人との距離の取り方について

今ソーシャル・ディスタンスが言われ、人との距離を取ることが推奨されている。韓国ドラマをみていると、人々が頻繁に一緒に食事をしたり飲みに行ったりして,人との距離が近い場面が多く出てくるが、私達は今、ほとんど家族以外と食事をしたり飲んだりする機会がない。人との短い立ち話も、はばかれる雰囲気である。ただ、ネットでのコミ二ケーションは可能だが、それも実際の人との接触の減少に伴い減っているように思う。このような中で、人と人とのと距離は、今後どうなっていくのであろうか。

また人との距離はどの程度が最適なのであろうか。快適な人との距離に関しては、国民性があり、アラブ人は西洋人より人との距離を近く取る傾向があり、その両者がビジネスで立ち話をしている時、アラブ人が西洋人をどんどん押して壁までいくという分析を読んだことがある。

性差や年齢差もあるであろう。また個人差も大きいであろう。特に初対面の人との距離をどのように取り、その後どのようになるかは個人差があるように思う。普通は、初対面と人とは最初ある程度の距離を取り、相手とやりとりしながらの、その距離を縮めたり遠ざけたりするのではないか。

私の場合、初対面の人との距離を最初通常より近くに設定してしまう傾向があるように思う。未知の人に出会ったのがうれしくて、勝手に親しみを感じてしまい、距離を近くに設定してしまうのである。人との関係は必ず、お互いを傷つけるので、相手が自分を傷つけた程度に応じて、相手との距離を取る(初対面の時に近かった人との距離がだんだん遠くなっていく)。このような人との距離の取り方に関して、後輩から「そのやり方はひどいと思います。それだと人はあなたから『傷つけた』と必ず恨まれるようになります。そして悪いのは傷つけた人ということになります」と言われ、びっくりしたことがある。

「間の取り方、出会いのマナーに 新しい作法」という記事が昨日(8月29日)の朝日新聞に載っていた。これから、人との距離は、コロナやネット社会の中で、どのように変化していくのであろうか。

<会わない、触らない、近寄らない。そんな「作法」が、わずか半年で世の中に浸透した。通勤、買い物の雑踏で、他人が近づくたび身をよじる。お互いがお互いの鬼である、静かな鬼ごっこのような緊張が走る。(中略)外側から来た異人に対して、まずは警戒する。受け入れる場合も、一定の条件をつけて慎重に受け入れる」(中略) Rさんがネットでの出会いに失敗しないために編み出したのは、新しいマナー、出会いの作法と言えないか。リモートで見知らぬ者同士が出会う時の、距離の取り方、時間のかけ方。そこから相手の交際への真剣さや慎重さ、人柄さえも推し量っていた。(中略) ソーシャルディスタンシング。新しい生活様式。とらされるもの、とらなければならないものになっている「距離」。だが「間」は、一人一人が、デザインできるものだ。(朝日新聞8月21日朝刊「人と間 コロナ禍の距離」より一部転載)

学校化された意識・習性、あるいはサラリーマン意識

私の父はサラリーマンだったので、平日は朝早く出かけ働き、夜遅く帰って来ていた。母と祖母は家事の他、貧しい家計を助ける為いつも内職をしていたように思う。したがって親が遊んでいる姿を見たことがない。家族旅行に行ったこともない。このような親を見て育ち、人は生活する為にいつも働くものと思ってきた。そして子どもは、学校に通い一生懸命勉強することが、大人の働くことに相当すると思っていた。

自分が大学教師になってから、勤務時間が決まっているわけではなく、授業や会議以外、大部分の時間は自由裁量の時間で、何をしてもいいわけではあったが、平日の昼間に遊んだという覚えはない。これはサラーマンの親を見て、あるいは学校通いから身についた習性(学校化された意識・習性)であろう。大学教師の場合、土日も、授業の準備や原稿の執筆等で机に向かうことが多く、家族にとってはストレスが溜まったことであろう。

 人は定年で退職した後、どのような生活をしているのであろうか。特に大学教師の場合は、何をしているのであろうか。今友人や元同僚に会う機会がなく、そのような情報が入ってこない。

