村上春樹『猫を棄てる』を読む

村上春樹の話題の近著『猫を棄てる』(文芸春秋、2020.4)を読んだ。いつもの分厚い小説とは違い、101ページの短いエッセイ、それも自分の父親のこと書いたものという、小説家村上春樹にしては異例なもので、少し驚いた。

村上春樹の父親は大正6年(1911年)京都の浄土宗の僧侶の家に生まれで、1933年20歳の時徴兵され、中国大陸の戦線に参加している。運よく戦死を免れ日本に帰り、京都帝国大学文学部文学科に入学し、俳句を嗜み、卒業後,甲陽学院の国語教師として勤務し、90歳で亡くなっている(母親も国語教師、96歳で存命)。村上春樹は、若くして結婚してから父との関係は疎遠になり、絶縁に近い状態で20年以上まったく顔を合わせていない。父が90歳で亡くなる少し前に会い、和解した。

本書には、村上春樹の父親の所属した軍隊やその周辺の日本軍のこと(主に中国でのこと)が、戦死者の数などの数字をあげて淡々と書かれているが、それを村上春樹が書いているということで、戦争の悲惨さが生生しく伝わってくる。もし父が母(母には婚約者がいたが戦死した)ではない別の人と結婚していたら、また父親が戦死していたら、自分が生まれななかったし、村上春樹という作家も誕生しなかったと書いている。また、下記も、同ような村上の歴史観が表明されている。

「我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。を我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と〉(96-97頁)

本書の最初と最後に、幼い頃、父親と一緒に遭遇した猫に関するエピソードが2つ書かれている。それが意味することに関しては、ネットでの解説を転載する。

<本エッセイには、最後にもまた猫が出てくる。村上少年が見ている前で、飼い猫が庭の松の木に「するすると」登り、降りられなくなって、そのまま姿を消してしまったのだ。これと同じ逸話は、初期短篇「人喰い猫」の思い出話にも登場し、同編が原形となった『スプートニクの恋人』の「すみれ」の話に取り入れられ、さらに『ねじまき鳥クロニクル』にも出てくる。さて、現実の猫が小説でフィクションに化けたのか、フィクションの猫がエッセイで現実に化けたのか? アレゴリカルな意味は色々つけられる(木の中に消えた猫は不可知の世界へと村上をいざなったなどと)が、重要なのは、村上作品においてしばしば予兆となる猫が、エッセイの最初と最後に出てくること。父と子の絆や経験の継承、そして父の戦争体験を綴る本編の幕を軽やかに開き、また閉じる狂言廻しの役割を、二匹の猫は果たしていることだ。( 鴻巣 友季子 https://news.yahoo.co.jp/(7月17日)

<追記>この本の感想はいろいろなところに出ているのだと思う。1つだけ、転載しておく。<村上春樹さんの『猫を棄てる』を読んで、いちばん衝撃を受けたことだ。これまで避けつづけてきた“事実”が、いまの私を存在させているなんて、思ってもみなかった。いや、思いたくなかったんだろう。過去から繋がれて、繋がれて、ここに存在していることはわかってはいるものの、悲しいできごとや失われた命の上に、自分が立っているなんて、考えたくない。つらすぎる。でも、それも受け入れなければならない事実であり、知らなくてはいけないことなのだろうと思う。そのうえで、さらに次へと繋いでいかなければならない。背負わせていかなければならないのだ。人間はとんでもない歴史と使命を抱えてしまったものだと思う。>(https://note.com/

教育こども学科1年生の文章から読む 将来の教師像

今の教育こども学科の1年生の多くが自分の将来をしっかり考えているということを知って驚き、頼もしく思った。それは自分の若い頃と比較してのことである。

振り返ってみると、私はその日がなんとか無事過ごせればいいと思っていた節がある。寝床についた時が一番ほっとして、今日一日無事に終わったことで安堵し、また緊張を強いられる明日の一日が始まる朝までのつかぬ間の時間が、一番好きだと思った記憶がある。高校の英語の時間は辛かった覚えがある。特に英語が不得意という訳ではなかったが、教師から指名されると、英文の訳だけでなく出てきた単語の名詞形は何か形容詞形は何かなど関連したことを細かく聞かれた。答えられないと皆の前で恥をかいた。それで恐怖で、英語の時間が終わるとほっとした。将来の進路も自分の好きな科目や得意な科目から大学の受験学部を選び、将来何になりたいからこの学部を選ぶというような考え方をを全くしなかなかった(それだけ出身階層が低かったのもしれない。低い階層の人間はその日暮らしで、将来のことを考える余裕がない)。したがって、クラスメイトがそれまで学んだことのない法学や経済の学部を受験しようと考えるのがとても不思議だった。また教師になろうという将来像もなかったので、教育学部という選択肢もなかった。それでたまたま物理の成績がよかったので、理系の学部ばかり受験して、受かった大学の理系の学部に入学した。大学で授業を受けてみて、自分が理系向きの人間でないことがすぐわかった。それで、3年次に教育学部に転学部して、大学院まで行った。私は大学教師という仕事を40年近く続けてきたわけであるが、それも大学教師を目指したということではなく、目の前の課題をこなしていたら、いつの間にか大学教師になっていたという感じである。

