高齢者のスポーツ三昧(ざんまい)のこと

この頃私は暇で、平日の午前中からテニスと卓球を高齢者仲間と行うことが多い。テニスを週に3回、卓球を週に2回する時がある(同じ日に卓球を2時間、テニスを2時間した日もある)。それが習慣化すると、テニスや卓球をするのが、「遊び」ではなく、自分の「仕事」のような気がしてくる。常勤で大学に勤めていた時は、暇があれば原稿や授業の準備をするのが大学教員の務めで、スポーツは休日に骨休めに少しするだけのものであったが、大学を退職して仕事がなくなると、この低落(ていらく)である。勤めや年齢に関係なく研究や本の出版をし続けている先輩や同期の大学人を見ると、少しは見習わなければとは思う。一方高齢者のスポーツ三昧は「健康維持の為」であり、それは高齢者の大切な「仕事」であり。「病院通い」と一緒であるという「言い訳」も用意しながら。

これだけ頻繁にテニスや卓球をやっているとわかったことがいくつかある。その一つはテニスと卓球をやる高齢者の平均の年齢差は、10歳くらいあるのではないかということ。少なくても私が一緒にやる男性の平均年齢は、テニスは70歳台、卓球は80歳台(女性はそれより10歳は若い)。

もう一つは高齢者のスポーツ三昧は、上達は望めないが、技術の現状維持は何とかでき、どのような技術が重要かは少しわかるようになる。テニスのダブルスの練習試合の場合、これまで返球のミスをなるべく少なくすることを心掛けていたが、それだけだと相手から強い球や空いているスペースに球を打ち込まれてしまう。大切なことは、コントロールの利いた球を打ち返すことと、空いたペースに球を的確に打つこと。卓球の場合も同じようなことが言える。ただ卓球の打ち方はテニスの打ち方と微妙に違い、注意されて直そうとしてもなかなかうまく行かない。また私は相手の裏をかく巧妙なサーブや端を狙った打ち方は好きになれず、その為に私の卓球のレベルは上がらない。

大学におけるレポートの書き方

そろそろ大学も学期末で、学生たちは、レポートを書く作業に追われることであろう。教員からは「レポートを書きなさい」と言われることが多いが、「レポート」ってどのように書けばいいのか、教えられることはあまりないのではないか。私自身も学生に聞かれたら、「レポートは通常、何かテーマを決め、それについての問題意識、文献の参照、自分なりの考察を書くものです」ぐらいしか答えられない。そこで2つの生成AI(「Bing チャト」と「ChatGPT」)にそのことを質問してみた。その回答を下記に転記する。私の答えより詳細で的確なことを言っている、と思う。

A Bing チャト

質問 大学の授業でのレポートの書き方(1000字程度)に関して教えて下さい。

回答―大学のレポートを書く際には、以下の点に注意すると良いでしょう。/指示に従う: 大学のレポートには、指示が含まれています。指示に従って、必要な情報を収集し、レポートを書きましょう。/構成を考える: レポートは、序論、本論、結論の3つの部分から構成されます。序論では、レポートの目的や背景を説明し、本論では、調査結果や考察を述べます。結論では、レポートのまとめを述べます。/文字数を守る: 大学のレポートには、文字数の制限があります。指定された文字数を守りつつ、必要な情報を簡潔にまとめましょう。/参考文献を引用する: レポートには、参考文献を引用することが求められる場合があります。引用する際には、正確な情報を記載し、参考文献リストを作成しましょう。/文章を校正する: レポートを書き終えたら、文章を校正しましょう。文章の誤字脱字や文法のミスがないか、注意深く確認しましょう。/以上の点に注意して、大学のレポートを書くことができます。

B   ChatGPT

User―大学の授業でのレポートの書き方に関して教えて下さい。

回答―大学のレポートは、学問的な視点から問題を分析し、自分の意見や調査結果を論理的かつ明確に表現するための重要なスキルを養うものです。以下は、一般的な大学のレポートの書き方の手順です。/課題の理解-課題や指示をよく読み、要求されている内容や対象を理解します。質問やテーマに対する自分の見解や理解を整理しましょう。/調査と情報収集―レポートをサポートするために必要な情報を収集します。参考文献、研究論文、本、記事などの信頼性のある情報源を活用します。/アウトラインの作成-レポートの構造を考え、アウトラインを作成します。これにより、論点や論証の流れが整理されます。/導入部の作成-レポートの背景や目的、取り組むテーマの重要性を説明する導入部を書きます。問題提起や興味を引くエピソードを使うと効果的です。/本論の構築-アウトラインに基づいて、明確で論理的な順序で本論を構築します。各段落ごとに一つの主題を扱い、段落の最初にトピックセンテンスを置きます。/論証と例の提供-論点を支持するために論証や具体的な例を提供します。統計データ、引用、事例研究などを活用して、自分の主張を裏付けます。/反対意見や批判の考慮-対立する意見や批判的な視点を考慮し、それに対する反論や説明を提供します。あらゆる側面からの分析を行います。/結論のまとめ-レポート全体を総括し、主要なポイントを強調する結論をまとめます。新たな洞察や提案があれば、それも述べます。/参考文献リスト-使用したすべての情報源を正確に引用し、参考文献リストを作成します。大学の指定された引用スタイルに従ってください(APA、MLA、Chicagoなど)。/文章の校正と修正-レポートを読み返し、文法、スペル、論理的な流れなどを確認し、必要に応じて修正します。他の人にも読んでもらってフィードバックを受けると、より改善されることがあります。/これらのステップに従うことで、大学の授業で要求される高品質なレポートを書くことができます。

