村上春樹の小澤征爾への追悼文を読む

今日(2月11日)の朝日新聞(朝刊)に、小澤征爾と村上春樹が2016年にベルリンのレストランで一緒にビールを飲んでいるカラー写真とともに、村上春樹の小澤征爾に対する長い追悼文が掲載されていて驚いた。村上春樹はあまり人とは交際しないし親しい人がいるとは聞いたことがないので、この組み合わせは意外。ただ二人の対談集があったようなことを思い出した。ネットで調べてみた。(新聞とネットの主な点を転載する。)「音楽的成熟とは対照的に、子供がそのまま大きくなってしまったような部分がこの人にはあった」「その部分のネジを締める。それを何度も何度も繰り返して、彼の求める音を、音楽を、辛抱強くこしらえていく」という言葉(村上春樹)が、心に残った。。

<亡くなってしまった小澤征爾さんのことを思うと、いくつもの情景が次々に頭に蘇ってくる。様々な思いももちろん胸に去来し、それなりに渦巻くわけだが、それより前に浮かび上がってくるのはいくつかの断片的な、具体的な情景だ。そしてそれらのエピソードのほとんどにはユーモラスな要素が含まれている。/ ジュネーヴの古いコンサートホール、その楽屋で僕は征爾さんの手を思い切りごしごしと撫でていた。征爾さんはその夜、ヨーロッパの学生オーケストラを指揮したのだが、指揮を終えた直後に倒れ込んで、意識を失ってしまったのだ。まわりに医師もいないし、どうしていいかわからないので、とにかく僕は楽屋のソファに横になった彼の手を握って、「征爾さん、征爾さん」と声をかけながらその手足をこすり続けた。少しでも血行を良くしようと思って、ずいぶん長い時間。でも意識はなかなか戻らなかった。/ もしこのまま亡くなってしまったらどうしようと思うと、とても怖かった。この大事な人をこんな風に簡単に失ってしまうわけにはいかない。でもとりあえず、必死に手足をこすり続ける以外に僕にできることは何もなかった。そのうちに指圧の得意な学生も出てきて、やがて意識は少しずつ戻り、目が開き、なんとか身体を起こせるようになった。そのときどれほどほっとしたことか。/ 「指揮する前に、腹が減ったんで、つい赤飯をぺろっと食べちゃったんだよね」と翌日、けろりと回復した彼は告白した。「きっとそれがいけなかったんだな」/ 当時征爾さんは癌の手術を受け、食道の一部を切除したばかりだった。重いものは食べてはいけないという厳しい指示を医師から受けていた。赤飯みたいな消化の良くないものを食べていいわけはないのだ。それでも「すごくおいしそうだったから」と赤飯をぱくぱく食べて、そのまま舞台に立って指揮してしまうのがこの人の生き方というか、あり方だった。音楽的成熟とは対照的に、子供がそのまま大きくなってしまったような部分がこの人にはあった。おかげで僕は、夏のスイスで大量の冷や汗をかかされることになった。ちなみにその夜の演奏は素晴らしいものだった。/ (中略) 彼の中には、巨大な組織に手足を縛られることなく、広い草原を吹き抜ける風のように、自由気ままに音楽を奏でたいという強い気持ちがあったのではないか。その魂のおそらく半分くらいは、そういう世界を夢見ていたのではないか。そのような印象を僕は受けた。/(中略) 征爾さんとはいろんな音楽の話もした。言うまでもないことだが、征爾さんは特別な才能を持った特別な音楽家だった。天才的と言ってしまえばそれまでだが、脳味噌の大部分が音楽関係の細胞でできているんじゃないかという気がするほどだった。音楽の話をしていると、その脳の働き具合の特別さに驚かされ、言葉を失ってしまうようなこともたびたびあった。/ (中略) 征爾さんがオーケストラと練習するところを見ているのが好きだった。征爾さんはあまり感情を表に出すことなく、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に細部のネジを締めていく人だった。オーケストラの出す音に注意深く耳を傾け、問題があればそれを指摘し、どこがいけないかをユーモアを交えてフレンドリーに説明し、その部分のネジを締める。それを何度も何度も繰り返して、彼の求める音を、音楽を、辛抱強くこしらえていく。/ 不思議なことに、彼がネジをひとつ締めるたびに、その音楽は少しずつより自由で、より風通しのよいものになっていくのだ。/ 征爾さんの場合は、ネジをぎゅっと締めることによってその結果、驚くほどすんなりと演奏から肩の力が抜けていくのだ。そしてその音楽はよりナチュラルな、より柔軟性を持つものとなっていく。生命が吹き込まれていく。僕はそれこそが「小澤マジック」のひとつの神髄ではないかと思っている。/(中略) そこにあるのは、小澤征爾という個人の中に確立された純粋な音楽思念の、虚飾を排した誠実な発露でしかない。彼はそれを立体的な音像として、満席のコンサートホールに鮮やかに再現することができた。作家が文体を真摯に追求すればするほど、文体自体が消えていって見えなくなり、あとには物語だけが残る――そういうことが小説の世界にはある。征爾さんの晩年の演奏は、あるいはそういう熟達の境地に達していたのではないだろうか。(以下略)(村上春樹、 朝日新聞 2024年2月11日)

