概論が先か、具体的な事例が先か-第10回 教育基本法

大学の授業で、最初に概論的ないし理論的な話をして、その後で各論的ないし具体的な話をした方がいいのか、あるいはその逆に最初に各論・具体的な話をして、後から全体的・理論的な話をした方がいいのか、迷うところである。

一般には、教師の考えは前者であろう。すなわち概論・理論が先、各論・具体が後のような気がする。しかし、学生にとって、前半の概論・理論の話は面白くなく、理解できす前半でその授業自体を聞く気をなくし、後半の各論・具体的な話の頃は耳を傾けなくなっているのではないか。それならば、最初に各論・具体例で、学生に興味を持たせ他方がいい。

そのようなことを感じたのは、「教育原論」の授業で、「教育基本法」のことを取り扱った時のことである。「教育基本法」は、日本の教育のあり方の理念や教育目標に関して、網羅的に述べられたもので、その後の具体的な教育実践の指針となるものである。教育のさまざまな具体的な事象が、この教育基本法の文言から発している(音楽で日本のわらべ歌が多く取り上げられるようになったのは基本法で愛国心が強調されたてからである等)。

したがって、「教育原論」のように教育の基本の話をするのであれば、まず「教育基本法」の話からすべきであろう。今回私は「教育基本法」のことを説明したのは、15回の授業の中の10回目である。それ以前に、家庭教育や潜在的カリキュラムやいじめ問題等の具体的な教育問題を取り上げている。その後、「教育基本法」を読んでもらうと、学生たちはそれ以前に学び考えた教育問題を、教育の全体像の中に位置けていることを、学生のコメントから感じることができた。(下記に一部転載、一部添付)(講義資料は添付)

<教育とは学校教育だけでなく、家庭や宗教などの様々な教育があるということを改めて実感した。これは、子どもは学校だけでなく家族や地域の方など沢山の周りの支援があってこそ良い教育を受けられるということなのだと感じた。多くのことが書かれている中、私は教育の目的及び理念第2条の「個人の価値を尊重して、その能力をのばし、創造性を培い、自主および自律の精神を養う」というところに興味を持った。生きていく中では、様々な場面で個人の価値を尊重することは大切になる。そして学校教育ではその基盤を形成する時期であり、そこで間違った道に進んでしまえば基盤もぶれてしまう。だが、教員はひとりで何十人もの児童を相手にしなければならないので、ひとりひとりの人格の基礎を築くことはとても大変である。よって大切なのは児童の周りの大人であり、特に家族にとって我が子の正しい人格形成は義務のようなものなのではないかと思う。しかし、そこで親の理想を押し付けてしまったり、過保護になりすぎたりしてしまうと、教育に悪影響を及ぼしてしまう。よって、親や地域の方にもしっかり教育基本法の内容に目を通し、一丸となって子どもを立派な大人にする社会が望ましいと考える。そして、教員としてできることは、時間の許す限りひとりひとりと向き合い、いじめのない環境を目指すことだと思う。成績の面でもパーソナリティーの面でも、家族の次に大きな影響を与えるのは教員である。しかし、前回の授業でいじめの酷さを知り、どうすればいじめのない夢のような教育環境を作ることができるだろうと今はそれを考えるばかりである。>

<私が教育基本法について関心を持ったところは、第一章「教育の目的及び理念」の中の第二条です。理由は、小学校や中学校の頃を思い出すと一から五までをきちんと体験していたなと感じたからです。1つ目の項目の幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を養うこと。と書いてありますが、国語や算数を初めとする基礎知識を身に付け語彙などを増やしていき、道徳では映像やプリントの配布が行われて誰かの心情を考えてみたり、意見を交換したりして相手の気持ちや意見を受け入れたりすることなどをしました。この体験が1つ目の項目に当たると考えます。2つ目の項目のところでは、地域のお店をインタビューして新聞を作ったり、中学では職業体験をしたりして職業についての理解を深めることで自分が将来なりたい職業や仕事の大変さなどを学んだなと思い出しました。こうして振り返ると先生方は私たちの未来のために懸命に取り組んでくださっていると改めて感じました。そして、この教育基本法がなければ平等な学力の水準が保たれないことを改めて強く感じたので自分が教員になった際には、子どもたちの未来の形成のためにきちんと教育基本法に沿った指導ができるように勉学に励みたいと思いました。>

