「空気を読む」ということ

「KY」というのは「(その場の)空気を読めない人」という意味で、空気を読めない人を非難する言葉だと思うが、逆に「空気を読む人」もあまり褒められることはない。「周囲の意向ばかり気にして主体的に自分で考え行動することのできない人」という非難が浴びせられるであろう。

内田樹の最近のブログの「『適当』について」(blog.tatsuru.com/2019/05/19_0956.html)を読んで、「空気を読む」ということは、そんなに非難されるべきことではないのかもしれないと思った。該当(と思われる)の箇所を抜き出しておく。

<武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。能のシテも同じです。地謡や、囃子方や、お相手をするワキ方や、作り物や、装束や面や、所作や道順や、演じている役など、様々なものによってその動きが制約されている。その所与の環境の中で、最適解を選ぶことを求められる。いつ、どの位置にいて、どういう所作をして、どういう声で、どういう言葉を発すべきか。そこには必然性がなければいけない。(中略) ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。これを武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。これは柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。>

宿泊のホテルについて

旅行の楽しみの一つは、どのような素敵な(快適な)ホテルに泊まるかにある、という人も多いであろう。 私も宿泊のホテルが、清潔でなかったり、朝食が美味しくなかったりすると、その旅行の楽しみ半減してしまうように思う。 ただ、ホテルの素敵さ・快適さは、値段に比例するようなところがあり、(貧乏な)私は、あまり高くを望まないし望めない。ホテルは寝るだけなのだから、寝れさえできればよく、なるべく安いところに泊まろうと、つい(貧乏くさく)考えてしまう。

昨年京都で開かれた学会に参加した時、知り合いが探してくれたホテルは、京都駅前にあり、新しく出来たばかりで、清潔で、機能的で、スタッフの感じもよく、大浴場がついていて、朝食のバイキングも美味しく、シングルの部屋もゆったりとしていた。(本当はいけないのかもしれないが)飲み会の2次会を7人が参加して部屋で開けたほどで、とてもよかった。値段は1泊12000円。

大阪には、外国人の旅行者も泊まる、安く快適なホテルがあるという。それを卒業生が教えてくれた。彼も今泊まっているという。1泊1000円とは驚きである。

<あの辛口大阪DEEP案内(東京DEEP案内の元サイト)が「認識を改めざるを得ない」と書くくらい、西成(釜ヶ崎)は変わっていますね。http://gigazine.net/news/20120616-nisinari-hotel/、 https://osakadeep.info/nishinari-kamagasaki-for-backpackers/       こちらは、朝7時からチェックインできて(チェックアウトは翌日の10時)、露天風呂に入れて、令和記念で1泊1000円。今、泊まっていますが。https://www.junon-hotels.com/sunplaza/>


5月の平日の過ごし方(その2)-授業の記録

私の場合毎日が日曜日で、どこかに遊びに出かけたり、テニスや卓球をばかりしているわけではない。たまには(?)、読書もし、教壇に立つこともある

昨日(17日)は、午前中は大学の紀要・報告書を2冊読む。それの編者の有本章先生は私より年上にもかかわらず、現在も兵庫大学の高等教育センターに専任教授として勤めておられる。この3月に290頁と230頁の大冊の紀要、報告書を有本編で出され、多くのページをご自身で執筆されている。そのエネルギーと学問的意欲に敬服する。大学生、短大生、高校生、大学教員に対して調査をして、そこから「学士課程教育の質保証に関する研究Ⅱ」をまとめた調査報告は、我々の過去の大学生調査とも問題意識や知見が重なるところがあり、真剣に目を通した。

午後は、週1回の敬愛大学の「教育原論」の授業にでかける。受講者は、教育こども学科の1年生43名。欠席は2名で、出席率95% (近頃の学生の授業出席率は本当に高い)。                               今回のテーマは、「学校について(その2)」。テキストは高野良子・武内清編『教育の基礎と展開』学文社、2版を使っている。A3で5頁(A4で10ページ)の資料を配り(添付参照)、下記のようなリアクションを書かせる形で、授業をすすめた。                                  金曜日の5時間目という学生も1週間の疲れが溜まっているであろう時に、私の一方的な講義形式の授業にも関わらず、静かに説明を聞き、大量の資料を読み、リアクションにきちんと答えてくれる多くの学生に、こちらが感謝する気持ちになる。敬愛の教育こども学科の学生は、将来小学校教師を目指しており、教員免許を修得し、教員採用試験に受かるという目標に明確に持っており、授業に真面目に取り組む学生が多い。                            授業が終わってから学生と雑談していたら「先生の授業が一番楽しい」と言ってくれる女子学生がいて、理由を聞くと、「だって、この授業が終わると1週間の授業が全て終わり休みになるんだもの」という答えが返ってきた。「先生のような教師になりたい」とも言われたが、その理由はわからない(私が大学教師より小学校教師に向いているということなのであろうか?)。                             「学生って可愛い」という江藤淳の『アメリカと私』(講談社、1969,150頁)のフレーズが頭をよぎった。それは半世紀前、江藤が30歳代前半の時に、アメリカの女子学生に対して感じたことなのであるが。

