村上春樹についてのイメージ

村上春樹が影響を受けたのは外国の作家で、自らも多くの翻訳本を出し、最初受賞した小説は英語で書いたものを翻訳したもので*、それで独自の文体を確立し、日本の作家の影響は少なく、日本を離れて外国に住むことが多く**、日本の文学者や批評家からどのように酷評されようと、全く意に介さない人というイメージがある(少なくても私には)。それが、内田樹***の最近の解説には、下記のように全く違うことが書かれていた。とても意外な感じがした。

<村上春樹は『ノルウェイの森』がベストセラーになる前は、比較的限られた読者とのインティメイトな関係の中でのびのびと小説やエッセイを書いていた。高校生の頃の写真や家族の写真さえも当時はメディアにふつうに公開されていた。けれども、『ノルウェイの森』が記録的なベストセラーになったことで環境が一変した。それまで彼の本を手に取らなかった多くの読者を獲得したのと同時に、それまで彼の本を手にしたことのなかった批評家たちを呼び込むことになったからだ。どうしてここまで憎まれなければいけないのかと呆然とするほど攻撃的な批評の言葉が矢のように放たれた。作家は日本にいることができないほど精神的に追い込まれて海外に去り、長く祖国の土を踏まなかった。それからは自分について語ることに慎重になり、80年代に気楽に書き飛ばしていたタイプの軽いエッセイのようなものは書かなくなった。その後、たしかに作品は重厚さを加えたけれど、彼の30代の書き物に横溢していたイノセンスは失われて、二度と回復することがなかった。私はそれを惜しむ。私が「書評というもの」を遠ざけるようになった理由の一つは、間違いなく『ノルウェイの森』をめぐる書評にみなぎっていた「敵意」に怯えた体験にある。>(内田樹ブログ2020-10-09「(あまり)書評を書かない理由」から一部転載、http://blog.tatsuru.com/

*1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。**1986年10月、ヨーロッパに移住(主な滞在先はギリシャ、イタリア、英国)。1991年、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米する。***内田樹『村上春樹にご用心』(ARTES,2007)がある。

「個別最適化」について

アマゾンで本を買うと、「その本を買っている人がこの本も買っています。それがお薦めです」という内容のメッセ―ジが届く。ネットフリクスでドラマや映画を観ると、「そのドラマや映画を観た人はこれも観ています。それがお薦めです」という趣旨のメッセージが表示される。このようにAIが、次に読むべき本やドラマや映画を教えてくれる。

今教育界では「個別最適化」とキーワードが話題になっているという。それぞれの子どもが次に学ぶべきことは、上のような原理でICT(AI)が判断してくれるという。子ども一人一人がタブレット持ち、その子どもに最適の内容を次々とコンピューターが提供してくれ、それに従い学べばいいらしい。教師は必要なくなるのではないか。

果たしてそのような時代が来るのであろうか。アマゾンやネットフリクスのお薦めは、多少の参考になるが、それに従うのはせいぜい1割程度のような気がする。デジタル(AI)による教育も、せいぜい多くても2~3割止まりではないかと思う。

上智大学の奈須正裕教授は、次のように述べている(朝日新聞10月6日朝刊から一部転載)

<菅新政権がデジタル化を進め、文部科学省にもデジタル化推進本部ができました。ICT(情報通信技術)を活用した教育の広がりにともない、近年、「個別最適化」という言葉が、あちこちで聞かれるようになっています。コロナ禍の長期休校で、オンライン教育なら個々にあった教育ができるとも言われます。(中略)子どもが、文房具のようにタブレット端末などを使って学ぶことが不可欠な時代です。ただ、ICTで「個別最適化」を進めることには、危うさもはらみます。(長期休校中は、同時双方向やオンデマンドの授業配信など、いわば「遠隔授業」の使い方が中心でした。でも、)個別最適化に注目した時に、特にこれから活用されるのは「AI(人工知能)ドリル」のようなAIを使った学びでしょう。一人ひとりの解答をAIが分析し、次に取り組むべき問題を自動で出題してくれます。(中略)情報を選択するプログラムがどうなっているかは、使う子どもや親、教師には見えない。これって不安じゃないですか。課題は「情報の推奨」です。個別最適化の「最適」を誰が認定するのか。できるだけ情報をフラットに提供し、何がどう「最適」かは教師や子どもが選択する仕組みにするべきではないでしょうか。(中略) ICTは、もっと探究など学びのツールとして、使うことを考えてほしい。>

学会の声明について

学会は多様な意見の人の集合なので、意見の一致を必要とする声明を出すのはそぐわない。私が大学院生の頃から入会している「日本教育社会学会」でも、ここ半世紀ほど声明を出したことはないように思う。それが、今回の学術会議の新規会員の推薦者の6名を官邸が拒否した件に関しては、下記のような声明を、理事会が出している。それだけ、推薦の拒否は、異例で異常なことなのであろう。

