「教育原論」第7回(5月31日)の授業内容とリアクション

まず、テキスト『教育の基礎と展開』(高野・武内編著、学文社、2016)の2章の前半部分(p10〜16)に目を通してほしいと思います。本学の中山幸夫教授が、西洋の代表的な教育思想家7人に関し。的確な解説を書かれています。私なりにその要点を書き出せば、下記のようになります。

教育思想とは、教育について考えられたことを体系化したもの。それは人間観に基礎づけられている。西洋の人の代表的な7人の教育思想に関して、その思想家の生い立ちや経歴も含めて説明する(以下は、テキストよりその教育思想の内容の核心部分のみピックアップ)

ルソー(1712〜1778年)-人間の本性を押さえつけず、人間の本性に従った教育のあり方を説く新しい人間観(子ども観)を誕生させた。主著『エミール』では、子どもには固有の活動がある、子どもには自ら成長発達しようとする内在的な能力が備わっている、として、内なる自然に従って教育を行うべきことを説いた。/ペスタロッチ(1746〜1827年)-貧しい民衆を救済するための拠り所を教育に求めた。『隠者の夕暮れ』が有名。/フレーベル(1782-1852)-幼児教育の重要性に注目。幼児の遊び道具として「恩物」を考案・制作した。フレーベル幼稚園は、彼の教育思想と理論の実践の場であった。/モンテッソーリ(1870〜1952年)-感覚訓練の為の教具を考察。幼児期の「敏感期」に注目。モンテッソーリ・メソッドを考案。/コメニュウス(1592〜1670年)-近代公教育制度の元を作る。すべての子どもたちが貧富の別なく入学・進学できる学校体系の提案。『大教授学』が主著。/コンドルセ(1743〜1794年)-フランス革命の自由、平等、博愛の精神で、公教育の政治や宗教的権力からの独立性を提起。学校分布の平等性など、近代学校制度の元を作る。/デュ―イ(1859〜1952)―学校は「小さな共同社会」。伝統的な一斉授業中心の学校教育を作業中心の活動的な学習の場に変える。問題解決と自己実現を目指し、成人社会における民主主義を尊重するような教育をめざす。主著『民主主義と教育』。

配布したプリントを読んで現代に至る代表的な教育思想家の思想内容を読み取ってほしいと思います。さらに、もう一枚のプリントを読んで西洋の教育思想家の生きた時代の一覧表を作ってほしいと思います。

教育原論リアクション(第7回、2019年5月31日) 教育思想

1 前回リアクション(5月24日)を読んでの感想 /2 主な教育思想家の考えと著作(誰か2人を選んで)/3 教育思想家の生きた年代を図示しなさい。4 他の人からコメントをもらう。

敵視の相互依存について

漠然と感じていることを、明確な言葉や見方で指摘されることがある。それは、人との会話であったり、ブログであったり、新聞記事であったり、本であったりする。それは知らず知らずのうちに囚われている思考様式に反省を促すものである。

週刊誌やネットのツイッターで、誰かを悪者にして叩くのは、人々の繋がりを強めストレス解消になるように思うが、それは、クラスなどで、特定のひとりの子をからかい、皆でつながりを強め学校生活のストレスを解消する「いじめ」と同一の心理で、やってはいけないことのように思う。悪者に仕立てあげられる人は、有名人であったり権力者で少し間違いを起こした人がなることが多く、つい罪悪感がなく同調してしまうが、「いじめ」には変わりない。――そのようなことを、下記の新聞記事を読んで思った(一部転載)

「我々が暮らす今の社会では、個人を識別するデータに基づいた監視と管理が想定以上の速度で進んでいる」「現在の情報監視は、国家による直接的な情報取得よりも、利便性や経済的利得のために人々が進んで自らの個人情報を提供することで成立している」「社会的な流動性が高まり監視社会化が進むと、個人が選択を行う際に社会的規範よりも他者からの承認が優先されるというのが監視社会論の要諦だ。人々は他者からの承認目的で共通の「敵」を見つけ、「みずからの敵視の妥当性を他者の賛意に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作り出す」「「監視カメラ」は「ツイッター炎上」や「メディアの偏向報道」、「フィルターバブル(ネットで自分が見たい情報しか表示されなくなる現象)」など、様々なものに置き換え可能だ。「現在の「超監視社会」においては、自らの承認のために一時的な仲間をつくり、敵を攻撃することでしか不安定な自己の安定をはかることができない。イデオロギーや規範よりも、敵視の相互依存が勝る社会では、手近な安心感を相互に得ようとする自己撞着(どうちゃく)的な勢力が最も力を持つ。」(津田大介 「超監視社会」朝日新聞5月30日,朝刊) \