もう7月ーもうすぐ七夕

歳をとってくると季節感も薄れてくるが、幼稚園など幼児のいるところでは、日本の年中行事がまだ生きている。もうすぐ7月7日の七夕祭り。5歳の幼稚園児が七夕の短冊に書く言葉を考えていた。母親に「K坊の願いは何?」と聞かれ、「死にたくない、永く生きたい」と答えていた(きっとゲーム好きなので、そこから出てきた願い)。「じゃぁ 短冊に書くのは『ふじみ(不死身)になりたい』がいいじゃない」ということで、5歳児は短冊に「ふじみになりたい」と書いて幼稚園に持っていった(先生や友達から「ふじみ、って、なあに?」と聞かれたらしい)

「七夕ってなあに?」と5歳児に聞かれた時に備え、その由来をネットで調べた。(https://omatsurijapan.com/blog/tanabata-family/ )

「五節句の一つ。天の川の両脇にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、七月七日の 夜、星を祭る年中行事。中国由来の乞巧奠(きこうでん)の風習と日本の神を待つ「たなばたつ め」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。 庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫の上達を祈る。」(広辞苑)

「七夕は、昔、中国から日本に伝わった星祭りです。ひこ星と、織りひめという男女の星が、天の川をはさんで向かい合っていて、この2つの星が、1年に1度、7月7日にだけ会えるという言い伝えから、祭りが始まりました。」「“はた織りが上手な神様の娘『おり姫』と働き者の牛飼いである『ひこ星』は、神様の引き合わせで結婚し仲良く過ごしていましたが、楽しさのあまり仕事をせずに遊んでばかり。激怒した神様は天の川の両端に引き離してしまいましたが、悲しさのあまり元気をなくした2人を見かね、7月7日を年に1度だけ会える日として許しました。”」「夏の夜、8時ごろに東の空を見上げると、3つの明るい星が見られる。それらの星を線で結ぶと大きな三角形ができる。これを「夏の大三角」という。(中略)ベガは織りひめ、アルタイルはひこ星にあたる。これらの星は7月7日ごろにいちばんよく見えることから、七夕の言い伝えが始まった」(21世紀こども百科、小学館)

次いでに、七夕の曲「天の川」(作詞・作曲:AO AKUA、編曲:江藤雅樹、写真提供:安藤信作 、映画「REASON of LIFE」・監督:神田裕司2017年、挿入歌)を再掲しておく。コロナ禍で心が荒れている今、この歌と写真は癒しになるであろう。 その歌詞は下記(現世と来世が円となってて 廻り巡って 縁で運命の人と巡り合う というメッセージ)

くるり ゆらり 
まわりゆく / ひらり はらり 
舞い散る花 
 / 春の夢に包まれて 
/ ほのか朝ぼらけ / 旅人は縁の中 巡り歌う 
/ 睡蓮の花飾り 置けば道しるべ -/ ほろり きらり 頬伝う 
/ 祈り灯り 笹舟に 
/ 二人共にカササギの  / 渡せる橋を渡る / 旅人は縁の中 巡り詠う 
/ 短冊を星空が 照らし 願ひ 満つ 
/ 青く 淡く 赤く 熱く 遥か 遍く / 引き合い 燃え尽きぬ炎よ / ほろりきらり 頬伝う 
/ 祈り灯り 笹舟に /二人共にカササギの  
渡せる橋を渡る 
/ 祈り 灯りゆく  (AO AKUA  天の川)

教育原論 第8,9回 いじめ

敬愛の教育原論第8回・9回は学校におけるいじめ問題を扱った。資料としては、①文部科学省の白書のいじめの箇所(定義)、②森田洋司の「いじめの4層構造」、③大河内君のいじめ自殺とその遺書などである。将来教員を目指すものが多い敬愛大学の教育こども学科の学生は、いじめやいじめられの経験は少ないものの、いじめ事件、とりわけ大河内君などの酷いいじめ事件などを知ると心を痛め、教師のいじめ防止への役割の重要性を再認識する。