教育原論リアクション(5月17日) 学校について(その2)                             1 前回リアクション(5月10日)を読んでの感想                                  2 教育はなぜ法律によって規制されるのか。どのような教育法があるのか(テキストp53-57参照)                                                             3 日本国憲法で、教育はどのように定めているのか(テキストp55-56)                                     4 2006年に改正された「教育基本法」の特徴は何か。(テキストp56、p179‐180、プリリントA)                                                                                                    5 官僚制の特徴を挙げなさい。官僚制としての学校の特質を挙げなさい。(プリントB前)                                 6 学校の非官僚制的な特質(官僚制の限界)を挙げなさい(プリントB 後半)                                                                          7 学校に行かず、家庭で学習するホームスクーリングを、法律的に認めてはどうか(プリントC参照)                                  8 上記に関する回答(記載)に関して、他の人に見てもらい、コメントをもらう。

5月の平日の過ごし方

天気も良かったので、八千代市(自宅から車で30分)にある京成バラ園(www.keiseirose.co.jp/garden/にバラの花を見に行く。5分咲きとのことだが、1600種10000株のバラが絢爛豪華に咲いていた。花の美しさに、見る人が負けている感じがする。あまりに多くのバラにどのように写真を撮っていいのか迷う。1株気に入った品種の蔓バラを買った。うまく育てられるかわからない

午後はテニス仲間3人と、近くのマンションの脇のテニスコートで、ダブルスの試合を楽しむ。久しぶりのテニスに私のミスが多く(特に肝心の時のボレー)、皆に迷惑をかけたが、やはりテニスは楽しい。テニスは練習より試合の方が楽しい(卓球は試合より練習の方が楽しい―もちろんこれは私の場合)


天皇制存続と憲法9条はバーター?


天皇制や憲法9条について、加藤典洋『九条入門』(創元社)の内容を内田樹が紹介している文章(blog.tatsuru.com/2019/05/03_1323.html)を読んで、このような見方があるのかと驚いた。これは歴史的な見方なのであろうか、それとも文芸的あるいは社会学的な見方なのであろうか。また教育現場ではこの歴史をどのように教えてるのであろうか。内田氏のブログの一部を転載しておく。

<天皇制の存続は戦争末期においてアメリカではほとんど論外の事案だった。1945年6月29日(終戦の6週間前)のギャラップによる世論調査では、天皇の処遇をめぐって、アメリカ市民の33%が処刑、37%が「裁判にかける・終身刑・追放」に賛成で、「不問に付す・傀儡として利用する」と回答したものは7%に過ぎなかった。そのような世論の中でGHQによる日本占領は始まった。法理的には、日本国憲法を制定する権限はGHQではなく、それより上位にある極東諮問委員会の11カ国である。メンバーの中では、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンが天皇制の存続につよい警戒心を示していた(中略)日本では極東委員会もアメリカ国務省も知らないうちに1946年3月6日に天皇制の存続と戦争放棄という驚嘆すべき条項をもつ「日本政府案」(起草したのはGHQ)が発表された。なぜマッカーサーは憲法起草をこれほど急いだのか?加藤典洋によると理由はきわめて実利的なものである。天皇制を利用すると占領コストが劇的に軽減することが確かだったから。天皇制を廃したり、天皇の戦争責任を裁判で追及した場合には、絶望した一部の日本軍兵士が占領軍に敵対し、多数米軍兵士の長期駐留が必要になる可能性があった。1946年2月時点でのマッカーサーは天皇制を梃子に国内秩序を完全にコントロールすることと、アメリカ国内向けには「天皇制があっても、日本の軍国主義は決して復活しない」と保証することという二つの要請を同時的に応えるというアクロバシーを演じる必要があった。そのときにマッカーサーに訪れたのが「戦争放棄」というアイディアであった。天皇を免罪するけれども、天皇の存在が世界の平和を脅かすリスクになる可能性はゼロである。なぜなら、日本は戦争を放棄するからである。天皇の免罪という「非常識な」政策を正当化するためには、それに釣り合うほどに「非常識」な政策によって、均衡をとる必要があった。「天皇制は残す」という決定を呑み込ませるためには、「極端な戦争放棄条項」、すなわち個別的自衛権すら放棄するという条項を憲法に書き入れるしか手立てがなかったのである。憲法九条二項は憲法一条と「バーター」で制定された。

一昨日(5月8日)の朝日新聞に載った江藤祥平氏の9条論も、この加藤の解釈の延長線上にあるように思う。(虚構”だからこそ引き受ける 江藤祥平(憲法学者)                                    <憲法9条の存在自体には意味があったと私は考えます。軍拡を抑え、軍事力で問題を解決しようとしない日本の基本姿勢は、国際社会の信頼を得てきました。真剣に受け止めるなら、戦争より覚悟が必要になります。9条がこうしてある意味で常軌を逸しつつ、歴史の一歩先を行く性格を帯びた背景には、多大な犠牲者を生んだ先の大戦の経験があります。倫理の側面から見れば、弱き者たちから叫ばれた「殺すなかれ」という要求を受けとめたものとも言えるでしょう。9条の理想を追求する日本国民という物語は、それが虚構であるからこそ、引き受ける覚悟がなければ成り立ちません。あえて9条という宿命に賭ける覚悟です。>

(一方、江藤淳のように、このような憲法9条の戦後日本の虚構=欺瞞が、戦後日本の腐敗を蔓延させたという見方をする人もいる。)