ブログの切り取り、それへのコメント

私のこのページ(ブログ)は、読んだ人からのコメントも「いいね」もない。その為発信する側としては大変気楽に好き勝手に書いているが、時々誰かに読んでほしくなり、その一部をコピーし、授業で学生に配布することがある。
教師の愚痴のような文章を読む気もおきない、というような雰囲気が教室に充満するが、そこは講義者の特権で、無理やり読ませて感想を書かせるということを時々する。ただ、そのコメントを読むと学生は当たりさわりのないことをさらっと書き、肩すかしを食うことが多い。(以下に最近の例を示す)

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学生達の時間感覚

今日(12月20日)の敬愛大学国際学部の1年生のゼミは、合同で親睦会が開かれた。
留学生の紹介、スピーチ、祖国の紹介、挨拶ゲーム、ジェスチャーゲーム、ライブなど盛りだくさんの内容で、留学生も含めて学生同士の親睦が深まったようだ。
今日の会は学生企画で、進行がもたついていたが、学生たちはそれにいらだつ様子もなく、周囲の友人とのおしゃべりを楽しんでいて、(千葉の)学生たちの「もったりした」時間感覚を感じた。(私たちの世代が、時間を無駄にしてはいけないと、駆け抜け過ぎてきたのかもしれないと思った)

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感謝することが大事

井上揚水「感謝知らずの女」という歌がある。
http://j-lyric.net/artist/a00071f/l0100fe.html
これだけ私はあなたの為につくしているのに、あなたから「ありがとう」の一言も返ってこないという恨みがましい内容である。(後半は別の感情を歌っているのかもしれないが、、、)
このような感情は、人に対してだけでなく、属している組織(会社等)に対しても、人はいつも感じていることであろう。
しかし、逆の立場からみれば、相手(人や組織)も同じこと(「感謝知らずの男」)を感じているのではないかと、ふっと思った。(これは夢の中で思ったことだが、記録に留めておきたい)

教育政策の社会学

日本の教育の世界は、国の政策で決まったことが全国一律に適用されるので、影響力は大きいと思う。しかし日本の教育政策がどのようなメカニズムで決まるのかという研究は少ないのではないか。
文部科学省の中に、中教審やその下部の専門委員会はじめ、領域ごとのや教科ごとの委員会や有識者会議があり、文部科学省の大臣、各部署や局長、審議官、課長、係長、視学官、教科調査官などさまざまな役職があり、何処が実質的な権限をもち、実質的なことはどのようなメカニズムで決まるのか知りたいところである。
「教科領域の壁は厚く、教科の専門家以外は口を挟めない。特に英語教育はそう」「有識者にいろいろ議論させても、最初に文部科学省の事務方が作った案に落ち着く」「中教審の親委員会に案が挙がってくる時はほぼ決定されている」「教科調査官の権限は絶大で、教育現場で神様のような存在、しかし学習指導要領の新しい方向を、教科調査官が正しく理解しているわけではない」等々。-いろいろな憶測を聞く機会はあるが、それらのどれが正しいのか、全くわからない(どれがきちんと実証的なデータで検証されているのか、私がたまたまこの分野に疎いのかもしれないが、わからない)。
もうすぐ、新しい学習指導要領が発表され、日本の教育の方向は大きく転換されると言われているが、その内容は誰が提案し、どのようなメカニズムで決定されたのか、知りたいところである。

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大学教育の意味

非常勤先の大学(神田外語大学)で教職科目の「教育社会学」を教えていて、「あれ!」と思うようなことがあった。
かって私が教えていた上智大学の教育学科のようなところでは、「教育社会学」は教職科目ではないので、教員採用試験に出るとか教師になって役立つとかということを意識しなくてよかったが、教員養成の為にある科目がある大学の場合、そのような実利的な効用を意識せざるを得ない。学生もそれを期待して受講しているのだし、実利的な目標を設定することは、そんなに悪いことではない。
そこでは私の著書の『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年)をテキストに学生に発表をしてもらっているが、ここ2回はたまたま大学や大学生文化を扱う章(1章~4章で、発表内容と議論が、大学生活の実態や大学教育の意味といった、教職とは関係のないこととなった。
発表の後の少人数の討論の後の感想を聞いていると、「大学とはどのような場なのかいろいろ考えさせられた」「大学は何をしようが自由な場で、その時間を有効に使いたい」「将来の安定確保の為に教員免許を取っているが、それでいいのか迷うようになった」「語学はあくまで、何かを学ぶための手段であり、それを使って何をしようかいろいろ考えている」など、実利的なキャリヤ(将来の職業)の為でない、大学や学生の本来のあり方への模索や理解がなされていることを知り、教える側として大変うれしく感じた。
このような実利でない大学教育の意味を、私もしばらく忘れていたように思う。