昔懐かしい場所ー野尻湖

過去に長年過ごした場所や思い出のある場所を訪れると、懐かしく、いささか心を動かされる。
特に通った学校(小中高)や大学、長年働いた職場などは、近くに行っただけで、当時のいろいろな思い出が蘇り、懐かしくなる。心休まる場合もあるが、逆に心穏やかでない場合もある。
私の場合、自分の通った大学、そして最初の職場はあまりいい思い出はなく、駒場も本郷もあまり近づきたくない場所である。

ただ学部生・大学院生、助手の時、夏のよく行った大学の寮(野尻湖寮)は、楽しく懐かしい思い出がたくさんある。
大学のクラブの夏合宿(男だけ50名近くの荒ぽい合宿だった。合宿の最終日には後輩が先輩を服を着たまま湖に投げ込む恒例の儀式もあった)、学部3年次の教育調査の調査票作りの為の夏合宿はいつも野尻寮で行われ、(私は助手時代、松原治郎先生の助手として毎年ご一緒した)、当時学部生で今は学会で活躍している後輩との思い出も多い(例えば小林、近藤、渡部⁂、耳塚、苅谷らの各氏)。友人や家族とも過ごした。

野尻寮は木造2階建てで、素朴な野尻湖の湖畔にあり、桟橋の間で泳げて、ボートや卓球台があり、妙高高原の山々が見えて、いろいろな人と過ごした楽しい思い出だけが残っている。
そこを半世紀ぶりくらいに訪れる機会があり、昔を懐かしんだ。大学の寮の建物はもう取り壊されてなくなっていたが、桟橋は残っていて、場所の雰囲気は昔のままであった。

⁂*集団生活嫌いの渡部真さんが、学部3年生の時、勇気を出して合宿に参加し、1泊だけだったが、皆と一緒に過ごせたのは画期的なことだったのであろう。その渡部真さんは今年亡くなり、もう会えないと思うと寂しい。湖畔で冥福をお祈りした。横浜国大と上智の学生との合同合宿も懐かしく思い出す(こちらは山中湖や軽井沢で行った)

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猛暑に思う

例年にない暑さが続き、うちでも例年はほとんどクーラーなしで夏を過ごすのだが、今年は1箇所だけクーラーが付けぱなしになっている。それだけ今年は暑いのであろう。

でも、これまでも夏はこのくらい暑かったのではないかという気もする。
昔8月上旬の一番暑い時に信州で3〜4日過ごし、涼しくて快適で、一番暑い時の避暑はこんなに体にいいものかと思ったことがある。

自分が小学生の頃(1950年代)、夏休みといえば、午前中の涼しい時に少しだけ夏休みの宿題をして、その後は親戚の子や友だちとセミやトンボやチョウチョウを採りに行ったり、草野球をして、暑い夏を過ごした記憶がある。その頃は家にクーラーや(電気)冷蔵庫もなく、夏が暑いのは当たり前で、その暑さを楽しんだ記憶がある。

その頃(1956年)の7月の東京の平均気温を調べると25.9度、最高気温28.1度とある。今年の7月の東京の平均気温28.7度、最高気温33.1度である。今年は60年前と平均気温で3度ほど高く、最高気温で5度ほど高い。確かに、地球の温暖化が進んでいるのかもしれない。今年は特に猛暑である。
(ちなみに東京オリンピックのあった1960年の最高気温は、7月29.8度、8月30.4度である。)
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=44&block_no=47662&year=&month=&day=&view=a2

ただ、7月と8月では年により気温の高い月が違っているので、今年は8月になり気温が下がることを願う。

追記1ー7月26日(木)は30度を超えているが、前日より2〜3度下がったのであろう。涼しく感じる。暑さ―寒さの感じは、相対的なところもある。
追記2-「日本の夏の高温化の主な原因は、取り沙汰されることが多い地球温暖化ではなく、ヒートアイランド現象にある。」という説もある。」
webronza.asahi.com/science/articles/2018071900009.html?iref=pc_ss_date

他者からの呼びかけ

運動能力のない私は、長年やっているテニスも卓球もなかなか腕は上達しないが、最近少し運動(特に球技)のコツのようなものが1つわかってきたような気がする。
それは、相手の打った球の勢いやリズムをいち早く感じそれと一体化し、それに呼応するように自分の体を反応させ、ラケットを差し出したり振ったりすればいいということである。
まず、自分を無にして相手のリズムに乗るというのが、大切のような気がする。そのリズムを感じさえすれば、その後の自分の動作は自然に出てくる。

有名な内田樹氏のブログを読んで、氏が武道に関して書いていることが、これと似ているなと思った。(内田樹研究室 blog.tatsuru.com)