光と影について

田中角栄が住んだ「目白御殿」の焼失に言及した朝日新聞の天声人語(1月10日)の最後に次のような一節があった。「田中政治とは、未来を信じられた高度成長期の産物と言える。昭和の政治と言ってもいい。鉄道や道路を張りめぐらせた「光」と、政治をカネまみれにした「影」。その象徴だった目白邸の焼失に、改めて時代の変遷を思う。残照はいよいよわずかとなり、影ばかりが長く伸びる。」

 その中の「光」と「影」という視点に興味をひかれた。光があれば必ず影が生じる。光だけで影をなくすことはできない。影をなくすと人はどのようになるかは、村上春樹の最新刊『街とその不確かな壁』(新潮社、2023)の主要なテーマである。その本とは別の箇所だが、村上春樹は影に関して次のように言っている。「僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。」「自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません。」(https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/murakami-andersen

 心理学者の河合隼雄は、『影の現象学』(思索社、1976)の中で、「人間にとって影とは不思議なものである。それは光のあるところには必ず存在する。私の影は常に私と共にあり、時に大きく、時に小さく、あるいは濃淡の度合いを変化させながら、まぎれもなく、私のものとして付き従ってくる」(5頁)、「影を抑圧して生きながら、影の反逆を全く受けていないように見える人もある。しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い(聖人君子の子どもが放蕩息子や犯罪者)。」(44頁)と書いている。

 村上春樹が言っているように、人だけでなく組織や制度にも、また社会や国家にも光と影があり、その両方が相まって政策や活動が展開されている。その影が大きくなり悪がはびこるのは避けなければならないが、影を完全に消滅させればいいという問題ではない。影が消滅することは光も消滅することを意味する。消毒された真っ白な世界に、人工的なロボットは生きられても、人間が生きられるのかどうかわからない。

柄谷行人の回顧記事

哲学者の柄谷行人の回顧記事(朝日新聞2024年1月10日朝刊)に興味を惹かれた箇所があった。その部分を抜き出しておく。①法政大学では抽選で在外研究者が決まる。②柄谷行人は江藤淳と親しかった。③海外の客員教授になる方法などである。

<74年の秋、法政大学の門のところで、同僚の河野徹さん(英文学者)から呼び止められて、『これから在外研究のくじ引きがあるけど、行かないの?』って。/一緒にくじを引きに行った。それまで在外研究なんて特に考えたことはなかった。何と、僕と河野さんの2人だけがくじに当たったんです。/受け入れ先の大学は自分で探さないといけないので、江藤淳に会ったときに、相談してみた。江藤さんは、『じゃあ、近々、日本にイエール大学教授のマクレランが来るから、紹介する』といってくれた。/ そのマクレランと会ったところ、話がはずみました。彼は、母親が日本人で、自分も神戸育ちだから、日本語ができる上に関西弁なんだ。彼は、おそらく江藤さんが予想していた以上に僕を評価してくれた(笑)。それで気がついたら、彼の手配で、イエール大の客員教授として、日本文学を教えることになっていました。/「急きょ、近代日本文学の研究を始めることになった。一応文芸評論家でしたから。/ そうして授業のために用意した草稿が、『風景の発見』や『内面の発見』のような論考の原型となったのです。そして、それらをもとにして書いたのが『日本近代文学の起源』という本です。*>

(*【日本近代文学の起源】1980年に刊行。日本の精神史の常識を批判検証。90年代以降、英語、ドイツ語、中国語、韓国語などに翻訳された。)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15834513.html

新しいことへの感性を閉ざさずに

齢をとってくると新しいものを理解する感性が失せていくことを感じる。さらに見苦しいのは、そのことへの自覚がなく「昔はよかった」と自己の感性への正当化を図り、新しいのものを非難することである。この年末のNHK「紅白歌合戦」の視聴率の低かったことを挙げ、嬉しげに「今の歌はつまらない」という中高年の声を聞くと、そのことを感じる。

NHK「「NHKスペシャル世界に響く歌―日韓POPS新時代」(1月7日9:15~10:4)」を見て、今世界の音楽界を席巻しているKポップスとそれを追いかけるJポップスの動向は、まさに時代を先取りして新しい音楽を作りだそうとしていることを感じる。私のように齢をとり感性の鈍った人間は、紅白歌合戦を見ても、昔より日本人のダンスは上手になったなと思うくらいで、YOASOBIやNewJeansが新しい音楽の世界を切り開いていることはわからず、後からテレビでその解説を視聴し理解するしかできないが、新しいことへの感性を閉ざすことだけはやめたい。

(https://www.nhk.or.jp/music/programs/490757.html)