<私は今までいじめたりいじめられたり、また観衆や傍観者になったこともない。それは小学校の時に道徳やピアサポートの授業で「いじめはいけないものだ」と強く言い聞かされていたからである。いじめに直面した経験がないため、大河内君の遺書や、それに対する学校側の対応を読み、こんなにも酷いいじめが中学生ないしは小学生にも起こっていることに驚き、それと同時に怒りを覚えた。優しい家族がいながらも相談できないほど怯えて生活していたことや、遺書の中で被害者である大河内君が何度も謝っていることなど、読んでいて胸が痛くなった。いじめていた側はお金を巻き上げることや、川で溺れさせるなど、もはやいじめの枠では収まらない犯罪行為をしている。それを止められる人は絶対にいたはずである。それが森田洋司さんの「いじめの四層構造論」にあるような観衆と傍観者だと思う。いじめを止めたら自分が標的になってしまうのではないかという恐怖心があるとよく聞くが、そんな考え方を覆せるのが教育だと思う。私は小学校で「いじめに関わる人は加害者・被害者・盛り上げる人・見て見ぬふりをする人がいる」と習い、いじめに直接かかわっていなくても加害者だという認識を持っていた。それは私だけでなくクラス全体がいじめはダメだと理解していたと思う。そのように学校での教育によっていじめに対する考え方は決まってくると思う。また、「いじめられて死ぬのは甘えだ」といった意見があるが、それには全く同意できない。いじめは人を傷つける行為であってしてはいけないという考えを理解していればいじめが起こることはない。仮に起こったとしても、いじめはいけないことと理解している人が多ければ観衆は盛り上がらず、傍観者はいじめ反対者になり、止めることだってできる。また、被害者の味方が増えることで助けを求められて死を防ぐことだってできる。このような考えから、「いじめの四層構造論」の、いじめが盛り上がるのか、収まるのかは観衆と傍観者で決まるという意見に同感する。>(H)

梅雨の一休みー教育原論第7回 課題

遠隔授業で、毎回資料を大量に読んでコメントを書くことを学生に課しているので、ここで一休みで、「自分の好きなことを書きなさい」という課題を、第7回は出した。梅雨の一休みである.

このようなことをする理由付けは、梅雨の一休みの他に、次のように書いた。つまり「特別の教科「道徳」の4領域のひとつに『自分自身に関すること』があり、その中に「自分の特徴に気付き、よい所を伸ばす」(小学校3~6年生)」という項目(徳目)があります。それと関連することです。」「これは、好きな作家や本、あるいは好きな歌手や歌に内容を通して、自分の好きなものや価値観を考えるということで、それは、『自分の特徴に気付く』ということ(道徳項目)に通じるものです」として、「自分の好きなこと あるいは好きな本、あるいは好きな歌について考え、それを報告してください」とした。参考資料として、以前敬愛のゼミの2年生が「自分の好きなこと」を話してくれた記録(HP;2015年6月11日)と、歌の分析(添付参照)も配信した。

 65名の回答(コメント)があったが、その内容は、歌手やアイドルグループ、スポーツ、映画、ゲーム、本、アルバイト、you tube など多岐に渡っている。その内容から、今の若者(大学生)の好み(志向)の一端が伺い知れる。私の知らない分野も多く、多くのことを学んだ。その一部を、下記に添付する。

狩猟について

あまり深くは考えないことがある。たとえば、病気や死ことは、少しは考えるが、深く考えることはしない。また私が深く考えることを避けていることに,食のことがある。具体的には、命ある動物を食べることはいいことなのかということである。私はベジタリアンでないので、鳥や牛や豚の肉、あるいは魚を普段食べているわけであるが、それらの動物の命を奪っていることに関しては深くは考えないようにしている。それを考えると、肉や魚を食べられない。

