授業の記録(6月15日、22日)

ここ2回の授業(敬愛大学「教育原論」 6月15日、22日)の記録を簡単に残しておきたい。

6月15日 科学の方法、教育の官僚制と教職の専門職性
   
リアクション
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 因果法則を充たすための3原則とは何か。
3 組織の官僚制の特質をあげなさい。(プリント 「組織としての学校」、テキスト95-96頁参照)
4 学校が、官僚的特質を備えていない点をあげなさい。 その点をどう評価しますか(もっと官僚制化すべき、緩やかにすべき)
5 チームとしての学校の特質について説明しなさい。これからの学校が『チームとしての学校』となると教師の仕事はどのようになりますか。それについてどう思いますか。
5 他の人にリアクションを読んでもらいコメントをもらう。
(         さん)→
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講義メモ
先週の科学の方法(仮説の検証、理論)の話を補足したのは今日お配りした高根正昭『創造の方法学』の中に書かれている、「因果法則を充たすための3つの条件」です。これは先週の私の話のエッセンスですのでプリントを読んで理解を深めてください。
次に、学校について、官僚制ということを理解してほしいと思います。教育の規模が大きくなると、どこも同じようにすること=組織化、制度化が必要で、それが官僚制というものです。その特徴が、配布プリントの真ん中に書かれています。画一化、標準化、特化(専門分化)です。 企業や官庁がこの官僚制化ということがすすんでいますが、教育の世界学校という世界でも同じように進んでいます。ただ、教育の論理というのは、この官僚制に馴染まない部分があります。それがその後にあります。教職の専門職性というものも官僚制と違う論理です。皆さんが、教職の専門科目を学ぶのもこの専門職性の為、官僚制に流されない為です。
今、文部科学省が考えている「チームとしての学校」が、という考え方を説明します。これは、多忙な教師の仕事を軽減しようという趣旨と説明されていますが、教育の官僚制を進める方法でもあります。その内容を理解し、それに対してどう思うか、話し合っていただきたいと思います。

6月22日 教育に関する法制度と教育行政

リアクション
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 日本の小学校数は  校、児童数は  名  教員数は  名
3 巨大な教育システムを運営するために、何は必要か。
4 教育の法律主義とは何か。
5 日本国憲法26条を記載しなさい。
6 2,006年に改正された教育基本法の特質(大きな変更点)は、何か。
7 日本の「6・3・3・4」制の学校制度をどう思うか。その理由
   1 このままでよい  2 わからない  3 変えた方がよい
8 「いじめ防止対策推進法」(2013年)について、どう思うか。
9 他の人からコメントもらう

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夏の研究会、公開シンポジウム

もうすぐ夏休み。夏には、さまざまな公開の研究会やシンポジウムが開催される。いくつか、記載しておこう。

〇 敬愛大学生涯学習シンポジウムー21世紀の生涯学習~「人生100年時代」の新たな学びのかたちー
日時 7月16日(月・祝)14時~16時 会場 敬愛大学3号館 3301
登壇者 熊谷俊人、牧野篤、岩永雅也、佐々木偉彰、明石要一
www.u-keiai.ac.jp/

〇第2回英語教師授業力 ブラッシュアップセミナーー小・中・高の英語教育改革に向けて今からできること - 学習指導要領の改訂を踏まえて」
日時 平成30年8月20日(月)・22日(水) 10:30~16:15
場所 敬愛大学 稲毛キャンパス3号館 
講師 向後秀明他
www.u-keiai.ac.jp/events/brushup2018/index.html

〇 SEガーデン夏合宿
   日時 8月21日(火)〜22日(水)
   場所  放送大学千葉学習センター セミナー室

〇 第36回 学校社会学研究会  
    日時 8月24日(金)〜25日(土)、場所 学習院大学
   (後日、プログラムは、ここにも記載予定)

ワールドカップの(テレビ)観戦について

日頃サッカーに興味がないものも、4年に1度のワールドカップの時は、マスコミに煽られ(?)、サッカーの試合をテレビで観戦する人が多いことであろう。私もその一人である。
当然日本のチームの勝敗が気になり、日本を応援してサッカーの試合を見るわけであるが、ほとんどの日本の試合は敗けて後味のよくない気持ちで観戦を終わることが多い。わざわざ2時間近くの時間テレビを観て、後味が悪くなるなんて割が合わないと思う。

よく考えてみると、別に私は愛国の気持ちが強いわけではないし、日本を応援する義理があるわけではない。ワールドカップはゲームなんだし、どこか応援する国を決めて(できれば強い国がいい)、その国を応援した方が、気分的にすっきりするかもしれない。最近は、日本以外の国のチームの試合をほとんどテレビで放送している。
といっても、どこの国のチーを応援すればいいのかかさっぱりわからない。誰かにお薦めの国を聞いてみよう(今日は、日本の試合を見ることにして)

<追記>と書きながらも、今日は日本とコロンビアの試合を、2時間ほどテレビにくぎ付けになり観て、日本のチームワークのよさに感心し、日本の2対1の勝利に喜び、気持ちよく眠りにつけそうと感じている(要するに自分勝手にサッカーの試合を観ているということである)。 <追記2>
藤原新也は<昨今日本においてはとくに若者を中心に「気持ちよくなりたい症候群」が蔓延しており,(コロンビアに勝ってしまい)若者の政治離れに拍車がかかるだろう>と、日本人の最近の心情を批判している。私のような年寄りもそうだとすると危ない。気をつけたい。
<追記3>
授業で「教育基本法」の改正(改悪?)の話をして、「伝統と文化を尊重し、我が国と郷里を愛する」といういわゆる「愛国心」に関する内容が、新しい「教育基本法」には付け加わったことを説明した。
そこで学生に、「サッカーで日本を応援するのは愛国心からでしょ?」と聞いたところ、学生はほとんど怪訝な顔をし、サッカーの応援と愛国心とは関係がないとの答えであった。この2つを結びつけて考えるのは、サッカーを知らない者のたわごとなのかとも思った。さらに学生に詳しく聞いてみたい。