敬愛大学教育こども学科1年生対象の「教育原論」の授業で、第11~12回は教師のことを取り上げ、教師に関する5つの資料(①向山洋一「教師に必要なのは、思いやりか教育技術か」、②東京都の教師の1日、③恒吉僚子『人間形成の日米比較』、④教師の仕事の国際比較、⑤本田由紀『軋む社会』(自己実現ワーカホーリック))を学生に読んでもらい、それも参考に、「将来どのような教師になりたいか」を考え、400字~1000字で書いてもらった。

その課題に対する敬愛の1年生70名弱の解答(コメント)を読んで、ほとんどの学生が将来の自分が教師になった時のビジョンや具体像をしっかり持っていることに驚いた。私の場合、教育学部に進学した3年次に、将来のことはほとんど何も考えていなかったし、自分の教師像など持っていなかった。これは、現代の小中高のキャリア教育のお蔭なのであろうか。また今の学生はしっかりした文章を書くことができることもわかる。これは国語教育の成果なのであろうか。以下に、その課題提出の文章の一部を掲載しておく(下記添付参照)。

韓国ドラマ「愛の不時着」を観る

韓国ドラマ「愛の不時着」全16話をネットフリクスで観た。話題のドラマだけあって、よくできたドラマだと思う。ブームを引き起こしたことが納得できる。ジエンダーの視点からも現代にマッチしているようだ。その分、旧いジェンダー意識に囚われている人にはそのよさがわからず、ジェンダー意識の「踏み絵」にもなるドラマのようだ。 ネットで書かれていることを少し書き写しておこう。

「韓流ドラマ今まで見た事なかったけど、初めて愛の不時着を見てはまった。こんなに面白いとは。日本のドラマみたいに視聴者がイライラするシーンがなく、基本的にこうなってほしいと思う方向に物事が動いてくれる。見ていて気持ちいいドラマ」「本当に『人を愛する』とはどういう事かをこれでもかと見せつけられたドラマでした。両国の関係を考えると限りなく切なく、でも離れてもそばにいるという二人の愛は限りなく温かい。ただ、リ・ジョンヒョクの様な完璧な男性は絶対に居ない! だからこれはファンタジーで、だから何度でも観てしまう。セリとリ・ジョンヒョクに逢うために…」

「最近の韓流ドラマのヒロインは、ひと昔前の可憐で受け身タイプの女性から、男性に頼らず自分の将来を自分の力で切り拓いていく、元気で活発なタイプへと変わってきている。『愛の不時着』のセリも、財閥の令嬢でありながら、自らファッションブランドを立ち上げて成功させたビジネスウーマンであり、愛する男のために命まで投げ出すほど愛に積極的な女性だ」 「ヒロインは美しいだけでなく経済的に自立しており、ヒーローを守る強さを持っている。2人の主演俳優が見せる素晴らしい演技力に加え、ジェンダー・ステレオタイプを覆すキャラクターの魅力が、古典的な「愛」をモチーフにしたドラマを格段に面白くしている」 「完璧に対等な男女の、壮大な恋愛ファンタジー」

「日本でよく見聞きする『弱い女を守ってやる俺』的な、単なるイキりやマッチョな誇示とは別物です。ジョンヒョクがセリに麺を打ったりコーヒーを豆から煎ったりするのも、銃撃戦で体を張るのも「守る」の一環。」 「このドラマで描かれているのは、強い男が愛する女を守り抜くという、伝統的な性別役割分担に基づく恋愛だけではない。リ・ジョンヒョクは、これまで女性たちが愛という名の下に、家族のためにしてきた「無償ケア労働」を、セリのために黙々とこなす。

「さらに重要なのは、これがラブ「コメディ」であることだ。視聴者は何度も泣かされるが、暗い気分は長引かない。泣けるシーンの次に絶妙な「笑い」を入れてくる」「良質なコンテンツはイデオロギーを超える力を持っている。」 「いかに気持ちを伝え、確かめ合い、未来を描けるようになるかという心の動き」「ひと昔前の韓流ドラマのように家柄や親は障害ではなく、絶対的な一線、つまり38度線だけが2人の愛を阻む。ソン・イェジンとヒョンビンと言うキャリアや人気が互角のスターを揃えたキャスティングも含め、『対等さ』を意識したドラマ」「「悪役であるセリの義姉たちも、坊っちゃん育ちの夫をコントロールして生きる力が強くて憎めない。北のオンニたちはそれぞれの個性が際立っているし、とにかく女性がものを言う。ミソジニー(女性に対する嫌悪や蔑視)が一切ないのがこのドラマの素晴らしいところ」。