<小澤征爾×村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』 新潮社、2011年、―本書は第11回小林秀雄賞を受賞した。2014年7月1日、新潮文庫として文庫化された。文庫版には、『考える人』(新潮社)2013年秋号に掲載されたエッセイ「厚木からの長い道のり –小澤征爾が大西順子と共演した『ラプソディー・イン・ブルー』」が収録された。娘の小澤征良と村上の妻が「大の友達」で、それが縁で2人は顔見知りになったという。本書をもとにした3枚組のCD「『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック」がユニバーサルミュージックより発売された。村上は同CDのためにライナー・ノーツを書き下ろした。>(ウキペディア)

「風の便り64号」

いつも毎月1日に送っていただいている辻秀幸氏の「風の便り」64号をお届けする。今回の「風の便り」は両生類(カエル)、爬虫類(トカゲ)、哺乳類(キツネ、ヒト)の話。写真がとても鮮やか。うちの庭には昔はカエルはいたが今はいない。トカゲは今も時々見る。キツネは見ないが地域猫が往来する。小人はいないがその置物はある。メジロなどが花(椿やさざんか)の蜜を吸いに来る。庭に小動物が来ると嬉しいが、猫に気を付けて。いつも捕まえようと狙っている。

今日は2月10日。「風の便り」のブログへの掲載がすっかり遅くなってしまった(私信も一部掲載をお許し下さい)。2月上旬は、私にとって忙しい時期。唯一担当している授業(敬愛大学「教育社会学」)のレポートと成績の締め切りがあり、PCに向かう日々が続いた。授業は遠隔授業で行い、「講義メモ」と「授業資料」を毎週1回受講生に送り、解答(コメント)を1週間の期限で求めている(字数は200~1000字程度)。それへの私のコメントを毎週個々の学生に返している。学期末にまとめて送ってくる「ツワモノ」もいて、その返信に時間が取られた(受講者は70名いるので、半期で書いた返信は約900通)。学生が少しでも、これから学んでくれればうれしいのだが。

「蛙化現象」の意味

学生のレポートに「蛙化する」という言葉があり、その意味が分からず困った。以前にテレビで取り上げられていたような気がするが、よく覚えていない。家人に聞いてもわからない。そこで小学5年生の孫に聞いてみた。「女の子が男の子にドン引きすることだよ」とのこと。さすが今の子どもの方が新しい言葉を知っている。娘に「そんなことはネットで調べればすぐわかるよ」と言われ、ネットにあった東京新聞の記事(2023年8月14日)を読んでほぼ理解した(一部転載)。

