道徳教育について

道徳教育に関する授業を担当したことはないので、あまり道徳教育に関して深く考えたことはない。
ただ、かなり昔になるが、文部省の道徳教育担当の課の仕事を手伝ったことがある。それは、文部省がその時の子どもがリンゴの皮むきやナイフで鉛筆削りができないということから、子どもの生活技術に危機感を持ち、子どもの生活技術や生活習慣に関する教育的冊子を作るプロジェクトが立ち上げた時である。、それに参加した。
それが縁で、某教科書会社の道徳教育の副読本を作るプロジェクトにも参加した。そこで道徳教育を専門とする人たち(教科調査官、大学教員、現場教員、道徳教育担当の教科書会社社員)と接する機会があった。皆人のいい、道徳を心から愛する人たちで、教育社会学の研究者のように少し斜に構えて世の中や教育のことを考える「人の悪い」(?)人とは違うなと思った。
道徳教育の副読本を作る作業は、皆で教材になる物語や生活文をたくさん持ち寄り、その中から適切なものを選定するというもので、私も面白く、多少道徳的と思うものを10以上提出したが、採用されたのは1つだけだったように記憶する(確かオー・ヘンリー『二十年後』(After Twenty Years)で、中学校の道徳の副読本で読んだ人がいたら、それは私が提案したものです。)村上春樹の短編も1つ(確か、料理人に関するもの)提案したが、道徳的ではなかったようで採用されなかった。
「道徳教育が専門の大学研究者は少ないので、道徳教育の専門家になればすぐ有名になれますよ」というようなことを打ち上げの席で言われたことがあり、びっくりしたことがある(そのような発想で研究者が研究テーマを選ぶということがあり得るのはどうかはわからない)。

道徳的なことは私も嫌いではないが、既存の道徳や規範とは違うことを、子ども達に教えることはできるのであろうか。
今日の朝日新聞にハックルベリーフィンのことが載っていたが、ハックのような生き方は、道徳教育の教科書に載ることがあるのであろうか。
いずれにしろ、道徳教育を研究したり教えたりすることは難しいと思う。

新聞より一部転載(全文は、下記添付参照)

<ハックの特性は、世間の決まりごとも、法律も、偉い人の命令も、あんまり信じないところだ。じゃ、なにをもとに行動してるのか? それは“本能”と、善人として生まれたせいで潜在的に持っている“良心”なのだ。  危険を冒して逃亡奴隷ジムを助けたのも、思想的な行動ではない。そうするべきだと直感したから。それと、友達だからだ。“既存の権威を否定して、自分なりの道徳を発明し、仲間を命がけで守る”のが彼の生き方だ。> IMG_20180714_0004

授業のリアクション(コメント)、教育原論 7月13日

教育原論 リアクション(7月13日)  課外授業

1 前回のリアクションを読んでの感想
2 何か、自分の好きなもの、あるいは嫌いなもの写真を撮ったとして、それを絵にして、書いてもください。それに説明も加えてください。
3  藤原新也「課外授業」をみての感想
4 他の人にリアクションを読んでもらいコメントをもらう。

以前にも行った描画法(写真投影法)の授業。
学生の描く絵はなかなか上手だが、その絵に付ける文章はなかなか難しい(深く考え、センスのある文章を書くには時間が必要のようだ)

