第1回サンセットヒルズ下桟橋parkrunのお知らせ

知り合いの方から、佐倉市の印旛沼でのランニングやウォーキングのイベントのお知らせをいただいた。そのイベントは、parkrunの佐倉市バージョン(9/30をスタートとして、原則毎週土曜日午前8時にスタートする無料イベント)のようである。その案内を下記に転載する。

<parkrunは、単なるランニング&ウォーキングのイベントではなく、健康増進のために老若男女の皆さんが集い、5kmのコースを自分の目標に合わせて楽しむこと。同じ目的で集うことによって、皆さん方のコミュニティづくりの機会となり、張り合いのある日々の生活を送れるきっかけにもなること。また、人々が集まることにより、その地域社会と地域社会経済の活性化にもつながっていくこと。バックスポンサーの共催により、金銭的な個人負担は一切かかりませんが、運営そのものは、すべてボランティア活動によって行われており、一人一人のボランティア精神のおかげにより開催が成り立っているというのが、全国、全世界で行われているparkrunです。本部はイギリスにあります。スポーツ庁より 第2回 Sport in Life アワード大賞(最優秀賞)を受賞しています。現在、国内では35箇所のparkrunコースが展開されております。毎週土曜日、国内すべてのコースで、朝8時一斉スタートです。千葉県では、柏市・柏の葉公園コース、浦安市・浦安市総合公園コースの2箇所があります。県内3番目として、普通の公園内コースとは違う、印旛沼があるからこそ、そこに集う人々のためにサンセットヒルズ下桟橋parkrunを立ち上げることにいたしました。印旛沼サイクリングロードは、佐倉市が名付けた別名「金メダルジョギングロード(裕子コース&尚子コース)」ではありますが、実際はサイクリングロードであるため、高速で走行するサイクリストが多いです。そこで、parkrunコースとして安全に運営するためには、毎回、コース誘導係(マーシャル)としてボランティア協力していただける方が多く必要です。ボランティアとして参加していただける方がいらっしゃれば、チラシの連絡先までお願いします。運動・健康増進に関心を持つ方の参加をお待ちしています。(チラシを添付)> (石川)

弁天宮と水天宮について

いつも「風の便り」を送ってくれる辻氏が、安政の大獄の年の日照りを救った平右衛門が創建した水天宮に詣り(八千代市)、その隣に弁天宮があることに疑問をもったというので、そのことをチャトGPTに聞いてみた。以下がその回答。(私は弁天宮と水天宮についても知らなかった)

質問1―弁天宮と水天宮について、どのようなものか教えて下さい。その2つには関係がありますか

ChatGPTの回答―弁天宮(Benten-gu)と水天宮(Suijin-gu)は、日本の神社であり、それぞれ異なる神々に捧げられています。これらの神社は、一般的に水の神を祭っており、水に関連した祈願や信仰を対象としています。関係について詳しく説明します。/弁天宮(Benten-gu):弁天宮は、日本各地に存在する神社で、主に弁財天(Benzaiten)という女神を祭っています。弁財天は、音楽、美術、知識、幸運、水神としての側面など、さまざまな属性を持つ神で、特に水に対する力強い関連性があります。彼女はしばしば琴を持つ美しい女性として描かれ、水辺や湖、川の周りで祭られることが多いです。弁天宮は、芸術家、芸能人、学生、商人、旅行者など、さまざまな人々に祈りを捧げる場所として訪れられます。/水天宮(Suijin-gu):水天宮もまた、水の神を祀る神社ですが、主に農業や漁業に関連する水神を祭っています。水天宮では、水の神である「水神」や「水の神様(Suijin-sama)」などが祀られ、水の恵みや災害からの保護を祈るために訪れられます。水天宮は、特に農業地域や漁業地域で見られ、水源や水辺に建てられることがあります。水を大切にする地域社会において、水天宮は重要な存在となっています。/関係について言えば、弁天宮と水天宮は両方とも水に関連した神社であり、一般的なテーマにおいては類似点があります。しかし、祀っている神々や信仰対象、信仰の目的は異なります。弁天宮は主に弁財天を祭り、芸術や知識に焦点を当てる一方、水天宮は主に農業や漁業に関連する水神を祀り、農業や漁業における水の恵みを求める信仰が中心です。したがって、関係があると言えるかどうかは、特定の地域や文化背景に依存することがありますが、一般的には異なる神社であり、異なる信仰対象を持っています。

質問2―平右衛門が水天宮に飾られ、その隣に弁天宮があるところがありますが(八千代市)、平右衛門と弁天宮は、何か関係がありますか?

ChatGPTの回答―平右衛門と弁天宮は、日本の神社仏閣と関連がある可能性がありますが、一般的な情報源ではその具体的な関係については詳細が提供されていないか、私の知識が及んでいないかもしれません。しかし、水天宮と弁天宮が同じ場所にあることから、ある種の関連性や歴史的背景があるかもしれません。/水天宮は一般的に、水の神や商売繁盛の神を祭る神社で、多くの地域に存在します。一方、弁天宮は、弁才天(弁財天)とも呼ばれ、学問や芸術、音楽、水の女神として崇拝されることがあります。弁天宮も日本各地に存在し、特に水に関連する神社や寺院に祀られていることがあります。/具体的な関連性や背景については、地域や神社の歴史によって異なる可能性があるため、詳細な情報を得るためには八千代市の地元の歴史や文化に関する資料や専門家の意見を調査することが役立つでしょう。また、水天宮と弁天宮の関連性について話す地元の住民や神社の関係者に質問することもできるかもしれません。