政府自民党は、学術会議のあり方に関して検討しなければいけないというが、それはそうだとしても、政府が今それを言うのは、問題のはぐらかし以外の何物でもない。今回のことは、今専任の大学教員の17万人(非常勤を入れるともっと多い)、大学・短大生約68万人、さらに多くの大学・短大卒業生を含め、学問や科学を尊重する多くの人の不信を買ったことを、官邸は自覚しているのであろうか。

日本学術会議第25期会員候補者任命に関する緊急声明

内閣総理大臣は、日本学術会議が第25期会員候補者として推薦した105名のうち6名を任命せず、その経緯や理由についていまだ充分な説明を行っていない。これは、日本学術会議法に規定された同会議の本来の目的を著しく歪めるものである。ひいては、同法前文に記された社会的使命を阻害することにつながりかねない。上記に鑑み、日本教育社会学会は、理事会の総意にもとづき、内閣総理大臣に以下の2点を強く要望する。 1.日本学術会議が推薦した会員候補者6名が任命されなかった経緯と理由を明らかにすること。2.上記6名の任命見送りを撤回して、すみやかに任命すること。 2020年10月7日  日本教育社会学会理事会

追記 朝日新聞の社説「学術会議問題 自身の戒め忘れた首相」(10月25日)一部転載。

 <首相は大臣に窓口になってもらうと言い、その井上信治・科学技術担当相は「首相の方で考えていただく」と逃げる。/ 日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命を菅首相が拒否した問題で、理由を明らかにするよう求める学術会議側に対し、政権は不誠実かつ無責任な態度に終始している./ 従来の国会答弁に反することをしながら説明をせず、論点を学術会議のあり方にすり替え、たらい回しで相手の疲弊を待つ。それが「国民の感覚」重視を唱える政権のやり方なのか。/ (中略)今回は、省庁の役人とは違い、学問の自由を保障する憲法のもと、政治からの独立・中立が求められる組織の人事だ。慎重さや丁寧さがより求められるケースではないか。/(中略) 6人は前内閣に批判的な発言をしたことがある。総合的、俯瞰(ふかん)的、バランスといった聞こえのいい言葉の裏に、異論を唱える者を許さず、研究者とその集団を政権に従順なものにしようという思惑が透けて見える。/ だがそんな力ずくの手法は、まさに「反発を招き、信頼を失う」。問題発覚後の内閣支持率の下落はその表れだ。/ 批判をかわそうと、政権やその支援者は学術会議の側に問題があるとの言説を流してきた。税金を使いながらまともに活動していない、税投入は日本だけだ、中国の国家事業に積極的に協力している――などだ。/ 虚偽や歪曲(わいきょく)があると指摘されると、訂正したりトーンを弱めたりしたが、ネット上には、誤った情報をもとに会議を批判し、学者をことさらにおとしめる投稿が相次ぐ。フェイクニュースをばらまき、人々を誤導・混乱させた罪は大きい。/ あすから臨時国会が始まる。著書で、説明責任を果たすことの大切さにも繰り返し言及している首相が、数々の疑問にどう答えるか、注目したい。>

スポーツと積極性

 どのようなスポーツも、競争的な要素があるので、個人の積極性が求められるように思う。ただ、積極的な人と消極的な人では、やるスポーツによって向き不向きや、有利不利があるように思う。また子どもの場合、スポーツで性格が変わる場合もあるではないか。

 子どものやるサッカーを見ていて、消極的な性格の子は、自分からボールを取りに行こうとせず、偶然自分のところに来るボールを待つばかりなので、ボールに触る機会が少なく、サッカー向きでないように思う。ただ逆に、消極的な性格の子がサッカーで積極性を身につけ、性格も積極的になるというケースはあると思う。

 最近、テニスと卓球のダブルスの練習試合をしていて、一つ違いがあることに気がついた。テニスのダブルスの試合をしている時、組んだぺアの人との間に球が飛んできてお見合い(譲り合い)になり、相手に得点を献上することがよくある。私の場合特に上手な人と組んだ時は、自分が下手にラケットを出してミスをするよりは、上手なペアの人に打ってもらおうと、つい消極的になってしまう。それに対して、卓球のダブルスの場合は、ペア同士が球を交互に打たなければならないので、自分の打つ番の時はどこに球が飛んで来ようと、責任を持って打たなければならず、必死に打つことになる。その分、積極的になる。

 以上のように、少し積極性に欠ける人間は、テニスより卓球をした方がいいように思う(もちろん、シングルスの試合をやる分にはテニスも卓球も変わらないし、積極性のある人はどちらでも同じであるが)。

季節感

私達の季節感は、暑さ寒さの気候だけでなく、年中行事にも依っている感じがする。今年は新型コロナ禍の為、学校や大学の学期の開始や終了が変則で、季節感に変調をきたしている。

少し前まで夏だと思っていたのに、もう秋分の日も終わり、10月に入っている。秋の花、コスモス等が咲き始めた。それらの草花を見て季節感を取り戻したい。