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日本子ども社会学会の第25回大会・発表要旨集録

日本子ども社会学会の第25回大会が、西日本豪雨の為、中止になったが、その時に使われる予定の発表要旨集録が、WEBで公開になっている(下記)///

http://www.js-cs.jp/wp-content/uploads/2018/07/jscs2018resume.pdf

大会が開かれず、発表を聞いたり、直接の質疑などができないのが残念だが、WEB上で、発表をしたり質疑ができればいいのにと思う。何か、出来ないものであろうか。

地方で<生きる>若者たち

『教育社会学研究第102集』(2018年5月)の特集は「地方で<生きる>若者たち」で、いろいろなことを考えさせられた。/ 印象に残ったフレーズを転記しておきたい。///////////////// 2000年を越えたあたりから、地方の若者の不安定就労が指摘されるようになり(5頁)/ 地方の「ノンエリート」の若者たちが、資源の限られた「ローカルな社会的状況を「地元」のネットワークに/つながりを駆使しながら(17頁)///// 青森県では、学力および経済的に有利な立場にいる若者には大都市へと移動する誘因が存在するのに対して、相対的に不利な立場にいる若者にはそうした誘因は少なく、むしろ豊かでサポーティブな社会関係が出身地に留まる誘因になっている。(これは)大都市に移動する利益の小さい、資源の乏しい若者を地域に包摂し、移行における不確実性のリスクから保護する機能を果たしている。(33頁)。/ (青森の)若者たちは、「それなりに満足している」と考えるべきなのか、「絶望」していると考えるべきなのか。(48頁)///// 「地方の若者はいかなるリアリティを生きているのか」という観点から言えば、従来の分析は、若者自身が地域の構造的諸特性を解釈し、自分たちの職業生活や社会生活を意味づける側面を見逃している。(59頁) これらは、彼らが地域の社会構造との交渉を通じて自身の経験を意味づけるコンテキストを生産し、自らをローカルな主体に位置づける営みだった。(57頁)/ 世帯主である自身の賃金上昇ではなく世帯収入を自明視する語りは、現代的な生活戦略というより、この場所での生活展望の感覚を示している。(70頁)/// 村の有力者には逆らえない前近代的な権力構造、土地や資産の所有者と非所有者、古くから住みついている者と新しく来た者、年配者と年少者、男性と女性などの差異を序列化する伝統的な村社会。こうした地域社会では、近代の新参者である学校は、地域の承認と後ろ盾なしに無力である。*(109頁) (*児童74名、教師10名の命が奪われた大川小学校では、責任者の教頭が地区長に「山に上がらせてくれ」と魂願して、拒絶され、この悲劇を招いたというParryの解釈を載せている)/////////////////////////////////////////  私が学部生、院生の頃は、青年論の主流は農村青年や勤労青少年(学歴は中卒)であり、私たちの3年次の教育調査演習では、古河市の勤労青少年に面接調査をした。その後、高校進学率、大学進学率が上がり、青年論の中心は、高校生や大学生に移って行った。それで青年論の学校外の社会との関連といえばメディアが中心となって行って、地域社会との関係が薄れて行ったが、ある時期(2000年?)から、青年(若者)の就労に関心が向き、若者も地元に帰ったり、地元に留まったりして、地方に生きる若者に注目されるようになったのであろう。/ これには現代の少子化・人口減で、地方の人口が減り、何とか若者を地元に留めたいという行政の思惑も働いていることであろう。/  地方では共働きが当たり前ということや、地域の有力者の意見が学校に及んでいるという知見も興味深いと思った。都市部とはかなり違う。 敬愛大学のこども教育学学科の学生のほとんどが千葉県出身で千葉県の教員になりたいと大部分が考えていることも、この特集を読んで少しわかった感じがした。

学生の選んだ「ふるさと4番」

敬愛の学生に自分たちの作ったふるさとの4番を提示し、一番心に残ったものを1つ選んでもらった。その順位(票数)は以下。

1位(4票)
広き青き あの海 いつになっても 戻りたい 帰ると待っている 温かい人 心休まる あの場所
あの頃の景色は いつの間にか 消え去り 時代の波にのまれて 心の中 ふるさと

3位(2票)
いつになっても 忘れぬ いつでも帰れる ふるさと 心いやす あの思い出 いつまでも変わらぬ
増えています じじばば とても目立つ少子化 近所の活気は減っていくばかり 元気になれふるさと
いつも一緒にいた仲間 たくさん遊んで笑ったね 夢をみながら 頑張ったね 忘れがたき 思い出

6位(1票)
八日市場よいとこ ほどよい風が 気持ちいい カブトもクワガタもたくさんいる八日市場においでよ
成田空港で 出発 成田山で 観光 ただひたすら 楽しんで 今を忘れぬ ふるさと
私の市 市原 みなに聞かれる 市川? 千葉市民に見下され 残ったのは 田んぼだけ
満員電車 通学 駅から遠い 学校 長い坂道 帰りたい ふるさと
ひとり暮らし スマイル 鎖取れて 解放 自由に生きる私は 忘れない 田舎を
山も海もふるさと 手と手とつないで 口ずさむ 星が照らす ふるさと ここが私のふるさと
人や街並みは変わりゆく 色を添える花たち 涙もさけびも 聞き入る
この地のよさ気付かず 憧れ求めて都会へ ふとした時 思うは 郷の安らぎ 恋しき場は、ふるさと
スマホ使い 連絡 みな集まり 下向き 画面を見て 楽しいか? スマホ依存 ふるさと
ネット社会 拡散、個人情報 ばらまく 誰かに見つかり 騙される 怖い世界 ふるさと