいしい。お昼に家にいて、このどちらかのお弁当にしようという時、迷うことになる。

たかだか100円の違いだが、家族の4人分を買うと400円の差がある。これを1か月にすると1万2千円の差となる。毎日お弁当を買うわけではないので、月の半分とすると6千円の差である。1か月に6千円余分に使えば、1か月おいしいお弁当が食べられる。1か月6千円節約すると、毎日のお弁当があまり美味しくない。

1か月6千円といっても少ない額ではなく、半年で3万6千円。1年で7万2千円となる。このお金で、半年に1度あるいは2度、家族で旅行にいくことができる。毎日の満足度を小さくしても、1年に1~2度、家族で旅行し、ドーンと楽しんだ方がいいと考える家族もいることであろう。

上の例は、あまりにつつましく、笑ってしまう人も多いかもしれないが、このようなことで悩んでいるのが、庶民の現実ではないかと、私は思う。(ただ、働き手の父親が、飲み代を、月に1~2回節約すれば、6千円はすぐ捻出でき、家族はおいしい昼食を毎日、食べられるともいえる)

私自身は、年に1~2度の贅沢な旅行に行かなくても、日々の小さな満足(400円のお弁当ではなく500円のお弁当)の方を選びたいと思う。(なんと、つつましやかな満足であろうか。普通サラリーマンの昼食の平均は1,000円くらいではないかと思うので。)

(でも昨日テレビで、インドネシヤの10歳前後の子どもが、タバコの葉を束にする仕事に1日4〜5時間従事し、素手でタバコの葉に触るので、ニコチンが体内に入り、病気になっている様子を放映していた。それは貧しさ故のことで、1日そのように働いても100円もならないという。それを考えると、100円でも馬鹿にできないし、この子らの犠牲の上に、日本や欧米諸国の人々のタバコの趣向が成り立っているかと思うと、やるせない気持ちになる。)

教育社会学への理解

「学会の集まりは新興宗教の信者の集まりのようなもの」と教育社会学者の竹内洋氏が、ある雑誌に書かれていて、なるほどと感心したことがある。
私達大学教員は、自分の専門のことで一番大切に思っていることが、学生はおろか、同じ学科の教員にも理解されず悔しい思いをすることが多い。しかし、大学は違っても同じ学会(学問分野)のメンバー同士は、学問の共通土台があり、世代、性別、大学、地位が違っても、話が通じると感じることができる。年1回の学会の大会で、同じ学会メンバーと交流することで、日頃の周囲の無理解のうっぷんを晴らすことができる。
教育社会学の特質として、自己の方法論や立ち位置を問題にするという自己言及的な謙虚なところがあり、それは新興宗教とは違うところだと思う。
日本では、戦後学会も出来、いくつかの大学で講座や科目のもうけられている教育社会学であるが、その地位は安定していない。
優れた多くの教育社会学の論文や著作が発刊され、多くの教育社会学の研究者が、学会(*)、マスコミ、政府の審議会で活躍しているが、大学で教職科目に教育社会学は入っていないし、教育社会学という科目が開設されて大学もそれほど多くない。
これは嘆くより、研究者が、それぞれの立場で地道に努力し、教育社会学的な見方の有効性を訴えていくしかないだろう。
これは、新興宗教的な見方と思われるかもしれないが、今の全国の大学で、教育関係の学部や学科は、教育社会学への理解があるかどうかで、その大学の教育学研究の水準は左右される(これはデータでも示せる)、それだけの成果を教育社会学は成果をあげていると、私は思う。

* 日本教育学会の会長は広田氏(日本大学)、日本高等教育学会の会長は金子氏₍筑波大学)、日本子ども社会学会の会長は永井氏(東京成徳大学)と、日本の主要な教育やこども関係の学会の会長は教育社会学が専門の研究者である。