フジロック

今年も授業と重なり,苗場で7月27日〜29日に開かれているフジロックを聴きに行くことができなかったのは残念。
だが、今年はyou tubeでliveを見ることができて、嬉しい。https://www.youtube.com/watch?v=nmcLElYe71M

フジロックを聴きに行くのには、雨の苗場でのテントと、ロック魂と山登りくらいの装備が必要であると言われているが、you tubeの映像をみると大変な人出で、日本人のロック好き(ロック魂)が減っていないことを感じる。(もっとも、ロックの内容が時代と共に変化しているのであろうが)

カズオ イシグロ『夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)』を読む

村上春樹の短編はユーモアや心の温まるものがあり、とても好きで多くを読んできたが、カズオ・イシグロの短編ははじめて読み、独特の味わいのあること知った。
その味わいやよさは、自分のことばでうまく表せないので、共感した他の人の感想を掲載させていただく。

「読書メータ―」https://bookmeter.com/books/2305583より、転載。

<あらまぁ、ノーベル賞作家ということで、チョット構えたんだけど、全然そんなことなくって、読みやすかったわぁ。音楽を背景に悲喜劇が魅力的な作品集よねぇ。>
<読みやすくて、コミカルな場面の多いことに驚いた。人生の黄昏にたたずむ不可解な一幕。諦念と笑いをもって味わえるだろうか、こんな風に。>
<書名に夜想曲とある通り、ピアノによるノクターンを聴いた後のような余韻を残した短編集だな。昔好きだった音楽を聴いていて、その拍子に過去を振り返って、そういえばこんなことあったな、と脳裏に蘇った思い出のような、ちょっとビターでクスッと笑えて、どことなく懐かしい気分になったような。夕暮れを感じさせる文体がやっぱりカズオ・イシグロ氏らしいけれど、長編小説とはひと味違った雰囲気が個人的に大好きになった。>
<音楽をテーマとした短編集。それぞれに曲や楽器をカギとして、男女の複雑な感情の扉を覗いているような作品が多い。音楽がテーマとなっているが、どの短編も男と女の気持ちが交錯する。様々な男女の物語が、クラシック音楽のようにゆったりとしていながら、奥底では壮大に進んでいるような構成になっている。そして曲の余韻をしばらく楽しむかのように、どの物語も音がフェイドアウトしていくような終わり方になっている。長編も好きだけど、短編も良かったので、他にも書いて欲しいと思った。イシグロ作品の中では一番読みやすい>
<音楽がテーマの5篇の短編。イシグロの短編は意外性があったけれどなかなかでした。軽妙洒脱の様で、余韻がたっぷり、読み返したくなる。短い時間を切り取っていてストーリーらしきものはないが重ねてきた人生の紆余曲折を読者に感じさせる。移ろうもの、哀愁、可笑しみ、エゴ、無様さ、そしてそういうものへの慈しみ。大人のオムニバス映画を観ているよう。中島京子さんの解説も嬉しい。才能って本当になんなのだろうって考えながら読むとまた違った読み方ができそう。>
<解説がとってもとっても良かった。才能は天賦の資質か、努力の賜物か。自分に向き合わざるを得ないけど むりやり生み出そうとしなくとも、日々何かに触れたときの感覚や自分の気持ちを大事にしよう。誰かが自分の輝きに気づいてくれる、これは愚かな自惚れじゃなくて、生きる希望になるんじゃないかな。私の周りもどんなキラキラに囲まれてるだろう。優しくなれそう。我々はなんて運が良いんだ!>

絲山秋子「薄情」を読む      水沼文平

「薄情」は「沖で待つ」で芥川賞を受賞した絲山秋子の小説です。
よく人は「あいつは薄情者もんだ」と言ったりしますが、他者に対して情が薄いのは誰でものこと、みんな自分のことで精いっぱい、他人のことはかまっていられないのです。
この小説は異常な降雪と主人公が格闘する暗示的なシーンから始まります。彼は30才位で神主の予備軍、何もやる気のない無気力人間です。それでも稼ぐ必要があるので嬬恋でキャベツの収穫の季節労働をしています。そして出会い系サイトを見ては女を漁ったりもしています。
主人公の家がある地域(群馬県のどこかの街)に東京の芸術家が市の援助で材木工場を改造して住んでいます。周りの人は珍しがってその工房に集まってきます。主人公もその一人です。常連の東京で育った女性が自分の街の変貌を盛んに嘆いたりしています。
作者は、都会と田舎、男と女、自然と人などの対比と変化を巧みに織り交ぜていきます。
名古屋から主人公の高校後輩(女性)が帰ってきます。彼女の父親はその芸術家の取り巻きのひとりです。そのうち彼女はその芸術家とできてしまい噂が広がります。そうこうしているうちに、その工房が芸術家の不始末で火事を起こします。芸術家と周りの人たちの人間関係はいとも簡単に壊れてしまいます。薄情なものですね。主人公も確かな手ごたえがあった女に打算的な理由で簡単に捨てられてしまいます。
主人公は雨の日に、東京から福島県の白河に帰るヒッチハイクの生真面目な高校生に出会います。そして白河まで送っていくことになります。少年に車に乗せた理由を聞かれ「出羽三山に行く途中だから」と嘘をつきます。
この無償の行為が主人公の心に大きな変化をもたらします。少年を送り届けた彼は東北道を北上し、神が宿る出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)に向かいます。