「「推し」の視点を大事にしているドラマ-。(それは)好きな相手が幸せだったらそれでいいという、究極の尊い気持ち」「日本が朝鮮半島にしたこと、戦争の加害を思うといたたまれず、「早く統一されればいいですね」といった気楽な感想を口にすることはできない」 「ユン・セリ役を演じたソン・イェジンはまさに神の一手だった。女性視聴者の共感を得られる抜群の演技力と、男性視聴者をテレビの前に釘付けにできる美貌を兼ね備えた女優」  「「愛の不時着」は悲劇の「ロミオとジュリエット」になるはずの2人が、愛と知力と財力でサバイブして「織姫と彦星」となる物語」。 https://news.yahoo.co.jp/articles

追記 このドラマは今人気でネットフリックスでも日本の視聴の1位になっている。7月31日の朝日新聞朝刊に「『愛の不時着』にハマって」という見出しで、内田樹氏ら3氏のコメントが載っているが、その主な理由がこの3氏が書いているような北朝鮮の人々の様子がリアルに描かれているからというのとは違うと思う。やはり人気は主役の二人の関係(純愛とその成就に向けての行動)にあるのではないか。編集部の意図と3氏のコメントのズレを感じる。

相手を思いやるということ

「相手を思いやる」や「相手の立場に立って考える」ということは、道徳教育の項目にもあがっているし、多文化教育の「転換アプローチ」(相手の立場から考える)もそうであり、重要なことである。しかし、実際は行き違いもあり、次元の違いもあり難しい。

こちらが相手のことを思いやって言ったり行動したりしても、その言動が理解されず、恨まれる場合がある。さらにややこしくなるのは、相手もこちらを思いやっている場合である。その思いやりが自分を傷つける場合がある。それも、お互いを思うゆえにである。

親がゲームばかりしている子どもを叱り、ゲームを辞めさせるのは、ゲームをしたいという子どもの意向を禁止する、思いやりのない行動ではなく、子どもの将来を考えた思いやり行動である。自分に片思いの相手に冷たくするのは、相手に自分に対する未練を早く断ち切ってふさわしい人を探してほしい、という思いやり行動である。これらの行動は、今理解されなくても、いずれわかってもらえるので問題はない。ここで問題にしているのは、これとは違う。。

今評判の韓国ドラマ「愛の不時着」の15話で、恋人同士がお互いに、警察で自分が罪を被り、相手が罪を免れるような供述をする場面がある。二人はそれぞれ自分を犠牲にしての相手の幸せを願って、このような供述をする。ところが、相手の為を思って自分がした供述(罪は自分の側だけにある)は、自分の幸せを一番願っている相手の願望を真っ向から否定するものである。お互いに相手の為を思った供述が、相手を深く愛する二人故に、お互いの思いとは逆の結果を招く(浅いレベルでは、相手は罪を免れ幸福になるかもしれないが、自分の幸福を何よりも願う相手の願望を否定する)。それでお互いに、死ぬほど傷つく場面がある。(囚人のジレンマの逆?)

シエル・シルヴァスタイン著・村上春樹訳『おおきな木』(あすなろ書房、2010)では、リンゴの木は少年が好きで。その願いをかなえることに生きがいを感じている。少年に、自身(リンゴ)の実、枝、幹を提供し、自分は切り株になっても後悔はしない。少年の為になることが至上の願望だからである。一方少年は、そのリンゴの願望を当たり前のことと考え、リンゴの木が自分に幹まで提供し切り株になっても、それがリンゴの願望をかなえることなので、悪いことをしたという意識はない(読者もそう読む)。

この「愛の不時着」と「大きな木」の意識の違いは何なのであろう。前者は恋人同士であり、後者は母―子関係だからであろうか。前者は対等であり、後者は母親の子どもへの無償の愛が前提になっているからであろうか。(ドラマ「屋根裏のプリンス」の場合、片思いの側の相手への無償の愛の要素もあり、後者に近い面もある。)このように、ものごとには、深さもあり、相手の気持ちもあり、一筋縄ではいかない。

韓国ドラマ「屋根裏のプリンス」を観る

韓国ドラマ「屋根裏のプリンス」(2012年)全20回を、アマゾンで観た。「前半は抱腹絶倒、後半はサスペンスと涙の連続」というのが一般的の評のよう。私は、見終わるのに2週間はかかった。ラブコメとして楽しめばいいドラマのようであるが、シリアスなドラマとしてみると、少しストーリーに無理を感じる。ヒロイン(ヘン・ジミン主演)の自己犠牲や輪廻の考え方に魅かれた。

ヒロインの名前は、プヨン=パク・ハで、それは蓮の花を意味ずる。「生きて死に、死んで生きるものは何か?」という謎かけがドラマの中であったが、その答えが蓮の花。蓮の花は咲き終わると朽ちて土にまみえるが、次の花の糧になり生きる。このように蓮の花は自己犠牲に徹し、美しく咲き、哀しく散る。

私は別に輪廻転生を信じるものではないが、このドラマが輪廻転生のドラマであり、その象徴である蓮の花の名前のヒロインの自己犠牲や、 七夕の輪廻転生(天の川) や、先日千葉公園で観た蓮の花の美しさが、何か繋がっているように感じ、惹かれるものがあった。