昔のフラッシュモブ(Flash Mob)をみる

気が付かないうちに、社会(あるいは社会の雰囲気)は、少しずつ変化しているように思う。そのことで1つ感じるのは、(これは日本特有かもしれないが、)規則に縛られる息苦しさが増していることである。法や規則を遵守することは大切だが、それらはある目的を達成する為の手段に過ぎなかったものが、本来の目的を忘れ、手段である法や規則を遵守することが自己目的化してしまうことが、最近多いように思う。時には、目的を損なわない程度の規則違反は、大目に見るような寛容さはあっていいように思う。そのような寛容な空気は、日本社会の中で段々薄れていると感じる。。

一時、you tubeなどで、フラッシュモブが公開される機会がよくあった。この頃は新しいものは全く見ないように思う。フラッシュモブ(Flash Mob)とは、「ネットを通じて多くの参加者を誘い、街や駅、空港や公園など様々な公の場所で不特定多数の人にドッキリを行うという内容」。公共の広場や路上では、禁止事項が多く、その法律や規制が厳しく行われ、人々もその遵守に慣れっこになっている(プライバシーの保護もあり、許可のない写真の公開もできないのかもしれない)。それで、そのような場での突然のパホーマンスへの許容度は低くなり、フラッシュモブも行われなくなったのであろう。限られた場所での怒りをかわない芸能人への仕掛けが行われる「モニタリング」と、一般の人を対象にしてフラシュモブとは、スケールや質が違う。

私のブログでは、2018年10 月10日に、「秩序だった平凡な毎日の中に、少しの意外性のある出来事が起こると、人生にスパイスがふりかけられたようでうれしくなる。特にそれが、芸術性に富んだものであったら、思わず笑顔がこぼれる。そのようなものとして、Flash Mobがあるようだ。街中で、突然音楽が演奏されたり、ダンスが始まったり。全く期待していなかったことが始まり、生きていてよかったと思うのではないか。」と書いて、いくつかのフラッシュモブを紹介した。今回、下記のサイトも見て、昔を思い出し、、気分転換をはかった。

世界中のフラッシュモブ!素敵なダンス作品13連発

教師のジェンダー関連の発言について

教師のジェンダー関連の発言について生成AIに聞いてみた。以下その質問と回答。かなりまともな回答だと思う。男性教師は皆、このような自覚はあるのであろうか。

質問ー教育の場の教師の発言に関してお尋ねします。男性教師が女性や女子生徒や女の子に関教育の場の教師の発言に関してお尋ねします。男性教師が女性や女子生徒や女の子に関して、可愛い、美人だと、生徒の前で、皆にいうことは、セクハラになりませんか。特定に人に対して出なくても、女性に対して、そのような見方をするということを公言することは、教師として慎まなければならないことだと思いますが、どうですか? ポリティカルコレクトの観点からも教えて下さい。

回答(ChatGPT)

教師の発言が教育の場で適切であるかどうかについては、特にジェンダーに関連する問教師の発言が教育の場で適切であるかどうかについては、特にジェンダーに関連する問題では慎重に考える必要があります。以下はその観点からの見解です。

セクハラの可能性―教師が女性や女子生徒に対して「可愛い」「美人」といった外見に関するコメントをすることは、次の理由からセクシャルハラスメント(セクハラ)と見なされる可能性があります。①権力関係の不均衡:教師と生徒の間には明らかな権力差があります。。このようなコメントは、生徒に不快感を与える可能性が高く、特に教師からの評価が成績や学校生活に影響を及ぼす場合、その影響力は大きいです。②不適切な注目:女性や女子生徒の外見に関するコメントは、彼女たちが見た目で評価されていると感じさせる可能性があります。教育の場では、生徒が学業や人格、努力に対して評価されるべきであり、外見についての言及は避けるべきです。③セクハラの基準:セクハラは相手がどう感じるかが重要であり、発言者の意図に関わらず、受け取る側が不快に感じたり圧力を感じたりする場合、それはセクハラとなり得ます。

ポリティカル・コレクトネスの観点―ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)とは、特定のグループや個人に対して偏見や差別を助長する表現を避け、尊重と公平性を保つことを目指す考え方です。この観点から、以下の点を考慮すべきです:①公平性と尊重:教師は全ての生徒に対して公平で尊重ある態度を示すべきです。特定の生徒や特定の属性(例えば外見)に焦点を当てた発言は、他の生徒に対する不公平感や、対象となった生徒に対する過剰な注目を引き起こす可能性があります。②教育的影響:教育の場での発言は、生徒の価値観や行動に大きな影響を与えます。性別や外見に関するコメントは、ジェンダーに基づくステレオタイプを強化し、生徒が他者を評価する際に外見に重きを置くことを学んでしまう危険性があります。③プロフェッショナリズム:教師は専門職としての倫理観を持ち、教育の場では特に慎重な言動を心がけるべきです。生徒の自尊心や学習環境を尊重し、外見に関する言及を避けることで、健全な学習環境を維持することが求められます。

結論―女性や女子生徒に対して「可愛い」「美人」といったコメントを教育の場で行うことは、セクハラと見なされる可能性が高く、またポリティカル・コレクトネスの観点からも不適切です。教師としては、全ての生徒に対して公正で尊重ある態度を示し、外見ではなく学業や人格に焦点を当てた評価を行うことが重要です。

