お彼岸に因んで  水沼文平

仙台ではクロッカスが咲き始め、コブシやスイセンの蕾が綻んできました。
今日3月18日は彼岸の入り、21日が中日、24日が明けとなります。昨日17日の仙台の日の出は5時46分、日の入は17時46分で、真東から太陽が昇り真西に沈みました。英語で言う‟Spring Equinox Day“です。

子どもの頃に聞いた里謡に「盆々と待っていた盆がただ三日、いらざる彼岸が七日ある」というものがありました。昔の丁稚奉公は、盆と正月しか休みがなかったので、盆と同じく先祖を祭る春・秋の彼岸が七日もあるのに休めないことが恨めしかったようです。
現在は「春分の日」「秋分の日」「元旦」が国民の休日になっていますが、「盆の中日」が休日でないのはどうしてでしょうか。
盆と彼岸の由来に関してネットにいろいろと記載されています。
共に先祖供養であることは理解していますが、むりやり我流に解釈すれば、盆の中日の8月15日は終戦記念日、戦争で亡くなって300万人の日本人がやっと平和になった日本を見るために戻ってくる日、
彼岸は太陽(現世の象徴?)が極楽浄土のある真西に沈み「あの世」を最も近くで見ることができる日なので、このまたとないチャンスに先祖と間近に会うことができる墓に出向くという解釈でどうでしょう。
仙台の春の彼岸は花屋の店頭にコシアブラの木を削って作った赤や黄の「削り花」が並びます。春の彼岸に生花がなかった北国の知恵だと思います。

彼岸に因んで“Today is very good day to die”という詩をご紹介します。これはナンシー・ウッドがタオス・プエブロの老インディアンから聞いてものを詩の形にしたものです(対訳は金関寿夫)。北アジアを起源としベーリング海峡を渡ったインディアンは顔が日本人そっくりな上、同じ蒙古斑を持ち、死生観や生き方に類似点が見れらます。

Today is a very good day to die.
Every Living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My land is peaceful around me.
My fields have been turned for the last time.
My house is filled with laughter.
My children have come home.
Yes, today is a very good day to die.

今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。.
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。

教科書研究奨励金 公募のお知らせ (転載)

公益財団法人中央教育研究所は、若手の研究者による教科書に関する研究の発展と日本教育の改善を目的として、教科書に関連する研究に奨励金を交付します。
ご応募ください。詳細は下記をご参照下さい。

http://www.chu-ken.jp/koubo.html

若手研究セミナー(転載)

日本教育社会学会では、魅力的な若手研究セミナーが開催されるようだ。私も若ければ参加したい内容だ。
http://www.gakkai.ne.jp/jses/pdf/20180119_doc1.pdf

【日本教育社会学会第6回若手研究セミナーのご案内】
●日時:3月24日(土)13時 ~ 3月25日(日)15時40分
●場所:東京大学教育学部・教育学研究科
●参加対象:大学院生または若手研究者で教育社会学に関心のある方(非学会員も可)
●定員:50名(定員になり次第、締め切り)
●プログラム:
【3月24日(土)】14:00~ 
講演 「日本(社会)という問題――バウンダリーを超えて」
  苅谷剛彦 (オックスフォード大学 教授)
15:20~ ディスカッション 司会:北村友人(東京大学准教授)
【3月25日(日)】
10:00~11:30 ワークショップー研究力の向上を目指して
1. 言説/テキストを分析するとはどういうことか
ファシリテーター :仁平典宏(東京大学准教授)
2. 「質的な調査と分析の方法に関する科目」をどう教えるか
ファシリテーター :結城恵(群馬大学 教授)
3. 海外での調査・国際共同研究
ファシリテーター 丸山英樹(上智大学 准教授)
14:30~ 全体会(報告)
■学会HP http://www.gakkai.ne.jp/jses/2018/01/19212829.php

我が子が東大に合格するということ

知り合いの人の子どもが「東大に合格した」という話しを聞いた。
自分の子どもが東大に合格するというのは親としてどのようなく気持ちなのであろうか。経験がないので実感としてわからないが、誇らしく、うれしく思うのであろうか。
東大合格者数を都道府県別をみると(2017年)、東京都がトップで916名、2位が神奈川県226名、3位が兵庫県で182名、4位が千葉県144名、5位が愛知県130名である。それに対して1ケタの県が7県(佐賀9名、秋田7、沖縄7、滋賀7、高知6、鳥取5、島根1)ある(全国学力テストの順位と対応していないのが興味深い)。
その知り合いは、この少数7県のうちの1つなので、自分の子どもが住んでいる県のトップ1ケタに入る優秀な子と、誇らしく思うのかもしれない。
ただ、最近は受験熱は醒めているし、東大より別の大学の医学部志望の子どもも多くなっているだろうから、東大合格はそんなうれしいことではないかもしれない。
それに、東大には優秀な教授陣が揃っているかもしれないが、そこでの教育が熱心に、また学生の為を思い行われているとは限らない。さらに、キャンパスライフの充実度や楽しさは東大は、平均あるいは平均以下であろう。
かえって、性格の偏ったものや個性が強く、競争心の旺盛なもの同士の集まりで、大学の友人関係がかなり難しいということもあるだろう。
確かに東大卒の就職はいいかもしれないが、東大卒の少ない職場に入り、能力以上の期待が大きかったり、東大卒なのにこんなこともできないのかと周囲から非難され苦労した例を聞いたことがある。