絲山秋子は群馬県の高崎在住です。小説の至るところに群馬の山や湖が登場します。
自己中心的で利己的な人間集団の中でうまく泳ぎこともできずに擦れ切れてしまった主人公は最後には自然に魅かれ、自然と対面・融和することで新たな生きる道を築こうとしているのかもしれません。
読んでいて「自然と神」「生々流転」「独生独死」などの言葉が浮かんでくる本でした。

カズオ イシグ「わたしたちが孤児だったころ 」を読む

遅いペースだが、カズオ イシグの本を翻訳で読んでいる。今回は「わたしたちが孤児だったころ 」を読んだ。
戦前の上海が舞台で、時代に翻弄される人々の生活と心理が描かれ、推理小説のような面白さも感じる小説。
これは本筋とは関係ないが、イシグロの主人公が、接する人の表情や心理を敏感に感じ、それに反応する描写が多く、興味深い。
イシグロの作品をさらに読みたくなった。

この本の感想は、ネットに載っているものを転載しておこう。(https://bookmeter.com/books/525854)
<両親の失踪で孤児となる。前半は子供の世界観と大人の世界観の相容れなさ(主人公は両親と彼らを取り巻く人々の間の葛藤、アキラは日本に馴染めないなど)が主体として描かれる。読みながら、自分の少年時代(自分は孤児ではないけれど)に世の中をどのように見ていたかが懐かしく思い出される。後半は探偵ものらしく、両親の手がかりを追って上海での生活が描かれる。そこで少年時代に知り得なかった「大人の事情」に翻弄された両親の真実を知ることとなる。その真実を突き止めるために探偵となった主人公には、ショッキングな真実が待っていた。>
<1920年代の上海。イギリス人で10歳のクリストファーは両親の失踪事件により突然孤児となった。親戚のいるイギリスへ帰郷させられた孤独な彼の心を支えてきたのは、失踪事件を解決し両親を救うこと。その為にイギリスで探偵として名を上げ上海に乗り込む。翻訳もの特有の違和感や独特の世界観で読み難いところもあるが、混沌とした上海で記憶を頼りに調査を進めるところは先が気になり面白かった。最後に待っていたのは辛い真実だったが、両親の事件に囚われていた心が解放され、今度は自分の人生を生き始められそうでホッとして本を閉じた。>
<幼い頃の記憶はたいてい甘美なものかもしれないが、異国で、しかも両親の失踪などという出来事に見舞われたらどのようなメモリーが刻まれるのだろうか。サラ、アキラ、フィリップおじさん、そしてジェニファーの存在を軸に読み進んだが、最後にクリストファーが母親と再会し、交わした会話に何とも言えない情愛を感じた。クリストファーに刻まれたメモリーもジェニファーの申し出によって新しい方向に向かって行きそうだ。最後の最後で救いを感じた一冊だった>
<子供時代の記憶(大人が思っている以上に周囲の状況を理解し、乗り越える能力がある)を反芻しながら、両親の失踪事件の追跡調査が展開される。その結果見えてくるのは、戦争によって運命を狂わされたものたちの悲しい足取りであった。皆、普通に幸せに生きることを願い、穏やかに暮らそうと努めてきただけなのに。努力も虚しく空回りの地獄。でも最悪の状況下でも最善を願い前を向く。子供時代の行動や心理状態の描写など、相変わらずイシグロ氏の観察眼は鋭く、表現力(筆力?)も秀逸。大国の帝国主義政策に対する批判的作品。>
<クリクトファーとサラとジェニファーと。 孤児たちは自分の孤独と向き合いつつ、世界を相手に戦っている。魂の触れ合いがあることが救いだけれど、自らの幸せを追求することからも遠ざかって。ただ、真実を知ることだけが魂の救いであると信じて。さすがカズオイシグロ。重層的な筋運びに東洋西洋の狭間を生き抜いた筆者の姿も垣間見えるようで、圧巻の一冊でした。>
<19世紀の世界は今よりずっと野蛮で権力者の権力も大きかった。国家が成長するために他国を侵略するのが普通だった。そんな残酷な世界の中では大人もまるで寄る辺ない子供のような存在となってしまう。人がどこか壊れていってしまう描写から、どんな時も強く生きることができる人間なんていないというニュアンスのメッセージが感じられた>

移動しなくていい社会を作っては

「地方に住む若者たち」のところに書いたが、最近の若者は生まれ育ったところが好きで遠くに行こうとしない傾向がある。これでは異文化体験ができず、視野が狭くなってしまうことが懸念される。
 
 ただ、車で遠方に行くと、高速道路といえども時間はかかるし、渋滞や事故もあり、運転には一瞬の油断も許されず、どうして人はこんなに移動するのだろうと思う。
 もっと自分の住んでいるところで自足して満足すれば、人はこんなに移動しなくていいのにと思う。
 その為には、生活に必要なものは近くで供給され、風光明媚な場所も近くにあり、日々の生活が快適で充実したものであればいい。
住んでいる人も多様でわざわざ遠くに行かずとも、多様な文化に触れ、異文化体験ができるようになればいい。
移動しない人間を基調にした社会作りができないものかと、夢のようなことを考えている。

追記
住みやすい都市や街の上位に上がるのは、このように自足した多機能のところかもしれない。札幌、仙台、横浜、神戸、福岡などがこれにあたるように思う。
それでも、仙台に関しては、水沼さんから次のようなコメントが寄せられている。
<仙台は政宗一色ですが、それぞれの時代に優れた人物を輩出しています。「なぜ仙台人は郷土の歴史と先人に興味を持たないのか」「なぜ仙台人は新しいものに飛びつくのか」「なぜ仙台人は権力に弱いのか」、こんな研究テーマを持ち始めました。>