渋滞の中、紅葉を見に行く

お正月やお盆や大型連休の高速道路の渋滞のニュースを見るにつけ、このような渋滞の中、出かける人の気が知れないと思う時があるが(実際は、その時でないと帰省できないとか休暇が取れないとは事情があるのであろう)、自分がそれを経験するとは思わなかった。
この連休(11月3日、4日)は、秋の連休とは言え、通常の土日の休みと変わらないし、
たいした混み方ではないだろうと、家人と紅葉を見に、3日の午前8時前に車で稲毛の自宅を出た。
最近、高速の外環が、市川から三郷に繋がり、千葉から都心の混雑を避け、高速の関越や東北道に乗ることができるようになり、千葉県から北に行くのが大変便利になり、時間が短縮した。
それを使って関越の入り口までは1時間余で行ったが、関越は大変な渋滞で、そこから群馬の藤岡まで行くのに4時間かかった(通常は1時間半で行ける距離)。途中のパーキングも大変な混みようで、パーキングに入るのに2キロ手前から車が並ぶという状態であった。
その為、谷川岳あるいは軽井沢の紅葉を見に行こうという当初の考えを諦め、人の少ない苗場をめざした。関越の月夜野で高速を降りて、三国峠を登った。三国峠はカーブが50もある難所だが、車も少なく、紅葉がちょうど見頃で、来たかいがあったと思った。

苗場には午後3時に着いた(家を出てから7時間が経過)が、その日はゴンドラに乗ることは諦め、ボードウォークを散策した。そこで出会った人は2組だけであったが、その紅葉の趣に感嘆した。紅葉の旬は過ぎているが、少し枯れ始めている紅葉の趣は味わいがあっていいものだと思った。
 「春に新芽を出し、暑い夏を生き抜き、秋に紅葉して、落葉する」といった葉の1年のサイクルに、人の一生を重ねてみて、勝手な感傷にふけっていると言われそうな気もするが、旬を過ぎた紅葉もなかなかいいものだと思った。

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偶然? 因縁?

遭遇する確率はごくまれなはずなのに、それが起こることが時々あり、びっくりする。
数年前、京都駅で、もう20年以上も会ったことのない親戚の子(甥)にばったり会い、その奇遇にびっくりし、立ち話ながら近況を報告しあった。
3日ほど前(11月2日)、寝る前にたまたまNHKテレビを見ていたら、知り合いが映っていて、びっくりした。それは「ドキュメント72時間密着!東京駅・銀の鈴定番待ち合わせ場所」という番組で、昔福武書店の「モノグラフ高校生」調査という研究チームで一緒に高校生調査をやった友人の明石要一氏と穂坂明徳氏で、大学院時代の友人との待ち合わせで「東京駅・銀の鈴」に来ていた時に、取材されたものである。めったにこの番組をみることはないのに、偶然見て、偶然そこに友人たちが映っているというのは驚きである。
その他、電車で、偶然知り合いにばったり会うことがある。
そのよう遭遇の確率は、ごく低いのに、遭遇が起こるというのは、何か因縁の力が働いているのであろうか。
非科学的なことは信じないたちなので、因縁の力があるとは思わないのだが、何か目に見えない力が働いていると思うことはある。

今日から11月

ハロウイーンも終わり、今日から11月。
秋や冬の花が咲いている一方、夏の朝顔も健在。
どのような11月になるのか。楽しみ。
祝日もほとんどなく(敬愛では23日も授業がある)、授業に専念することになるのか、
合間を縫ってどこかに紅葉を見に行くことができるのか、
スポーツ(テニスと卓球)に打ち込むのか(テニスの誘いもいろいろある)、
読書の秋にできるのか。
歳を取ってくると、健康や体力、気力との勝負。

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弱者とのかかわり(その2)-水沼文平さんからのコメント

「弱者とのかかわり―何もできない後ろめたさ」を拝見しました。認知症のおばあさん、虐待を受けた(?)仔猫、10年前のキャバリヤ犬のことに強い共感を覚えました。
世の中には障害者(身体・知的・精神)、高齢者、子どもなど社会的に弱い立場の人がいます。このような人が困っている時に何かして上げたり、何もできなかったりします。大事なことは、困っている人に何かしてあげたいという「思いやりの気持ち」と何もしてあげられなかったという「後悔の念」を持つこと、その懐いた気持ちを忘れずにいることだと思います。

友人達とグループネットで情報を交換しています。A君からのメールです。「〇駅か
らバスに乗車し、降車までの途中に精神障害児が通う施設があり、時々その生徒が乗
車して来ます。大声で奇声をあげて話し出したり、突然歌を歌ったりする事に遭遇し
ます。車内の雰囲気を観察していると、穏やかな雰囲気で児童を見守る人もいれば、
煩そうに冷たい目線で傲慢な態度を取る老人もいて様々な光景に出会します。先日
は、なんと運転手が大声で児童に注意したので、私はその運転手に公衆の面前で注意
しました。」