「東大生は頭がいいわけではなく、本人がそう思っているだけの凡庸な学生の集まり」というような趣旨のことを上野千鶴子(元東大教授)が言っていた。
 
 大分前になるが、非常勤で教えた東大での授業の受講生の中に、「大学を卒業したら専業主婦になる「」と言っている女子学生がいたが、今はその時以上に、東大生も普通の大学生と同じ意識をもっているのかもしれない。 それならば、何も心配することもなく、親も「子どもが人並みに大学に入れてよかった」と、過大な期待を抱くこともなく、子どもの成長を見守ることができるであろう。

追記 (これは、少し違った観点からの東大論)
 今は親の階層(階級)が子に影響する格差社会と言われるが、同じ東大卒のエリート官僚でも、親の階層によって考え方や行動が違ってくるのかもしれない。
 前川元文部次官は親の階層が高く(高校は麻布高校)、政治家に対しても忖度することなく事実を開示した。佐川元理財局長は福島出身で父を亡くした家庭で苦労して東大経済学部に入り(高校は都立九段高校)、成績優秀で財務省に入り出世しても、上の政治家の意向には逆らえない。
(上記は私の独断だが、一般にはこれは親の階層差ではなく、時代の流れだという見方の方が優勢であろう-下記の朝日新聞記事*参照)

*<官僚がもっとストレートに発言していた時もある。 前の文部科学事務次官で、加計学園の問題で「行政がゆがめられた」と発言した前川喜平氏は文科省の課長だった05年、当時の小泉内閣で進んでいた義務教育費国庫負担金の廃止に公然と反対した。世間の理解を得ようと実名を出してブログを立ち上げ、「クビと引き換えに義務教育が守れるなら本望」と書き込んで話題になった。 官僚に対する「政治の支配」を強めたのは、安倍内閣だけではない。小泉氏以降の歴代首相は政治家や官邸の力を強める改革を続けた。09年の衆院選で民主党が「政治主導」を掲げて政権交代を果たすと一層、顕著になった。中野雅至・神戸学院大教授(行政学)は、官僚批判が強まったあまり、今度は政治が力を得すぎたとみる。「内閣人事局に強大な力を与えてしまい、官僚が主張すべきことや異見を言えなくなっている」と話す。(朝日新聞、3月16日朝刊) *

東日本大震災から7年

東日本大震災から7年が経過した。
7年と聞いて、まだ7年か経っていないのか、もっと昔のことのような気がした。 
今日(33月11日)の新聞やテレビ番組をみても、東日本大震災関係の記事や番組は少ない。

NHKスペシャル「めざした復興は」は、大越キャスターのレポートで今の東北の復興の現状を報告していた。
それをみて、災害支援のハードとソフトが噛み合っていないことを感じた。
災害公営住宅という都会のマンションのような立派な建物を作りそこに仮設住宅で暮らしていた人を移しているが、そこでは家賃や公益費を支払わねばならず、住民の交流する場も支援もなく、多くの高齢者がその金銭的負担に困り、お互いの交流もなく孤立している。
 津波が来ても大丈夫のように盛り土をして造成した土地に住民が戻ってこなくて、過疎化と人口減少で、ソフト面の復興の見込みが立たない。
 福島では国の補助金で立派な学校を再建しても、放射能の被害を恐れて子どもたちは戻ってこない。入学する子どもがいてもそれは避難先からで、バス代が膨大にかかり、町村の負担がかさむ。

 朝日新聞(3月11日朝刊)も、次のように、同じこと指摘している。
「新年度には災害公営住宅や高台移転の宅地の整備がほぼ完了する。被災者からみれば、そこは新たなスタート地点にすぎない。新居に移れば、家賃やローンの支払いが始まる。新しい土地で人と人とのつながりをつくり上げていくのも容易ではない。支援を必要としている人はまだたくさんいる。」
「県や市町村の負担が生じない形で、防潮堤や道路などの整備は進んだ。1区画数千万円を投じて造成したのに、入居希望者が減って多くの空きが出た宅地のように、見込みが外れた事業が散見されるのも事実だ。」

人々の忘却の早さ、震災の復興の遠いことと、支援のハードとソフトの連携の必要なことなどを感じた。

復興支援の歌、再掲