<「蛙化現象」って何のこと?どう使う?意味が変わって流行語にも・・・ Z世代や専門家に取材してみた。/現在の中学生ぐらいから20代半ばの「Z世代」*の間で流行っているある言葉をご存じでしょうか。それは「蛙化現象」。今年1年の世相を反映した言葉を選ぶ「2023ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンにも選ばれました。特に女性の間でよく使われるそうです。/この言葉を取り上げたのは、Z世代を研究するシンクタンク組織「Z総研」が6月に発表した「Z世代が選ぶ2023年上半期トレンドランキング」。「流行った言葉」部門で全体の54%を占め1位に輝いた。/「恋愛感情や好意を抱いている相手のささいな言動が気になり、気持ちが急速に冷めてしまう」という意味で使われる。では、実際にどんな状況で使われるのだろうか。/ 都内の大学3年の女性(21)は以前つきあっていた男性に「ケチな対応」を取られて「蛙化現象」を起こした。/(その他の例)「お母さんのことをママと呼ぶ」「交通費がかかっているからと、食事代を多めに払うよう要求された」「走り方が変だった」「学園祭で公開告白をされた」「フードコートでおぼんを持ってきょろきょろしている」/◆本来は別の意味だった。ある男性に好意を持つ女性がいて、その男性も自分に好意を持っていることが分かると生理的な嫌悪感を抱いてしまう現象を「蛙化現象」と名づけている。/なぜ「蛙」なのかについては、お姫様の前に現れたカエルが王子様に変身するグリム童話の「蛙の王様」を挙げ、逆に王子様がカエルに変身するかのようなこれらの事例について「蛙化」と命名したとしている。/https://www.tokyo-np.co.jp/article/264372 

チャットGPTに蛙化現象について聞いてみたら、全然違った意味の説明をし、チャットGPTは新しい分野が弱いことがわかった。Bingチャトに聞くと、「『蛙化現象』は、好意を抱いている相手が自分に好意を持っていることが明らかになると、その相手に対して嫌悪感を持つようになる現象を指します。この現象は、グリム童話『かえるの王さま』に由来しています。しかし、2020年代に入ってからは若い世代を中心に『交際相手などの嫌な面を見て幻滅する』という意味でも用いられるようになっています」と、まともな回答であった。

*(Z世代 1990年代後半から2000年代に生まれた世代。米国では、1960年代初頭または半ばから80年頃までに生まれた世代を『ジェネレーションX』、その後を『ジェネレーションY』と呼び、さらにその次の世代『ジェネレーションZ』が日本にも浸透した。生まれたときからインターネットが身近な環境で育ち、SNSなどのデジタル技術を使いこなすことから「デジタルネイティブ」とも呼ばれる。)

谷川彰英先生の「エンジン01 in 市原」での講座を聞きに行く

谷川彰英先生(筑波大学名誉教授、地名作家、中央教育研究所の元理事長)が、「エンジン01 in 市原」(https://enjin01-ichihara.jp/)の講座の1つに登壇され、「千葉の地名から日本がわかる」という題で報告されるというので、それを聞きに行った。以下その報告(記録)。(谷川先生のご著書『ALSを生きる』に関しては、2020年3月21日のブログで紹介している。)

