幼児教育格差について

私たちの学会発表のテーマは「高校間格」の問題だったが、「幼児教育格差」という言葉あることを今日(5日)の朝日新聞で知った。

一昨日学会の会員控室で雑談を交わした小針誠氏(青山学院大学准教授)が、教育社会学の研究者らしい視点で、幼児教育格差に関して鋭いことを言っているので感心した。
 
 <経済的に厳しい家庭の子どもや障がいのある子どもには、きちんとケアできる環境を整えてほしい。そうすれば幼児教育は社会の格差を縮小する効果を生むのです。これを実現するには、諸外国に比べて大幅に低い教育への公費支出を増やす必要があります。>
<国は3歳以上の幼児教育の無償化を打ち出しましたが、理解に苦しみます。その年代の就園率は9割を超えます。無償化を進めれば高い保育料を支払ってきた比較的裕福な家庭への恩恵が大きく、浮いた金を習い事に使えば、教育格差の拡大につながりかねません。
 一方で、園の環境改善は手つかずです。日本の配置基準は幼稚園の5歳児クラスで35人以下、保育園で30人以下ですが、欧米ではその半数程度の国が多い。1人あたりの面積も日本は最低水準です。無償化より環境を整え、保育士らの待遇を改善する方が、多くの子どもの利益につながります。>(朝日新聞 9月5日朝刊より転載)

ただ幼児教育を無償にすればいいという安易な考えや、幼児に一律に育ってほしい目標を立て努力させればいいという無知な考えに、現実の子どもや社会の仕組みから警告する教育社会学研究者らしい視点を感じた。

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日本教育社会学会70回大会での発表、無事終わる

京都の佛教大学で開かれた日本教育社会学会70回大会が9月3日だけの開催で2日目のプログラムが台風接近の為取りやめになった。
2日目に発表を予定していた人、参加の人、大会校にとって無念のことであろう。

私たちの発表(*参照)は1日目午前だった為、発表ができ、思ったより多くの人に聞いていただきありがたかった。厳しい質問やコメントを覚悟して発表に臨んだが、それもなく、ほっとした。
全体に学会の質疑が穏やかになっていると感じた。昔は発表に厳しい質問や皮肉なコメントがたくさんあり、発表を終えた後その傷を癒すのに時間がかかったものある。
学会参加は、初日は3〜4百人くらいだと思うが、高齢者は少なく、私は年齢の上から数えて3番目くらいかもしれないと思った。

最近まで見かけた天野先生、潮木先生,有本先生、竹内(洋)先生の姿が見えず、先輩の牧野さん、大淀さん同期の住田さんの姿は見たが、同期の久富さん、藤田さんの姿はなかった。
それでも、昔からの知り合いや上智の教え子や学会の中心で活躍している研究者の姿を見て、懐かしく、いろいろ刺激になり、学会はいいものだと思った。

20180903_日本教育社会学会(佛教大学) (1)

* 発表の発表要旨と当日のパワーポイントは、下記。
武内・浜島・黄(発表要旨)提出

pp2018‹教育社会学会発表
(PPの12枚目の 「とても大事」は「とても大事」+「やや大事」の間違い)

「戊辰戦争 母の怒り」 水沼文平

 東北は「明治維新」ではなく「戊辰戦争」150年の記念行事が各所で行われていま
す。私の母の生地である「旗巻古戦場戊辰の役 百五十年祭」に参加しました。
以下、戦争一般に関する私論です。(水沼文平)

9月2日、「旗巻古戦場戊辰の役 百五十年祭」に参加した。旗巻とは宮城県と福島県
との県境にある峠である。明治戊辰戦死者供養碑の前で神主が祝詞をあげ、町長など
のお歴々が玉串を捧げた。その後、場所を移して記念講演がり、地元の伝統芸能であ
る「青葉田植え踊り」が披露された。

旗巻峠のある青葉地区は伊具郡丸森町大内に属する。慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで
勝利した薩長軍は4月江戸城を接収、5月彰義隊を壊滅させ、同年6月に白河を越え、
奥羽になだれ込んできた。奥羽越列藩同盟により仙台藩は各地に藩士を派遣したが負
け戦が続き、8月に仙台藩と相馬藩の境にある旗巻峠で西軍との戦いとなった。仙台
藩は2000名を配置し迎え撃ったが、兵器の差が歴然としており、善戦虚しく一日で敗
退した。その後、西軍は旗巻峠の北にある大内を占領した。

私はこれ以上戊辰戦争の経過を書くつもりはない。実は私の母は丸森町大内で明治40
年に生まれている。4,5才の私に何度か語ったことは、母の祖父の弟がこの旗巻峠の
戦いで死んだということである。母の生家は農家なので軍事物資の運搬か雑用で使役
されて流れ玉にでも当たって死んだのかもしれない。母は話の最後にいつも「さっ
ちょうめ、さっちょうめ」と言った。当時の私が「さっちょう」なんか知る由もな
く、話の最後に言った言葉と恐ろしい母の顔が強く脳裏に刻み込まれている。