B君からのメールです。「知的障害者の親として一言。A君、運転手への注意有難う
ございます。知的障害者の特性としてさまざまな行為があり、その特性を一般の人々
に理解してもらうのが難しい状況にあり、障害者の親の団体として「知的障害者への
理解」を毎年の活動目標としています。多くの人に理解してもらえたら、親も安心し
てあの世にいけると思っています。A君にこのような行動をとっていただき感謝して
います。」

このようなことに関連するものとして、今週新聞で見た三つのことに触れたいと思い
ます。一つ目は、戦時中の韓国人の徴用を巡り、韓国の最高裁判所が30日、日本企業
に賠償を命じたこと、二つ目は東京電力が事故を起こした福島第一原子力発電所の写
真に、工場の鑑賞を楽しむという意味の「♯工場萌え」というハッシュタグを付けて
インスタグラムなどに投稿したこと、三つ目はまたもや東京電力ですが、東電強制起
訴公判で勝俣元会長が「津波危険性に関する報告はなかった」と証言したことです。

韓国に対する戦後賠償は終わっていますが、植民地化され言葉と名前を奪われ、もろ
もろに酷い目にあった韓国人の「恨み」という感情は消えていません。今回の判決に
対して日本政府は反発していますが、お金で全てが解決すると思ったら大間違いで、
日本が戦前・戦中に近隣諸国で行った蛮行を率直に反省し、被害者の身になって真剣
に考え、そのことを相手に伝える努力が必要です。大戦後ドイツの近隣諸国に対する
物心両面での謝罪に学ぶべきことが多いと思います。東京電力に関しては「♯工場萌
え」と、大きな津波を何度も経験している日本では考えられない勝俣元会長の証言は
「厚顔・無神経」という意味では同一レベルのものです。

先日自転車で田舎道を走っていたら車に挽かれた猫の死骸が横たわっていました。何
台も車が通りますが皆な大回りで避けていきます。私は尻尾をつかんで近くにあった
ゴミ集積所に置いてきました。世の中のために何もできませんが、これまで生かして
もらった恩返しに、これぐらいのことはやっていきたいと思っています。
(ペットの火葬場まで持っていくという気持ちまでは持てませんでした。「情けは人のためならず」修行不足ですね。反省しています。)(水沼文平)

弱者とのかかわり―何もできない後ろめたさ

弱い人や動物とのとのかかわりは難しい。
先日、乗っていたバスに途中乗ってきたおばあさんは、どうも道に迷ったようで運転手に尋ねていて、傍の人も手助けしているが埒があかず、次のバス停で降ろされた。少し痴呆が入っているようでそのような見知らぬバス停で降ろされても困るだろう、誰かが目的のバス停まで連れて行くか、交番まで連れて行くかする必要があるように思われたが、そこまで親切にする人はいない。私も先を急いでいてそのような余裕はない。でも、大丈夫なのかと心を痛めた。
昨日、テニスをやりながらふと傍の道路をみると、生まれて1か月経つかどうかという子猫がこちらに助けを求めるように寄ってきた。よくみると片目がつぶれており、尻尾も折れていて、これでは飼ってくれる人はいないと思われる痛々しい子猫であった。
あまりの、痛々しさにテニスをやる気も失せて、どうしようか思案した。動物病院に連れて行き、手当てをして傷の回復を待って飼い主を探すというのが一番理想的な方法であろうが、そのような余裕が私や家族にはない。
10年ほど前、稲毛海浜公園に捨てられていたキャバリヤ犬を妻が気の毒に思い、病院に連れて行き、病院で3泊して手当てを受け、家に連れ帰り、近所で飼ってくれる人を探して、事なきを得た経験があるが(その詳細は2012年5月13日のブログに書いた)、今回の子猫の様子を見ると、昔のキャバリア犬以上に重傷のようで、気の毒であるが、どうしようもないと思った。
それでも、テニスをやめて、家に急いで帰り、猫の餌と牛乳を持ってきて、子猫のそばに戻ってみたが、通りかかった中学生数人が子猫を囲んでどうしようと相談していた。「とりあえずこの餌と牛乳をやってみて」と言って中学生たちに手渡し、私たちの役割はそこまでと思い、後ろ髪を引かれながらも、帰った。
 どちらのケースも、自分は何もできなかった、何もしなかったという後ろめたさを感じた出来事であった。この気持ちは忘れず、次の機会に何かできることがあればしようと思った。
 このような周囲の弱いものへの手助けが根本的には何もできないということは多いのではないかと恐れる。