<武道の要諦もまた他人の内部で起きていることに感覚の触手を伸ばすことにある。武道の場合は、自他の心身の間の対立を取り去り、自他の境界線を消し、「眼前に敵はいるが、心中に敵はいない」という「活殺自在」の境地に至ることをめざすわけであるが、その能力はまた他者との共生のためには必須のものだ。>
<武道が目指すのは「いるべきところに、いるべき時にいて、なすべきことをなす」ことです。いるべきところ、いるべき時、なすべきことを決めるのは、私の自由意志ではありません。そうではなくて、私たちに対する他者からの「呼びかけ」です。「呼びかけ」、英語で言えば、vocationとか callingということになるでしょう。これらは「呼びかけ」とともに「天職」「召命」を含意する語です。他者からの呼びかけに応えて、私たちは自分がいつどこでなにを果たすべきかを知る。「呼びかけ」のうち、もっとも受信しやすいのは、「救い」を求める声です。飢餓、寒さ、痛みなどは、どれもそれを放置すると命にかかわる身体感覚ですが、それはいずれも他者の緊急な介入を求めています。
人倫の基本は「惻隠の情」ですが、言い方に言い換えると「緊急な介入を求める他者からの救援信号を感知すること」ということになろうかと思います。>

さらに、内田氏は、家事や教育一般や家庭科教育に関して、下記のように書き、このように相手の思いに気が付くこと、それに答えることの大切さを説いている。

<家事というのは、本質的に他人の身体を配慮する技術なのだと思う。清潔な部屋の、乾いた布団に寝かせ、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる。どれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求する。家事においては、具体的な技術以上に、その想像力がたいせつなのだと思う。>
<学校教育とは、子どもたちが「他者と共生できる能力」を身につけることができるように支援することだ、というのが私の個人的な定義です。
この場合の「他者と共生できる能力」の中には、言語によるコミュニケーション能力や、合意形成能力や、「公共意識」など、さまざまなものが含まれますが、どれほど高度な社会的能力にせよ、その基本には、「惻隠の情」すなわち「他者からの緊急な介入を求める呼びかけを聴き取る力」、そのさらに基本には「他者の身体経験、生理過程に想像的に同期できる能力」がなくては済まされません。
家庭科教育はまさにそのような能力の開発にフォーカスした教科であろうと私は考えています。生活をともにする人たちの身体の内側で起きていることに想像的に触手を伸ばすこと。そのような能力がどれほどたいせつなものであるか、それについての社会的な合意はまだまだ不足しているように私には思われます。>

内田樹氏の本は、これまで何冊か読んで、大学教員にしていろいろ評論を書き、高橋源一郎と同じような進歩的文化人という印象をもっていたが、その経歴を見て、自分も少しだけ重なるところがあり、もう少し読んでみようかという気になった。
経歴―1950年大田区下丸子に生まれる。1966年都立日比谷高等学校に入学、後に退学、1970年東京大学教養学部文科III類に入学。1975年同大学文学部仏文科を卒業。以下略

熱中症に気をつけて

この猛暑で、豪雨の被災地の方々は大変なことだと思う。何とか乗り切っていただきたい。
熱中症にも気をつけていただきたい。
<熱中症の代表的な初期症状として、めまい(目眩、眩暈)や立ちくらみ、一時的な失神があります。熱失神とも呼ばれ、炎天下や暑い室内での長時間労働やスポーツなどにより体内に熱がこもり、脳への血流が減ることと、脳そのものの温度が上昇することで引き起こされます>
<熱中症の初期症状であるめまいや立ちくらみ、一時的な失神などの熱失神を生じたときには、クーラーの効いた屋内や涼しい日陰で休ませ、衣服を緩めて風通しをよくし、体を冷やして、適切に水分を補給すれば、多くの場合は改善します。しばらく様子を見て、症状が改善しないような場合には、医療機関を受診するのがよいでしょう。
夏場の屋外や熱のこもる室内での活動の際には、こまめに休息と水分補給を行って、熱失神をはじめとする熱中症の予防をこころがけましょう。>
とある。
https://www.netsuzero.jp/learning/le01/case01-01

夏場の屋外や、熱のこもる室内したでの活動は、かなり危険で、こまめな休息と水分補給が必要とのこと。ボランティアの方も、熱中症には気をつけていただきたい。
下記のような事故も起きている。学校の指導も気をつけたい。
<愛知県豊田市で小学1年の男子児童(6)が熱中症で亡くなった。熱中症への注意を呼び掛ける高温注意情報が発表されていたさなか、太陽が照りつける屋外で校外学習を実施した学校の判断は適切だったのか。>
(朝日新聞、7月18日朝刊)

私は、この土日には卓球、今日(17日)は外の全天候のコートでテニスを2時間ほどした。休息を頻繁に取り、かなりの水分補給をしての運動であったが、この暑さと歳を考えるとそんな安全なことをしているわけではないかもしれない。
運動の後のビールがいかに美味しいからといって、無謀なことはしないようにしたい。