戦いは兵士だけで戦われるのではなく、多くの農民などが駆り出され、また食物、薪
などの供出を強いられる。「旗巻古戦場」という唄の三番が石碑として残されてい
る。

「三 秋吹く風は変わらねど 昔を語る戦士塚 恩讐今や共になく 墓前に香る野の
花よ ああ旗巻の古戦場」。この碑を見た時、私は「薩長め!」と憎々しげに言った
母を思い出した。果たして「恩讐今や共になく」なのであろうか。これは今でも続い
ている西高東低の政治・経済状況における東北人の権力に対する「阿ねり」の結果で
はなかろうか。また会津若松の神社に「恩は石に刻み、恨みは水に流せ」という石碑
がある。これも為政者レベルの取引か妥協の産物のような感じがする。

「西軍は旗巻峠の北にある大内を占領した」と前記したが、その時西軍によって何が
行われたかは不明である。会津若松市内での西軍の暴虐行為のような略奪、暴行がな
かったとは言えない。明治40年生まれの母に彼女の祖父を含め当時のことを語った多
くの人がいたことは想像に難くない。「薩長め!」という母の罵りの背景に幼い私に
は言えなかった事実が隠されていたような気がする。

戦争とは兵士だけの戦いではない。多くの農民など一般人が動員され、女や子供が惨
い目に遭うのが戦争である。戊辰戦争における仙台藩の大義名分は「勤皇の会津を助
け、私軍である薩長を討つ」というものであった。現在、東北ではそのレベルでの議
論が沸騰しているが、私は戦いに巻き添えを喰った庶民の視点での研究をもっと深め
て欲しいと思っている。そして「さっちょうめ!」という歴史認識を持つ東北人が増
えることに期待したい。

多様なジェンダー観

今ジェンダーの多様化が言われているが、異性関係や結婚についての考えも多様化していると感じる。
これまで、恋愛→結婚という流れが一番幸せな道と考えられ、映画やドラマなどの描かれ方もそれに則っていたが、最近のものをみると、そうでもないものが多い。
 NHKの朝ドラ「半分 青い」もヒロイン鈴愛と幼馴染律の関係が、惹かれあいながら、恋愛→結婚という流れではない。
アメリカのドラマGleeでも、主役の男の子(フィン)と女の子(レイチェル)の関係は、恋愛関係のように描かれる回は不自然で目を逸らしてしまうが、友人関係のような描かれ方の回は、いい関係だなと見惚れてしまう。
昨日(31日)BS、NHKで、昔の映画「カサブランカ」が放映されていたが、主演の男(ハンフリーボガード)とヒロイン(イングリド バークマン)の関係は、惹かれている感情を秘めながらも、それに沿った行動はとらず,別れ、それがなかなかよい感じに描かれていた。
 

高校教師の特質

現在、高校教師のことを調べている。
敬愛大学の客員教授で、これまで小中高の校長を務めたことがあるS先生に高校教師の特徴について話をうかがった。その時聞いたことをメモする。

1 小学校の教師は全教科教えるが、中学高校の教師はそれぞれ専門の教科がある。中学高校の教師は、教科担当の意識が強い。

2 小学校教師は、1つのクラスで、1回限りの授業をすることが多いが、中高の教師は同じ授業を数回繰り返す。
その為、小学校教師は、その単元が学習指導要領や教師の指導書にどう書かれているかを参照することが多いが、中高の教師は、最初その個所を教える時、それらを参照するにしても、その後は何回も教える中で自分流のやり方を確立し、それらを参照することはなくなる。

3 中高の教師は専門の教科意識があるとはいえ、その程度は中高で違っている。中学の教師は浅く広く教えるので専門教科意識はそれほど高くない。高校の教師の専門教科意識はかなり高い。それに社会科や理科では、その中が専門の領域で分かれている(世界史、日本史、政経、物理、化学、生物。地学など)

4 中学校に入ってくる生徒は能力も特性もさまざまであるのに対して、高校は入試があり、学力で輪切りされて、それぞれの学校には、能力も特性も同じような生徒が入学している。進学校と非進学校、普通科と専門学科で、生徒の特質は違い、それに対応して先生達の意識や行動の違いが、学校グループ(類型)ごとに違っている。

5 高校グループ(類型)間の違いは、現在も明確にあるが(進学校は受験や勉強中心等)、昔に比べれば、その差は小さくなっている。 かっては非進学校で、校内暴力や荒れがあったが、今は生徒は皆おとなしくなっている。

6 管理職が部活動の顧問等になることはほとんどない。部活動で実績を上げることは、その個人の名声を高めることになるかもしれないが、それで管理職への道が開けるわけではない。部活動の指導で名声の高まった人には、私立から誘いが来る。

7 学習指導要領を読む(参照する)のは、教科書の採択時と、年度初めの年間授業計画を書く時だけである。それも改訂があった時に参照するだけである。
それも自分の専門の教科のところだけで、総則は読まない。

8 教師たちは、学習指導要領より教師用の教科書の指導書の方をよく読む。教師用の指導書には、学習指導要領の該当する箇所に関してもわかりやすく書かれている。指導書には教科書をどのように使えばいいかが丁寧に書かれていて、指導書を読めば、わざわざ学習指導要領を参照する必要がない。

9 それに高校の教師はそれぞれの教科の専門家であり、教育現場で長年教えてきている。その教育現場の実情をよく知らない文部科学省の役人や大学の教師の作った学習指導要領は、一般論として正しいことが書かれているのかもしれないが、具体的に教育現場で通用するわけではない。教育現場では自分の専門的知識の方が勝っていると、教師たちは自負を持っている。