今から40年くらい前の昔のことを、今でも時々思い出す。大学の助手をしていた時、研究室の松原治郎先生のお供で、富山県の教育委員会の依頼で、先輩や院生らと富山県の教育計画の基礎データを調べに行ったことがある。その打ち上げで県の教員委員会の人が、我々に高級な料理をご馳走してくれた。その時に出た料理が「ヒラメの生け作り」であった。少し前まで料亭の水槽で泳いでいたヒラメを料理して、生きた姿のまま刺身として出す高級料理であった。ヒラメの身を箸で突っつくと、ぴくぴくと動いた。皆は美味しいと言って食べたが、私は、ヒラメの痛みを感じ、食べることができなかった。そしてその後も2~3か月は白身の魚は食べることができなかった。

小学校のクラスで豚を飼い(飼育し)、そのクラスが解散する時、その豚をどうするか(食肉業者に渡すかどうか)を、議論するような実践(映画?)が昔あった(https://ja.wikipedia.org/wiki/ブタがいた教室))。そのようなことを小学生に考えさせるのは、残酷なことだと私は思った。

食育の教育で、動物など生きたものの生命を食する時は、生きものの命をもらうことへの深い感謝を持ち、命を粗末にせず残さず食べるということが大切、というようなことが言われているような気がするが(きちんと調べたわけではないので、正確にはわからない)。人間の都合で、動物の命を奪って食べ、感謝するなど、私は欺瞞的なような気がする。したがって、このことは、深く考えないようにしている。

今年の大学入試センター試験の国語の問題にも出た河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』(筑摩書房、2014)を読んでいたら、狩猟のことが書かれている箇所があり、この食の問題への1つの切り口になるように感じた。また、狩猟は、その狩の場に溶け込むことが大事と書いてあり、人が何かを判断する時の有効な方法であることも知った。

狩猟は、農耕とは違い、定住せず、手つかずの自然(wilderness)に分け入って、動物を追い、食うか食われるかの戦いをひろげることだという。人間は猟に敗れ、動物(たとえば熊)に襲われ食べられてしまうこともあるという。狩猟は「飼育」とは違い、動物を殺すか自分(人間)が殺されるか対等な立場にある戦いであるという。生きるためには、相手を殺さざるを得ず、食うか食われるかの戦いが狩猟である。(動物との対等の)戦いであるのなら、「飼育」のような後ろめたさはない。殺して食べることはできるかもしれない、あるいは殺されても諦めがつく)。

もう一つ感心したのは、狩猟はその狩の場に身を潜め、その場の全体状況を把握し感じ、時が来れば一気に行動を起こすこと必要があるという。農耕のように先を見こして計画してことを運ぶのでない。狩猟のように、全体の場の空気を読むというのは、受け身ではなく、ものごとをなす重要なことということ知った。上記のようなことが書かれた河野の著書の箇所を、少し転載しておく。

「狩猟者は『食べる―食べられる』関係によって自己を自然の一部と感じる。獲物を取るために、環境に同化し、獲物の行動を模倣する。(中略)狩猟者は、自然と覚醒的に一体化し、その変化と流転を感知する。(中略)周囲環境に溶け込まねば、獲物に自分の存在を発見され、逃げられてしまう。」(84-5頁)。「猟とは人間が食料を得るという目的のために、ウイルダネスで動物と対峙する行為である」(85頁)。「猟の獲物とは、人間以上の運動性能を持ち、稀少であるような動物である。猟は、高度な生命を自分の生命の資源として、その魅惑的な生命に死をもたらす」(86頁)。「獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならない」(87頁)。「猟は獲物を食べるために捕る。獲った動物を食べるのは、道徳的責務ですらある。殺した獲物を食べないのでは、獲物も狩猟者も生の意味を失うからだ。しかし食べられるのは動物の方とは限らない。相手がクマのような肉食獣であれば、人間が逆に獲物になる可能性もある」(90頁)。「狩猟者の志向性は、志向のない志向性である。それは環境の全変化への知覚である。獲物に変身し、周囲自然に同化した身体による志向性のない知覚と、解釈しない志向性、これが狩猟者の意識である。志向性のない志向性とは、存在に一切の意味を付与しないでいる。純粋な存在との邂逅としての志向性である。これがウイルダネスでの猟する意識である」(97頁)(河野哲也『境界の現象学』筑摩書房、2014)