日光の紅葉を見に行く

 日光は、千葉からも比較的近く、紅葉も楽しめるスポットである。日光というと、日光東照宮と華厳の滝と中禅寺湖という3つが観光の定番だと思うが、うちの家族で行く時は、そのスポットを少しずらしたところに行く。今年は、新たなスポットも発見した。

 昨日(10月20)は久しぶりの秋晴れになるというので、稲毛の自宅を朝7時前に車で出て、京葉道路→外環道路→東北道を経由して日光に向かい10時前にはいろは坂を登った。半月山展望台→イタリア大使館別荘・イギリス大使館別荘(中善寺湖畔)→奥日光・赤沼車庫→西の湖→湯ノ湖→龍頭の滝→いろは坂経由で帰路という経路での13時間の日帰り旅行を行った。今回の紅葉は、●いろは坂(まだ早い)→●半月山展望台・中禅寺湖畔(色づき始め)→戦場ヶ原・小田代原(見ごろ)→●湯滝・龍頭の滝(見ごろ)であった

 今年の感動スポットは、小田代原の草紅葉、西の湖の湖に映える紅葉、湯滝の迫力である。戦場ヶ原の赤沼車庫からの乗る「低公害バス」からの紅葉した木々や草原の眺めは抜群、西の湖で降りて帰りのバスまで1時間の森の中の散策(我々しかいなかった)。それから日光湯本に行く途中にある湯滝は、はじめて訪れたが、その滝の迫力に感動(下記の写真は、湯滝と西の湖)。ネットにも日光の紅葉はいろいろ出ている。この週末が、中禅寺湖畔の紅葉の一番の季節であろう。

半月山展望台からの眺め https://www.tochigiji.or.jp/spot/7220/

異国での修行僧のような生活

今の新型コロナ感染禍の中で、経済的に苦しい状況に追い込まれている人は多いことであろう。日本は、高度経済成長以降豊かになり、経済的にも社会的にも苦難の連続という人は減少して、比較的楽な生活を送ってきたと思う。

ただ、そのような中でも、海外に留学した学生や院生は、のんびりした日本とは違う文化環境の中で、過酷な生活を送って来たのではないか。留学と言っても、語学研修のような短期の観光や遊びを兼ねたものではなく、異国で学位を取得して、それを将来の職業に生かそうという決死の覚悟での留学である。

私が4半世紀前にサバティカル(研究休暇)で過ごした、ウィスコンシン大学にも、日本からの留学の院生が何人もいた。その必死の勉強と質素な生活を端で見ていて、このような修行僧のような生活を、日本では送っている人はほとんどいないなと感じた。異国でのお互いの助け合いといたわりも、我々も含め、日本では見られない親密なものであった。

このような生活は、過去のものだと思っていたら、現在もそのような生活を送り、その記録をブログに書いている人を見かけた。(2年くらい前に、そのブログは一度読んで、ここでも紹介したが(2018.7.16)、その夫婦は、今度は子連れで、マディソンに住みはじめている。ご主人がウィスコンシン大学の博士課程に在籍し、ブログの執筆者はその奥さん)。ご主人が院生の身分で、将来も不安定で、慎ましい生活をして、家族で必死に生きている姿には、感銘を受ける。

 青子のウィスコンシン渾身日記      http://nagaya.tatsuru.com/

量的調査のこと

量的な調査から得られた数値に関する思いを書いておきたい。例えば、右に進んで成功する人の確率が50%で、左に進んで成功する人の確率が60%だと数字が出たとする。「左に進んだ人の方が成功する」と書くが、右に進んだ人が成功する50%を否定しているわけではない。数値を使わない理論派は論理だけで「左に進む方が正しい」と説く。

別の例をあげると、6割の水が入ったコップがあったとする。その水の量を見て、理論派は自分の論に引き寄せて、多いとか少ないとかいうが、量的な調査の人は「コップに6割の水が入っているという事実」を抜きに何かを論じるわけではない。ここが、理論派と実証派の違いである。

 文部科学省は全国学力調査を毎年して、その都道府県別の平均点を発表して、その順位をめぐって一喜一憂したり、その背景を分析したりすることがあるが、この得点も一つの目安の数値であり、上の50%と60%の違いぐらいの意味しかないのではないか。ただ、コップの水の量を確認したように、各都道府県の学力試験の得点が何点であるかを押さえておくことは必要である(それを順位などでみると、わずかな差が拡大される)。

また量的な調査は、調査の過程でさまざまな誤差もあるので、何かを考える時の目安ぐらいに考えた方がいいと思う。(全国学力テストの学校別平均点の誤差については、 2014年9月6日 ブログに書いた。)

昔の貧しく質素な生活を懐かしむ?

幼少期に養われた生活感覚が、歳をとってからまで持続するものだと感じることがある。終戦前後に生まれの世代の生活はとても貧しく質素であった。台風が来たりすると家が吹き飛ばされそうだったし、雨漏りがしてバケツや洗面器が家の中の所々に置かれた。食べるものは質素で、味よりはとにかくお腹が少しでも満たされればよかったし、外食などしたことがなかった。クーラーや冷蔵庫はなく、夏は暑く、ハエや蚊にも悩まされた。暑い中、蝉取りや釣りに夢中になった。冬の家は隙間風で寒かった。寝るのは雑魚寝状態で、狭い家に親戚の居候がいつもいた。家では母や祖母が内職をして働き詰めで、わずかなお金を稼き、生活の糧にしていた。収穫の終わった農家の畑に、取り残した芋を探しに行ったこともある。家族で旅行することは一度もなく、学校の遠足や修学旅行が唯一の楽しみであった。

このような幼少期を送ると、家は貧弱でも屋根があり、とにかく寝ることができ、生活できれればいい、食事は美味しさよりお腹が膨れればいい、旅行や遊びなど贅沢はしないで日々何とか生きれればいいーこんな生活感覚を持ってしまう。そして世代の違う家族メンバーと意識の違いが生じてしまう。

日本は戦後の貧しい時代から、高度成長を経て、豊かな社会になり、各家庭の日々の生活も豊かになり、エアコンで過酷な寒さ暑さを感じることなく、美味しいものを食べ、避暑地や海外旅行も楽しみ、さまざまな娯楽や趣味に没頭する生活が送れるようになった。これは明らかに進歩であり、感謝しなければならないが、終戦前後に生まれた世代は、今の自粛時代に昔の過酷な日々に耐えた、貧しく質素な生活を、懐かしむ気持ちも時々起こる。

<追記 うちでは,自粛で自給自足も一部始まっている。>

今年の紅葉は?

新型コロナウイルス感染禍の自粛のせいで、各種会合も中止になり、私も今年の2月6日に四谷で開いた研究会に出た後、8か月間東京に一度も行っていない。したがって半年以上電車に乗っていない。数年前まで50年以上ほとんど毎日千葉(県)から東京へ往復3時間近く電車で通っていたことを思うと隔世の感がある。また、車で千葉県から出て遠くに旅行に行くこともしていない。

過去の記録を見ると、一昨年は10月に日光の紅葉を、昨年は11月上旬に谷川岳の紅葉を見に行っている。今年は、どこかに紅葉を見に行くことができるのであろうか。過去の写真を見て、ため息をつく。(下記は、谷川岳近くの紅葉)