 日時は、1月27日(土曜日)12時~13時15分。会場は、千葉県市原市の帝京平成大学の教室。定員80人ほどの中教室で、そこが満席だった。聴講者は、中高年が多く、4対6くらいで女性が多く、地名ファンあるいは谷川ファン人が多いという感じで、会は冒頭から終止あたたかい明るい雰囲気であった。登壇者は、谷川先生の他、3名の方(ルポライター、映画監督、写真家)がいて、主にルポラーターの方が、谷川先生の書かれた原稿(それは「千葉の地名に関するクイズ」)を読み上げ、そのクイズの解答を視聴者に聞くという形式で進行した。そのクイズの内容がとてもよく出来たもので(谷川先生の地名に関する歴史的,民俗学的知識が散りばめられている)、そこに3名の登壇者の話も挟さみながらの、興味深い内容だった。最後に、会場から出された難しい地名(漢字)の読み方を、谷川先生が当てるというものがあり、谷川先生の博学ぶり健在ぶりが示されてた。中身の濃い部会(セッション)で、時間が経つのがあっという間で、聴きに来てよかったと思った。谷川先生は筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病で体が不自由というお話をお聞きしてたが、車いすの谷川先生は、顔色もよく、自分からの発言は障碍者用のPCを通してだが、他の人の声は難なく聴けるようで、終止にこやかで、健在ぶりを確認することができた。献身的で素敵な奥様がいつも傍についていらっしゃり、また他に介護の方も2名いてそれが谷川チームという説明であった。谷川先生の普段使われている障害者用のpcの説明が奥様の方からあり、普通のワードなどとは違い、ひらがなの50音から2段階でひらがなを選んで、それから漢字変換をする仕組みで、普通のワードの10倍以上の時間がかかるとのこと。谷川先生はそれに1日10時間近く向き合い、10ページのニュースレターを打ち込むのに2週間はかかるとのことだった。

 谷川先生が、ニュースレターの最新号(2024.1.18)に、「これまでたくさんの著作を世に問うてきましたが、直接的には学者として作家として少しでも大きな成果を残したいという思いでやってきたものです。しかし、ALS宣告以降の著作は明らかに違う意図で書くようになりました。ALSという難病にめげずに執筆を続けることが、周りの人々に生きる勇気と元気を与えているかもしれないと考えるようになったからです」(NO69.p.6)と書かれてる。先生のご著書やニュースレターに、先生の多くの時間の労力と思いが込められていると思うと、その言葉と内容の重みが伝わってくる(先生はASL発病後、6冊の本を出版されていて、もうすぐ7冊目が出るとのこと)。先生は難病にめげずに執筆を続けて、このような会に登壇される姿は、多くの人に生きる励ましと元気を確実に与えていると感じた。

「推し」の時代

「推し」に関して、以前に宇佐美リン『推し、燃ゆ』の言葉を引用して、片思いや人との距離のことを書いたことがある(2021年3月6日、7月23日)。評論家の中森明夫氏に対する「推し」に関する朝日新聞のインタビュー記事では、別の側面(利他的, 未来志向、仮想空間、)を指摘している。一部を転載する。

<応援するアイドルやキャラクターを指す「推し」という言葉を様々な場所で聞く。老いも若きも「推し活」にいそしむ時代だ。/「選抜総選挙」(2009~18年)が社会現象になったAKB48のファンの間でしきりに使われたことが大きい。アイドルを応援することがカジュアル化した。/  推す主体はファン側にありながら、フォーカスが当たるのは推されるアイドル側。ファン側を指すおたくやマニアとはそこも違う。/ (2010年代のアイドル、AKB48や乃木坂46は)、歌詞の中では、一人称の「僕」が多用される。アイドルが男性ファンの視点から歌う「仮想空間」では一体化し、同じ方向を向いている。現在のアイドルシーンにおいては、ファンは推しの背後に回って、相手の推進力になりたい、という。/ 「自分ではない何か」のために活動することが自分の生きがいになるというムードが出てきている。利己的な時代から利他的な時代になってきている。/大変な状況に置かれているからこそ、人を助けたい、あるいは、人を助けることで自分が生きられる、ということがある。/ さらに、推しを持つからこそ、大事なこともある。それは想像力。推しとファンが一体化できるのは、仮想空間においてだ。/自分がいなくなっても推しにもっとよくなって欲しいと思う。推しを持つことは、未来につながること(になる)>(朝日新聞朝刊2024年1月17日)