学習指導要領の社会学

教育の世界で、学習指導要領はどのような位置にあり、どのような働きを果たしているのであろうか。
学習指導要領の解説のような文章や本はよく見かけるが、その社会的政治的背景や機能などに言及した「学習指導要領の社会学」という研究があるのであろうか。

ネットでみると、学習指導要領への辞典的な説明は下記のようになっている・。

<学校教育法施行規則に基づき,学校の教育課程の基準として定められているもの。文部科学省告示として官報によって公示される。文部科学省に設けられている教育課程審議会の答申を受けて,小学校,中学校,高等学校別に作成されている。教育課程の全般的な事項 (総則) のほか,各教科別に教科の内容と指導方法の要点を示し,また教科以外の道徳や特別活動についても定めている。小学校,中学校,高等学校の教科書は学習指導要領に準拠して編集される。第2次世界大戦後の教育改革にあたり,アメリカのコース・オブ・スタディを模範として新学制実施とともに 1947年作成されて以来,ほぼ 10年に1度の割合で見直しおよび改訂が行われている。>(https://kotobank.jp/word/学習指導要領-43639>

教育委員会や教育現場は、学習指導要領の内容が絶対的なもので、それをいかに教育実践の中に表していくのかに一番の関心があるように思う。
教育研究者の中にも、学習指導要領の正しさを疑うことなく、それの解説や実践への移行を橋渡しするのが役割と考えている人もいなわけではない。
ただ一般の教育学の研究者からすると、学習指導要領は、教育についての1つの見解に過ぎないと思っている場合が多い。大学の某同僚もその作成に関与しているらしいが、そんな時間があれば、自分の研究をすべきではないのか、政府関係の審議会の委員もそうだが、研究とは無縁のことに多くの時間を潰すのは、研究者としてどうかと思うーそう思っている研究者は多いのではないか。

それはともかく、学習指導要領は、教科書の内容を規定し、実際に教育現場に大きな影響を及ぼしているもので、それを無視せず、批判的、社会学的な考察は必要であると思う。 知りたいことを、思いつくままに列挙する。
1 毎回の学習指導要領の作成にあたり、誰が実質的な決定者なのであろうか。 またその決定の背後には文部科学省の意向や利益団体が存在するのであろうか。ただ、文部科学省の意見も一枚岩ではないであろう。
2 総論と各論の間に齟齬はないのであろうか。その時の学習指導要領の内容を支える教育の理念や目標掲げた総論と、各教科の目標や内容を掲げたものとの間には齟齬はないのであろうか。 
きっと総論を書く人と各論を書く人は別の人であろう。つまり総論とは別に、各教科の部分を別のグループ(専門家)が決定し文章を書くかということであり、教科のより事情は違うのではないか。(たとえば、英語科は独自の論理で動いており、総論に影響されないということを聞いたこともある)
 3 学習指導要領の内容が決定しても、それを下に伝える役割を果たす文部科学省の役人(局長、課長、課長補佐、係長など)や専門官(視学官、教育調査官)が、それをどのように理解し、それを下にどのように伝えるかで、かなり違ってくる。
 4 各都道府県の教育委員会、市町村の教育員会、そこの指導主事が、それをどのように理解し、校長や現場(学校)にどのように伝達、指導するかでも違ってくる。
5  さらに、教育現場では、校長、教頭、各種主任、一般教員で、その受けとめ方が違う。教育現場では、表面的には受け入れながら、実際は骨抜きにすることも多いのではないか。入試のあり方も現場の実際の授業を規定するので、その影響力も見なければならない。それは小中より高校の方が多いような気がする。高校は大学受験もあるし、高校の先生は専門への自負が強い。その実際を検証する必要がある。そこにどのような教育現場の生き残り戦略(サバイバル・ストラテジー)が働いているのであろうか。これは、教育政策の社会学という分野だと思うが、研究が待たれる。

千葉の外房のブログ 

北陸の雪で多くの車が何時間も雪の中で動けなくなっているというニュースをテレビで見ると、同じ日本でも地域によっての違いを感じる。
千葉の外房も今年は例年になく寒いようだが、それでも雪はめったに降らないし、もうそろそろ春の花の季節を迎える。
以前に書いたが、外房御宿の不動産屋ひまわりのブログには、若い人が外房のよさを、外房の景色や店や食べものや遊び(釣りやサーフィンが多い)を中心に紹介している。
若い人が、毎日の生活や仕事を楽しみながら過ごしていることが伝わって来て、読んでいて楽しい。
http://www.himawari.com/blog/blog/13
仕事は、生活の糧として苦しくても耐えなくてはいけないことが多くあるが、その中にどのくらい楽しみがあるのであろうか。仕事や職場によって違うのかと思う。楽しみの多い職や職場で働ける人は、幸運と思う。

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「名護市長選に思うこと」 (水沼文平)

