講義アレルギー、活字アレルギー

いろいろな大学で授業をしていて感じることだが、学生の中に少数ながら、「講義アレルギー」のものがいるように感じる。教員が講義を始めると、すぐそれをシャットアウトし、他のこと(スマホをいじったり、私語をしたり、マンガを読んだり、眠ったりする)をする学生がいる。 それはちょうど、私達がアレルギーのあるものを避け決して食べないようにするのと似ている。私達は日常生活で、嫌いなものは避けて生活しているので、一概に「講義アレルギー」の学生を非難できない。 「活字アレルギー」も合わせ持っているのではないかという学生も見かける。講義の資料に文字の多いプリントを配ると、さっさとプリントを折りたたんでしまってしまう。 「講義アレルギー」は、大学に入学するまでの小中高で培った習慣なので、そう簡単に直せないように思う。これまで小中高で教員の退屈な話(講義)をたくさん聞かされ、それに対する対処戦略として身に付けたのが、講義シャットアウトの手法なので、講義が始まると自動的にそのスイッチが入る。 それなら、授業に出てこなければいいのにと教員は思うが、単位の為に必要な授業であるし、友人はいるし、たまには教員の講義ではない雑談も聞けるしと、授業には出席する。 「教員は講義したがり、学生はそれをシャットアウトしてやり過ごす」このような光景は、どこの大学でも見られる。それで、教員はいささか傷つき、学生はそのことに気が付かない。(学生は、このような文章を読むことがない)

メディア活用ガイダンスに出る

敬愛大の私のゼミの2年生に対して、メディアセンターでは、資料探しの方法やデータベースの使い方に関するガイダンスが、電子黒板とタブレットを使ってあった。
私も学生に混じり、タブレットを借りて参加したが、大変な遅れをとった。まず、普段PCは使っているが、スマホを使っていないので、タブレットの使い方がよくわからない。スイッチの位置や指でスクロールする方法や拡大縮小に馴れない。まわりの学生に聞き、何とかできたが、これからデジタルの時代になると、一般の教師と生徒・学生で、デジタル機器の使い方に関する知識が逆転し、教師が生徒や学生に教わる羽目になるのではないかと思った。教師の権威もなくなってしまい、教育が成り立たなくなってしまう。
「ドメインを活用して検索すると効率がよい」(政府機関go.jp 地方公共団体jg.jp)
「PDFファイルの資料探し」  検索文字filetype.pdf
など、知らない知識を得た有益なメディアガイダンスであった。

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今週の授業のリアクション(敬愛大学)

私の敬愛大学での後期の講義科目は2科目。「教職概論」(こども学科2年生、97名)と「教育課程論」(こども学科1年生、73名)である。 以前に書いたように、資料を読んで、質問に解答するような形式が続いている。今週のテーマは、「教職概論」は教師論、「教育課程論」は、特別活動についてである。それぞれの授業のリアクションを、2つずつ、掲載しておく。教職概論で、映画「二十四の瞳」を観てもらおうとしたが、時間がなく最初だけで終わってしまった。

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秋の夕焼け

秋になり、空気も澄んでくると、研究室の廊下から、稲毛海岸の海と夕焼けと富士山のシルエットが見える。夏も終わり、秋を通過して、冬に向かっていることを感じる。

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これって アクティブ・ラーニング?

 大学の授業では、一方的な講義型ではなく、学生が授業の中で主体的に学べるアクティブ・ラーニングの手法を取り入れるように、盛んに推奨されている。
必ずしもこれ(アクティブ・ラーニング)を意識したわけではないが、私の最近の授業(講義)は、私が話す時間は少なくして、テキストや配布した資料を各自読んでもらい、その内容を読み取って、質問に答えてもらうという方式をとることが多い。私のグダグダした説明より、説明の文章を読んでもらった方が早い場合が多いと思うからである。学生は、そのくらいの読解力を持っている。
質問に対する解答はリアクション用紙に書いてもらい、その解答を黒板に出て書いてもらい、解答を皆で共有する時もある。次回に一部をプリントして配る場合もある。
リアクション(授業のコメント)はこれまで、質問や感想等を自由に書いてもらっていたのが、最近はあらかじめ授業の流れに沿った質問をいくつか用意して、書いてもらうという方式をとっている。その質問の解答は、配布資料の内容を読み取らないと答えられないようなものを用意しておく。さらに、単に内容の読み取りだけでなく、それを理解して上での自分の考えを書くように仕向けている。
この方法は、学生の志向を一定の方向に誘導する面ももち、自由な思考が求められる
大学にはふさわしくないかもしれないという危惧も感じながら、試行している。
敬愛大学の学生たちは、私の出した質問によく答えてくれているように思う。書かれたリアクションを読むとそれが感じられる。それは、一部の学生に限らない。多くの学生がかなりの分量の解答を、的確に書いていることからもわかる。そのいくつかを、例として示す。

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