 私の周囲には、サラリーマンで退職した後、テニスや卓球三昧で、週に3~4回はそれを仕事のようにしている人がかなりいる。私もその人たちと一緒にテニスや卓球をしているが、私が参加するのは土日で、平日に参加することはほとんどない。私の場合平日は、昔からの習性で、遊ばず、仕事的なことをしていると思う(授業の準備、原稿執筆、読書、メール等)。

 今日(8月25日)、はじめて平日の昼間の卓球の練習に参加してみた(午前9時―11時)。内容は土日の卓球の練習と変わらないのであるが、私の意識の中に「こんな平日の昼間から卓球なんかして遊んでいていいのであろうか、後期の授業も1コマ引き受けているのに、その準備をしなくていいものなのか、大学の教師たるもの、平日の昼間に本も読まずに、遊んでいていいのか」という後ろめたさが働き、卓球の練習に没頭できなかった。学校化された意識・習性、あるいはサラリーマン意識を自覚した次第。他の退職した大学教師は、毎日何をしているのであろうか。

人間性の描写について

人の人間性に関して、どのような描写がありうるのであろうか。昨日(22日)読んだ文章から、2つ抜き出しておきたい。

一つは、江藤淳に関する古山高麗雄の文章(『現代の文学27』講談社、昭和47年)

「実際に会った江藤氏は,高名ではあったが、文士風ではなかった。江藤氏は、スタイルやポーズなどにはまったく無縁な、直截的でナチュラルな感じの人であった」「江藤氏は、素通りできない発言者であった。江藤氏の発言はいつも、人間の生き方に関わるところまで及んでいるので、読者は立ち止まらないわけにはいかなくなる」「 「江藤氏の洗練された視界の広い国際感覚と,『自分を育てた日本の文化遺産の一切とともに』自然な自分を引き受ける決意とのあいだに、背反がな(い)」 「江藤氏におけるような、論理的に明晰で、平明な用語で斬新にそして確実に把握し表現するレトリックが、非論理的で混沌とした日本的情感と混和し、しかも全体的には誠実であり自然なかたちに落ち着いて例を私は見たことがない」(p425-433)

もう一つは、大矢博子 書評『チーム・オベリベリ』(乃南アサ著)

渡辺カネは横浜の女学校を卒業した、当時の最先端の女性である。それが、夫に従って入植し、粗末な小屋に暮らし、子を産み、畑を耕し、豚を育て、アイヌ民族と交流し、開拓団の子どもに勉強を教える。予想もしていなかった環境に身を置くことになったのである。 開拓の具体的な描写も圧巻だが、新たな環境にどう向き合ったかが読みどころだ。カネは幻滅や諦めを体験しつつも、妻として母として、武士の娘として、アイヌ民族の隣人として、自分の為(な)すべきことを見つけていく。 彼女を支えたのは教育と信仰だ。自分の芯になるものを持っている人間の、何と強いことだろう。 カネの印象的な言葉がある。「私たちの代が、耐えて、耐えて、この土地の捨て石になるつもりでやっていかなければ、この土地は、そう容易(たやす)くは私たちを受け入れてはくれない」(朝日新聞、8月22日朝刊)

江藤は誠実で、ナチュラル(自然)、カネは、育ちと教育と信仰から、自分の役割を大事にし、強い信念(芯)を持ち行動する人という描写がみられている。さらに多くの記載を検討することによって、好ましいとされる人間性が明らかになるであろう。

運動の習慣について

私はもともと運動神経が人より劣ると思っていて、体育が一番苦手な科目であった。今でも鉄棒の逆上がりはできないし、5メートルも泳げない。高校の時跳び箱を飛べなくて、体育の時間を仮病で見学したことがある(今でもそのことで心が痛む)。山登りをする人を見て、何であんなに苦しい思いをして山に登る必要があるのだろうと思う。 (一方幼い頃より体操やスイミングに通っている5歳の孫が、鉄棒の逆上がりもできるし、25メールを3つの泳法で楽に泳げ、今はバタフライの練習をしていると知りびっくり)

土日に2日間2時間ずつ体育館で卓球と、次の日2時間テニスをした。つまり3日連続でこの猛暑の中、卓球とテニスをした。卓球は室内でクーラーなしで締め切っての中での練習、テニスは9時―11時の日差しが強い中での練習試合である。卓球は時々室内に風を通し、テニスは何人かで交代で、休憩をしながら水分は頻繁に取り、自分の体力や体調に気づかいながらの練習や試合だった。確かに暑かったが、熱中症的にもならなかったし、体力的にダメッジにもならなかったと思う。