暑さの体感

クーラ―の中で生活している人にはわからないであろうが、この暑さも午前9時台と午前11時台ではかなり違う。前者は耐えられるけれど、後者は耐え難い。それはこの暑さの中テニスをやってそれを感じた。それはクレーのコートでの体験であるが、全天候のコートでは違うかもしれない。クレーコートの場合、事前に水撒きをすると少し涼しさ感じる。もちろん風があるかどうかでも少し違う。

この暑さの中、わざわざ外でテニスなどするべきではないましてや高齢者は、というのは正論である。でも猛暑の中、テニスの練習をやり終えた達成感は大きく、つい参加してしまう。休憩や水分を十分に取ってはいる。ただ、その後のことも考える必要がある。気力で暑さの中のテニスの練習を乗り切っても、その後疲れが出たり、熱中症気味になったりする。

この暑さの中、「卓球愛好会」の練習に参加することがある。卓球は体育館、つまり室内で日照りはないが、クーラーのない閉め切った室内での練習の為、汗のかき方はテニス以上である。最近はさすがに窓を開け、外の空気や風を入れて練習する場合もあるが。

家でクーラーのない部屋で過ごすのは、扇風機の風を直接当てて、32度くらいまでは耐えられるが、それ以上だと耐えがたく、涼しい部屋に退避してしまう。このような体感する暑さに個人差はあるのであろうか。私たちの世代は幼い頃、クーラーなどなく、暑い中で生活し、遊んできたので、暑さには「鈍感」なのかもしれない。

外国語を学ぶ意味

外国語を学ぶ意味に関しては、内田樹氏が最近のブログで明確に述べていて感心した。それを転記しておく。

< いまの英語教育は、外国語の学び方としては目指している方向が違うように思います。外国語を学ぶことはとても大事です。人間的成長のためには「不可欠」と言ってもよい。でも、今学校でやっている英語教育は「人間的成長」ということを目標にはしていないように思えます。/ 外国語の学習には「目標言語」と「目標文化」があります。「目標言語」が英語の場合、目標文化は「英語圏の文化」です。その言語を学ぶと、それを足場にしてその言語圏の文化の深みにアクセスできる。母語の外に出て異文化圏に入り込み、母語とは違うロジック、違う感情を追体験すること、それが外国語を学ぶことのもたらす最大の贈り物です。母語には存在しない概念に出会い、母語には存在しない時間意識や空間意識の中に入り込み、母語には存在しない音韻を母語を語っている限り決して使わない器官を用いて発音する・・・。これはどれも知性的にも感情的にもきわめて生産的な経験です。/ 自分たちとは全く違う枠組みを通じて世界を見ている人たちがいるという事実を知ることは、個人の人間的成長だけでなく、人類が共同的に生きてゆくためには必須のことです。/ 外国語学習は何よりもまずそのような人間的事業として営まれるべきだと僕は思いますが、現在行われている英語学習はコミュニケーションツールとしての英語の習得が目的化していて、もはや「目標文化」というものがありません。「目標言語」はあるが、「目標文化」はない。/ 実際に、ある時期から大学の英米文学科に進学する学生の選択理由のほとんどが「英語を習得して、英語を活かした職業に就きたい」になりました。/(それなら)英文学科に進学するよりもネイティブ・スピーカーが教える英語学校に通った方がいい。その方が学費も安いし、無駄な単位を取る必要もない。/多くの人は、「学ぶ」というのは所有する知識や情報や技術の総量を増やすことだと思っていますが、それは違います。「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。学ぶことによって語彙が変わり、感情の深みが変わり、表情も発声もふるまいもすべて変わることです。「コンテンツ(内容物)」が増加することではなく、「コンテナ(入れ物)」そのものの形状や性質が変わることです。>(内田樹の研究室「受験についてのインタビュー」2023-08-29、http://blog.tatsuru.com/

このブログの文章はインタビューの記録である。そのせいか話題がいろいろ飛んでいる。目標文化の学びだけが人を成長させるわけではない。外国の人とのコミュニケーションが異文化体験になり、自分自身の刷新(成長)になる場合もある。そこのところは聞いてみたい。

ジェンダーの短歌

ジェンダーの問題は複雑で捉え難い。先に書いた大野道夫氏が紹介・解説する歌を読んでそれを感じた。

「皆殺しの<皆>に女は含まれず生かされてまた紫陽花となる」(大島静佳、2018) 

この歌に関する大野氏の解説(注)に下記のような記述がある。

<黒澤明の映画「7人侍」(1954)では、野武士に拉致されて生かされたいる女性が、(野武士の)燃える砦から出たところで元夫と出くわしてしまい、再び火の中に戻っていく。手塚治の『火の鳥1、黎明編』(1976)』の巻末では、侵略されて男が皆殺しにされた後で、残された女が「女には武器があるわ/勝ったあなたがたの/兵隊と結婚して/子どもを生むことだわ」「生まれてきた/子は私たちの/子よ」「私たちは/その子たちを育てて/いつか あなたを/ほろぼすわよ」と言う。平家物語の最後には、生かされて出家した平清盛の娘の生涯が語られている>(大野道夫『つぶやく現代の短歌史』234ページ)

ジェンダー論やフェミニズムにおいては、強者(男性)と弱者(女性)という権力関係が自明視されているが、それが必ずしも実態に即していないこと(女性の方が強者)もある、ということであろうか。