「話は聞いてみるもの」  水沼 文平

《その1》

5月上旬自転車で郊外の田んぼ道を走った。泉ヶ岳と北泉ヶ岳、遠くに青い船形連峰が見え、さわやかな風に吹かれ気分は最高であった。田植えが終わり20センチ位の苗がきれいに並んでいる。その中で所々に10本位まとめたものが植えてあった。これはコンピュータ制御の「田植え機」のミスだとひとり納得してほくそ笑んだ。

後日、農家出身の知人に聞いたら、それは田植えの後に人の手で植えられてもの、苗にも発育不良のものがあり、それらのピンチヒッターとなるものだという。

子どもの頃、庭の隅に野菜畑があった。母が春に大根の種をまき、芽が出ると間引きしていた。子ども心に疑問に思い母(小学校の先生)に聞いてみたら「全部残したら土の栄養を食い荒らして共倒れになる」と言っていた。東北での冷害時の「間引き」も念頭に入れた回答だったのかも知れません。

黙っていても食が口に入る時代、口に入れる前に、植え替えたり、間引きをしたり、
追肥をしたり、支柱をたてたり、手間暇をかけて育てる農産物にもっと関心を持つべ
きだと思った。

《その2》

5月下旬、東京から来た友人を山形県河北町の「紅花資料館」に案内した。途中県境の「関山峠」を越えた所に大きな滝がある。隣接する茶屋は「玉こんにゃく」と「ずんだ団子」が有名である。行きは「玉こん」、帰りは「ずんだ」と決めていて、「ずんだ」の売れ切れを懸念してキープしておくことにしている。さて、芭蕉の俳句で有名な山寺も訪ねた後帰路につき「ずんだ」を楽しみに茶屋に寄った。串を手に取っていざ口に入れようとして気がついた。昨年の秋は両面にずんだが分厚く塗り込めらえていたのに片面しかなかった。しかも値段は同じ100円である。これはずんだの量を減らして儲けようとしているなと確信した。

後日、農業に詳しい同級生にその話をしたら、ずんだの原料となる大豆がいつ獲れるのかも知らないのかと叱られた。大豆は秋に収穫されるので茶屋では両面に分厚く塗り、春は大豆の保存量が少ないので片面になるということであった。
百姓の孫である私がこんなことも知らず恥じ入った次第である。

《その3》

6月中旬、知人の見舞いに病院に行った。自販機がたくさん並んでいるコーナーで車椅子の知人と話をしていた。そこに自販機の会社の人が来たので前々から疑問に思っていたことを聞いてみた。それは自販機に付随した「空缶入」のことである。店によっては置いていないところもあり、自販機の後ろに隠しているところもある。「空
缶入の設置義務」について質問をした。答えは「空缶入」の始末は自販機会社の仕事で、設置如何は大家さん(店主)の任意だという。空缶入にコンビニ弁当の容器が
入っていたり、空缶入に家庭ゴミが置いてあったりして、多くの大家さんが空缶入の
設置を嫌う傾向にあるとのことであった。十年ほど前、鎌倉のある有名なお寺の門前の商店に「空缶入」がないと言ってカンカンになって怒っている爺さんがいたが、店
の人は平然としていた。私は爺さんに理ありと思っていたが、店の人にもそれなりの
理由があったのだ。昭和33年に始まった道徳教育(私も受けた)が何であったのか、
現在、バスの優先席のスマホ女子高生を見るにつけ、道徳教育の抜本的な見直しが必要ではないかと思う。それよりも我が子に対する家庭教育に問題があったのではないかと、あれこれ自省を込めて考えている。

以上、自分が正しいと思っていたことが誤った「思い込み」であったケースを例示し
たが、私の場合こうしたことが他にもたくさんあるように思われる。問題だと思った
ことを他者に話をする(というより吹聴する)ことによって自分の馬鹿さ加減が分か
り、真実を知ることはすばらしいことである。「話はしてみるもの、聞いてみるもの」である。

クワガタの脱走

隣のうちから、オオクワガタと飼育セットをもらったのが昨年の9月(ブログ2017年9月9日に掲載)。それから9カ月経過したが、冬を越し(冬の間はかごの土の中で冬眠)まだ生きている。
ただ、これまでに飼育かごから脱走を3回企て、3回目の今回は3週間近く行方不明で、もう見つからないと諦めていたが、昨日玄関の私の靴の中で潜りこんで生きているのを発見した。
飼育かごは蓋を閉めているのだが、その閉め方がきちんとしていないと、かなり重い蓋を持ち上げ外に脱走する。
大体夜中に脱走しどこか暗い狭いところに隠れてしまうので、見つけることが難しい。餌がなく餓死してしまうのが一番かわいそうで、脱走したクワガタをいつも必死に探す。1回目、2回目は脱走から1〜2日で見つけることができたが(1回目はレコードの中、2回目は玄関の靴の中)、3回目の今回は家中探しても3週間近く見つからず、ほぼ生存を諦めていたが、元気なクワガタが見つかりほっとした。
どこか森に放せばいいと家人はいうが、果たして外(森)は餌があるのか、外敵にやられないか、冬を越せるのかなど心配が多い。生きものを飼うのは何でも本当に大変である。
子ども(孫)は、「これは本物のクワガタなの、格好いい」(この頃、精巧な昆虫のおもちゃも多い)と喜んでいる。

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