WISCONSINマディソンでの生活について

その土地の風土(雰囲気や人間関係)は、時が経っても消えないものなのかもしれない。

知り合いのKさんが、白井青子『ウィスコンシン渾身日記』 という本を教えてくれた。
それは、アメリカWISCONSIN州の州都マディソンでの最近2年間の生活を、日本人女性が綴ったものである。Kさんの紹介文では、下記のように書かれている(一部抜粋)。

<内田樹さんのゼミ生だった筆者がご主人の赴任で2年間ウィスコンシンに滞在された記録。同じ海外滞在でも場所によってこれほど違うのかとびっくりしました。また筆者は大変な勉強家で語学学校に通い、カレッジでも講義を受講しています。気持ちの良い紀行文です。>

私も22年前に家族と1年間、WISCONSINマディソン(U.W.)で暮らした。
本の内容は、私の体験と重なるものがあるかもしれないと感じ、本を購入して読もうとしたが、ブログにその主要部分が載っていて、そちらを読んだ。かなり評判のブログであることを知った。

nagaya.tatsuru.com/seiko

マディソンという都市に関して、書かれていることは、私の印象とほぼ同じである。

<6月27日。マディソンは、夕闇に無数の蛍が飛び交う美しい季節である。この時期、マディソンに点在しているいくつかの美しい湖はその水面に白と青の空の色を映し込み沢山のカヤックやモーターボートを浮かべて、まるでモネかルノワールの絵のような美しい姿を見せる。この頃、夜の九時頃まで日は落ちないので、遠くで野外ライブの演奏がいつまでも楽しげに聞こえてくる夜もある。そうしてその音が消えたかと思うと、今度は薄暗がりの中、どこからともなく蛍の光がほうぼうで舞い上がり、そこら中で彼らのひと夏の求愛が始まるのである。穏やかでこの上なく美しくとても豊かな季節である。>

マディソンに住む人々の印象は、下記のように書かれていて、私の22年前の印象と一致する。それだけ、土地の風土が変わっていない。

<穏やかで平和で安全でクリーンでインターナショナルな学園都市であるマディソンには、あらゆる国の人々が住み、それぞれがそれぞれの文化や歴史に敬意を払いながら、思い合い、助け合って生きていた。夕暮れに行きかう人々は、知り合いではなくてもにこやかに挨拶を交わし、時に冗談を言って笑い合って去りゆく時もある。寛容で、いい意味でルーズでカジュアル。マディソンの良さは、人々の人間性も含め、優しくて素朴という点でもある。この豊かなマディソンの土地に染みわたる国際色豊かな養分を十二分に吸い込み、学び、笑い、人生で最も楽しかったと言っても過言ではない二年間を過ごすことが出来たのである。>

私や私の家族も、マディソンで毎日日本ではありえないほどの幅広い豊かな交友関係あったが、その相手はこの筆者と少し違っていた(白井さんの交友は主に語学学校の生徒で、極めて国際的)。
私たちが多く接したのは、娘の通った現地校の知り合い(校長、教師、同級生)、地域やYWCAや教会関係の人、UWの教授たち(4人の教授宅に家族ぐるみで招待された。これは上智の同僚の加藤幸次教授のお蔭が多い)である。レストランで会食するというより家に呼ばれたり、うちに来てもらったりした。日本人(大学院生、学部生、在学研究員)とも、日本では得られない気楽な深い交流があった(毎週日曜日は、私の住んでいたコンドの裏の公園にある無料のテニスコートで他の国からの院生もまじえて日本人同士でテニスをして、終わってからバベキューをすることもよくあった。その時の参加者は野崎さん、井口さん、山本さん、松尾さん、沢田さん,それに家族社会学の石原先生)など今の日本の学会で活躍している人たちが多い。子どもたちは、夏はそこのプールでよく泳いでいた)
1年間の気楽な別荘での生活だったような感じもするし、私にとっては過酷な1年間だった感じもする。

私のその時の記録は下記(上智大学教育学論集 30号 65-109頁 1995年度)
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Madison 
写真は、madisonjapan.wixsite.com/mjahomeより
この写真のテラスの椅子に座って、ビールを飲みながら、ジャズバンド(ロックバンドだったかもしれない)の演奏を聴いたこともある。週末には、クラッシックの演奏会も大学内で開かれ(2ドルくらいの入場料)よく家族で聴きに行った。
ただ、そんな理想郷のような場所ではないかもしれない。
マディソンにも黒人ばかりが住む地区があり、雰囲気が少し違う。大学のクラスでも黒人の女子学生に白人の学生が誰も話しかけない様子も見た。西海岸からトランスファーしてきた日本人学生と話したら、西に比べるとここは保守的で、人種差別を感じることもあると言っていた。私たちも車で1時間ほど北に行った風光明媚な場所で地元のレストランに入ったところ,白人ばかりで、冷たい周囲の視線を感じたことがある,