仙台在住の水沼文平さんから、昨日の名護市長選に関して、メールをいただいた。了承を得て、転載させていただく(武内)。

相変わらず寒い日が続いていますが立春を過ぎると心なしか春の息吹を感じます。昨日の名護市長選は意外な結果でした。平和の砦である沖縄にもポピュリズムが浸透しつつあるのを強く感じます。
4日の深夜名護市長選の結果が判明しました。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設が大きな争点でしたが、新顔の渡具知武豊氏が現職の稲嶺進氏を破るという私にとっては予想外の結果となりました。
2016年6月、琉球大学で日本子ども社会学会があり沖縄を訪問しました。元米海兵隊員軍属による女性殺人遺棄の事件があったばかりなのに、米兵の酒酔い運転により怪我人が出る事件が起きました。また訪問中に県会議員選挙があり、翁長知事を支える県政与党が3議席増やし、県議会の過半数を維持しました。県政与党(社民・共産など)が、自民・公明などの本土とは逆さまになっていることに、沖縄県民が抱えている切実な問題、それに真剣に取り組んでいる姿を見ました。
安倍政権は今「辺野古移設が唯一の解決策」と繰り返し、移設工事を本格化させています。さらに沖縄では米軍機の事故やトラブルが相次ぎ、県民の安全が脅かされていますが、米軍機はすぐに飛行し日本政府は追認しています。
今回の選挙結果を見て、数年前に比して沖縄県民の意識に大きな変化が生じているのではないか。「無力感、あきらめ」をベースとした基地化による経済効果への期待感が高まっているのではないかと危惧されます。
安倍政権が押し進めている「集団的自衛権・憲法改正・共謀罪」など戦前回帰とも思
える政策に対応するためには、70年前に誕生した「日本国憲法」の本質と成立過程を知ること、原点に立ち返って考えることが最も重要な課題であると思います。
※私は1946年5月22日に生まれましたが「文平」という命名は新憲法の骨格をなす「文化」と「平和」に由来しています。新憲法案は、私が生まれる直前の1946年5月16日の第90回帝国議会で成立しました。
2017年4月30日に放映されたNHKスペシャル「憲法70年 平和国家はこうして生まれた」という番組があります。これは「YouTube」見ることができます。概要は下記の通りです。仙台所縁の法学者「鈴木義男」が出てきます。
日本国憲法の施行から70年。平和主義の出発点が新たな資料で明らかになった。昭和20年9月、昭和天皇は勅語で平和国家の確立を明らかにした。しかし、GHQ草案の条文には平和の文字はなかった。その後、衆議院の小委員会で鈴木義男議員の発言を機に議論があり「国際平和を誠実に希求」する条文が第九条に盛り込まれたことが明らかになった。番組では速記録をもとに小委員会をドラマで再現。“平和国家”誕生の舞台裏に迫る。(水沼文平)

カズオ・イシグロ(『わたしを離さないで』(感想 その2)

カズオ・イシグロの『わたくしを離さないで』は、後でジワーとくる作品のような気がする。いろいろなことが、断片的に思い浮かぶ。

確か手塚治虫の漫画に、クローン人間が出てきたものがあったように思う(「火の鳥」か?)。そのクローン人間が感情を持ち、恋愛感情までもってしまった時、その後どうなるのであろうか。

 酪農農家でニワトリや豚を飼い育て、それらに愛情を注いて愛おしいと感情移入してしまった時、そのニワトリや豚をと殺場に送る時は、どのような気持ちになるのであろうか。(それを思うと、動物を可愛がらない方がよい?)
(小学校のクラスで豚を飼い、それをと殺に送り出すということを子ども達にさせる実践があったが、それは残酷な実践だと思う)

 幼年期、少年期を素晴らしい理想的環境のもとで育てられた子どもが、出て行く社会では過酷な運命や環境が待ち受けているとするとき、幼年期、少年期にその過酷さを教え、体験させていくべきなのか。
(もう少し具体的には)小学校で理想的な教育を行い、その子たちのその後入学する中学高校ではその対極の管理教育が行われ、また出ていく社会も過酷な現実が待っていて、その理想的な教育を受けた子どもたちが不適応を起こし不幸になるという場合、小学校の理想的な教育はよかったのかどうか。(あるいは小学校の時だけでも、いい思いをさせた方がいいのか)

この世に生まれてきた理由ははっきりしていて、その使命を果たした時命は果てる、普通の人と同じようでいて、かなり違う。普通の職業には就けず、カップルにはなれるが、結婚はできず子どもも産めない、寿命は普通の人の3分の1程度ーこの前提は揺らがず、その前提のなかで喜怒哀楽を感じる。とても哀しい存在。(普通の人も結局同じ?)

個人は社会の存続・発展の為に存在し、社会の中でのそれぞれの人の運命や役割はあらか決まっている、その役割が終えた時点でその人の寿命が来てこの世を去る、それを知っているのは神(=社会)のみで、個人はそれと知らず、自主的主体的に生きているようでいて、実は決められた運命にしたがって生きているだけである。

何も現実を知らずに過ごした幼少年期(モラトリアム期)やその場所や出来事が、切ないほど懐かしい。

―そんなことを、『わたくしを離さないで』は思わせる。

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皆既月食に思う

5歳の子に、「月食ってどうして起こるの?」と聞かれ、その理由*を説明できない自分を恥じる。

*太陽・地球・月の順番に並んだ時に起きる。太陽光に照らされた地球の反対側の影のところを月が通過すると地球の影に月が隠される。地球からは月が欠けるように見える。

これって、いつ習ったのだろう? 常識なのか?

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