3日間そのように体を酷使すると、それに体が慣れてしまうのか、4日目もこの暑さの中、体を動かしたくなった。その日は、11時から「テニスの打ち方教室」のクラスがあり、それに行こうとしたら、「この暑さの中、年寄りが、何をしようとしているの?!」と、家人に止められ、出かけるのを諦めた。それでも、体を酷使して運動する慣れ(快感)を、この3日間の猛暑の中での運動で少し知ることができた。運動好きの人は、このような慣れ(習慣)があるのであろう。卓球仲間には1930年生まれ90歳になるMさんがいる。Mさんは毎日卓球かラージボールをしていて、この夏も変わらない日常だという。

上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』を読む。

手元には、昔読もうと思って買って「積読」になっている本がたくさんある。新型コロナ自粛のせいで、それらを少しでも減らせればうれしい。手の届くところにあった上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』(紀伊国屋書店、2010)を読む。

私は「ジェンダーと教育」というテーマで、学生に1時間ぐらいは講義をすることはあるがその内容は、学校教育の世界には、管理職に女性が少ない、教科書の内容が男性中心である、教師の児童生徒に対する接し方に性差がある、生徒の役職や進路に性差があるなど男女平等ではない、それを直さなくてはいけない、ということを言うくらいで、それ以上、深い話にならない。

自分のジェンダー意識に関しては、それほど偏見はないと思うものの、どこか古い男性中心の考えに捕らわれているのではないかという恐れも感じている。正直、せっかくある男と女の違いを楽しめばいいのではないかという考えもある。そのような中で、ジェンダー研究の第1人者である上野千鶴子の本を読むのは、少し勇気がいる。この本を読んでみて、上野千鶴子の分析の鋭さと言葉の凄さに改めて感心した。フーコーはじめジェンダー研究者の理論が適宜紹介され、日本の文学者などを俎上に乗せ、その思想のミソジニー度を暴く手法は鮮やかで、目から鱗という部分が多くある。印象に残ったフレーズを書き出そうと思ったが、あまりに多くて、即座にはできない。今回は、ネットに載っていた感想をいくつか、書き留めるにとどめる。(https://bookmeter.com

・バイブルの一つ。フェミニズム専門書。フェミニズムを志向する際、必ず向き合わなければならないのがミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)だ。筆者上野千鶴子はこのミソジニー、とりわけ日本に蔓延るミソジニーを鋭くユーモアに溢れた知性と筆致で書き下す。今まで自明としていた世界観がどれほど他者を傷付け、それを正当化してきたか気付かされるからだ。

・こんな本が読みたかった!私が普段何気なくモヤモヤしている事や、悩んでいる事、苦しい事が、いつもの千鶴子節で見事に言語化されていて、ものすごいカタルシスを感じました私はミソジニーが完全に内面化されていて、それが苦しみの原因なのだという事は分かりました

・現代日本の男女関係が「ミソジニー」という概念から読み解かれている。 今までの疑問が氷解するような爽快感を覚えるとともに「え、そこまでは…」と引いてしまう記述も。・

・女は生きづらい。でもそういうものだろうという風潮。本著を読んでこれまで感じてきた曖昧な違和感に明確な言葉が与えられた。 女は男同士の連帯のための道具であり、その連帯から外れないために女を恐れる。それがホモソーシャルとホモフォビアとミソジニーだ。その構造から逃れて生きたいと思った。 女の価値は男に与えられるものと自ら獲得するものとがあり、その両方を兼ね備えなければ一人前と認められない

・男には女性蔑視、女には自己嫌悪という形で、男女の間で非対称に働くミソジニー。それを各種の文化的背景を考察しながら緻密に解きほぐしていく。その様は知的な刺激に満ちていて面白く、いくつかの面でハッとさせられた。吉行淳之介等の文学から男の性幻想を読み解くところや、ホモソーシャリティがミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持されるという構図、娘が母から息子の役割を期待されて自責しミソジニーを発展させる母娘の関係は興味深い。男の一人として、色々考えさせられる面の多い一冊であった。