佐倉の風車のひまわりガーデン行く

夏の花といえばやはりひまわり。うちの庭にも植木鉢に植えた種から3メートルにもなるヒマワリが育ち、日に日に花も大きくなっている。今日は、家から車で30分の所にある佐倉のふるさと広場に、ひまわりの群生を見に行った。そこは春はチューリップ、秋はコスモスがたくさん植えられて、見学と花の摘み取りに行くところだが、夏の短い期間、ひまわりが植えられ、夏を感じることができるところ。ホームページには下記の紹介がある。

<夏の佐倉ふるさと広場では、ひまわりに情熱を注いだことで知られるオランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホにちなんで命名されたひまわりの品種「ビンセント」、約1万5千本が咲きそろいます。佐倉ふるさと広場のランドマークであるオランダ風車「リーフデ」と、夏の青空を背景に、印旛沼のほとり一面に広がる美しいひまわりガーデンを、ぜひお楽しみください!

https://www.city.sakura.lg.jp/soshiki/sakuranomiryoku/event_kanko/3597.html>

KODAK Digital Still Camera

事務的に「滞る」ことについて

効率が優先される時代で、事務的に何かが滞るというには、なるべく避けるのが好ましいと思うが、実際の日常生活では、些細な行き違い(あるいは事故や事件)が起き、滞りが生じることがよくある。その場合、そのことをマイナスに考えるのではなく、そのことによって生ずる(関係者の)修復の行動が思わないよい結果を生むとプラスに考えるべきかもしれない。

小室等著『人生を肯定するもの、それが音楽』(岩波新書、2004)の中に、小室氏*が経験したアジア国際音楽祭の際の滞った経験が綴られている。通訳が不足して出演者やスタッフの意思疎通が滞った結果、皆流暢にしゃべれるよりかえって深く、お互いを理解しようと努力し、コミュニケーション深まり、演奏のモチベーションも高まり、いい音楽祭になったというエピソードである(同書99-103頁)

日常的に起こる様々なトラブルで、それがない時のスムーズさが損なわれた故に、関係者が密なコミュニケーションを行わざるを得ず、その修復の努力の中で、自然に共同関係が生じ、お互の関係が新たな次元に進み、期待していなかった副産物も生じる場合がある。人が生きるということは、そのようなことの連続かもしれない。新型コロナ後の学会の開催や、普段使っていたテニスコートの1次閉鎖でテニスメンバーのとった代替活動で、そのことを感じた。

*小室等のことは、一時期吉田拓郎や井上揚水と一緒に作ったバンド「六文銭」のことで名前だけしか知らなかったが、今回たまたま氏の書いた交友録のような本を読んで、その柔軟な志向に感心した。ただその歌をYou Tubeで聴いてみると、(私の鑑賞力のせいかもしれないが)、あまり個性が感じられず、やはりフォークは吉田拓郎や井上揚水だなと思ってしまった。

高齢者の猛暑の過ごし方

 高齢者が熱中症で救急車で搬送されるニュースが続いている。幼い頃、家にクーラーなどなく、暑い夏を過ごした高齢者にとって、夏は暑いのが当然で、それで倒れるなんてありえないと思っている節がある。同世代の私も同様で、他人ごとではない。

 暑い7月、8月のテニスと卓球の練習への参加も、自分の歳を考えると、どうするか悩みの種である。卓球は、小学校と近くのスポーツセンターの体育館で行われるが、どちらもクーラーも扇風機もなく、締め切った中での2時間の練習のため、蒸し風呂状態である。スポーツドリンクを飲み、何とか気力で耐えている。炎天下でのテニスは、日差しでさらに暑い。ただ風が吹いたりして、卓球より暑さを感じない時がある。クレーコートの場合、練習前にコートに水を撒くと、その蒸発熱で、少しは涼しく感じることができる。それも午前11時までで、それ以降のテニスコートは暑い。

 私の小学生の頃の夏休みといえば、外でトンボや蝉取り、魚釣り、草野球など、友達と半ズボン、ランニング姿で外を駆け回り、暑さとともにあった。家に風呂も冷蔵庫もなく、夕方盥で行水をして、ラジオの「1丁目1番地」を聞くとやることがなく、7時過ぎには、蚊帳の中で寝ていたように思う。朝早く目が覚めてもやることがなく、寝ながら天井の模様ばかり眺めていた。

 今は、暑い夏はエヤコンのある部屋で過ごす子どもが大部分で、子どもたちもテレビとスマホとゲーム機で、涼しい部屋にいながら友達とスマホで話しながらゲームができ、テレビやYOU TUBEも見放題で、暑さを感じる時間は少ないのではないか。

 今の私は、家のPCの置いてある部屋のクーラーが壊れ、その部屋の構造と家の電気の配線の容量との関係で新しいクーラーの設置は無理と言われ、何とか扇風機で暑さに耐えている。それでも30度くらいまでは耐えられるが、それを超えるとクーラーのある部屋に退避せざるを得ない。

 昨日(7月6日)は、午前10時過ぎに自転車に乗り、20分かけて敬愛大学の研究室(客員3人の共同部屋)に来た。3号館の7階に研究室が並んでいて、土曜日は誰もいなくて、部屋でクーラーをつけると、25度に集中管理され、寒いくらいである。そこには最新のPCもあり、快適に過ごすことができる。研究室ということで、多少緊張感もあり、本もよく読める。ここが使えるのも今年限りなので、この夏は、避暑を兼ねて、研究室で多くの時間を過ごそうかと考えている。でも、1日誰にも会わず、誰とも話さず過ごすのは、退屈であることは確か。