「教育原論」(第6回)の授業の記録、まとめ、補足

第6回の授業(5月24日)では、「学校について考える」(その3)と題して、不登校、いじめ、ホームスクーリングについて話し、皆さんにもグループ議論してもらいました。               なぜそれらのことが学校と関連しているかというと、現代の学校が規則に縛られ官僚制化していくと、学校組織・学級集団の特質や子どものストレスからいじめが蔓延化し、学校に合わない子どもが出てきて、不登校になったり、そんな学校に行くより家庭で子どもを育てた方がいいのではないかという考えも出てきます。(ホームスクーリング)。学校に行きいじめに会い、自殺に追い込まれるくらいなら、学校を休み、ホームスクーリングで学んだりした方がいいように思います。このように、不登校、いじめ、ホームスクーリングは、学校のありかたと関連しています。

不登校(登校拒否)に関しては、文部科学省(文部省)の考え方も平成4年を境に変わってきました(沢崎参照)。文部省は不登校(登校拒否)の原因は家庭や本人だけにあるのではなく、学校にもあると認めました。そしてそれに基づいた対策が模索されています。

いじめに関しては、いまだ原因がよくわからず、見当はずれの対策ばかり取られています。いじめは定義が難しいという話をしました。現在は、いじめの被害者の苦痛にもとづいた心理的な定義が優位(文部科学省も)で、それは加害者の言い逃れを防ぐ優れた定義ですが、同時にあいまいで、冤罪が起こる可能性もあります。森田洋司のいじめの4層構造(加害者、被害者、観衆、傍観者)の話をして、集団の反作用が大事という話をしました。いじめは、閉鎖的で半親密な集団で起きる可能性が高いので、そのような特質を持つ学級がその温床になっています。学級集団の改善が必要です。いじめ自殺を防ぐためには、「学校に行きいじめにあうくらいなら、不登校になりなさい」という裁判所の判例もある(山本雄二)という話をしました。

このように、いじめ、不登校、ホームスクーリングは、今の学校のありかたとも関連していますので、教師を目指す皆さんも、いろいろ根本的なところから考えてほしいと思いました。(以下、当日の配布資料再掲)

性別役割分業意識の今

子どもを産んで仕事を辞め家事と育児に専念する妻に、夫が「私も家事と育児を手伝う」と言ったのに対して、妻が切れて怒り、「男と女(夫と妻)は対等(平等)ではないの、家事と育児は女(妻)のやるべきものという考えに基づいたあなたの『手伝う』という発言にむかつく」というようなことがたくさん書かれている韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が、韓国でベストセラーになっていて、それが日本語に翻訳され、日本の女性の中にも共感して読む人が多い、という内容の放送が、NHKの朝の番組であった。            
ジェンダーの平等とか男女共同参画という趣旨の報道だと思うが、少し古い感じがした。

 昔上智大学の教育学科の男子学生に将来の夢を聞いたところ、「子どもが好きなので、家庭で子育てができる専業主夫になりたい」と本気で答える男子学生がクラスで2~3人はいた。                       最近も、大企業で働くエリートサラリーマンで、生まれたばかりの自分の子どもと過ごす時間が至福の時と感じ、「いつも子どもといられる専業主婦のあなた(妻)はずるい、あと何年かしたら、私が家事と育児をするから、その時はあなたが働いてほしい」と夫から言われた女性がいるという話を聞いた。                                                   仕事と家事・育児のどちらがやりたいことなのかは、性別によらず個人で違うのが今(近代以降)の傾向なのではないか。

スポーツの上達について

どんなスポーツもライバルや見知らぬ相手と試合をして自分の腕を試した方が、上手になることであろう。試合があれば、それの勝利を目指して日頃の練習にも力が入る。そのようなことはわかっているのだが、私の齢だと上達するということはあまり望めず、対外的な試合に出ることはない。                                    

卓球はたくさん対外試合があるようで、卓球仲間はよくそれに出て腕を磨いている。ただ卓球の試合に勝つには、巧妙なサーブや相手がミスを誘うような打球を打つ必要があるように思う。それは私にはあまりフェアではないような気がする。もっと卓球も真っ向勝負すべきだと思う(野球のピッチャーのストレートの剛速球と打者の対決のように)。それで私は卓球の練習では、フォアで相手と早く強い球を打ち合い、どちらが力勝ち(負け)をするかを試すのが好きである。                                  

テニスの場合は、私に相手の剛速球をうち返す力がなく、つい高い球(トス)や短い球(スライス)で相手のいないところに打ってしまうので、(真っ向勝負など)偉そうなことは言えないのだが。