梅の季節 ―昭和の森公園に行く

季節の花を楽しむというのが、歳を持ってからの恒例行事になっている。昨年は、2月23日に土気の「昭和の森公園」(車で30分)に行き、満開の梅を見ている。今年も今梅が満開だろうと、今日(2月25日)、同じところに出かけた。

今年は寒さが続いたのか、まだ咲いていない梅の木も多く、少しがっかり。「昭和の森公園」は、今の季節は梅以外ほとんど花もなく、菜の花もまだ先のよう(1分咲き,下記4862)。遠くに九十九里の海が見えた(4865)。これから、まだ梅、菜の花、ストック、チューリップ、桜と、いろいろ花をいろいろな所に見に行くのが楽しみ。帰りに寄った家の近くのホームセンターでは、春の花がたくさんあり(4887),いろいろ買い庭に植えたくなり困った。

内田樹 「病と癒しの物語-『鬼滅の刃』の構造分析」を読む

内田樹がブログで「『鬼滅の刃』の構造分析」を書いている。興味深い論だと思った。視点(論点)は2つあると読んだ。一つは、パンデミックの寓話(「ウイルス根絶のために戦う若き感染症専門医の成長と勝利の物語」として読めるということ。2つ目は、人や鬼をイノセントと穢れのデジタルな二項対立としてはとらえず、その両方を合わせ持つ存在と描く透徹した見識。その考察の一部を抜粋する。

<『鬼滅の刃』ストーリーを要約する。大正時代に、人食い鬼たちが出没していた。鬼に噛まれると人間は鬼になる。全部食われると消滅するが、ちょっと噛まれただけだと鬼になる。これが感染症のメタファーであることはすぐわかる。死ねばそれ以上感染はさせないが、感染したまま蘇生するとスプレッダーになる。主人公は山中に住まう炭焼きの少年竈門炭治郎。彼の留守中、一家は鬼に襲われ、妹の禰豆子を残して一家は虐殺される。生き残った妹は「感染」しているので、わずかに人間の心を残しながら、なかば鬼化している。妹をもとの人間に戻し、家族の仇をうつために炭治郎は鬼狩りを主務とする「鬼殺隊」に身を投じ、過酷な訓練に耐えて、一人前の剣士となる。そして、人間の心を取り戻し(身体能力は鬼のままの)妹や仲間の剣士たちと手を携えて、異形の鬼たちと死闘を繰り広げるという話である。/悪性の感染症に罹患した妹を治癒するために、ワクチンや特効薬を開発する科学者たちと協力して、「ウイルス根絶」のために戦う若き感染症専門医の成長と勝利の物語・・・『鬼滅の刃』はパンデミックの寓話として読むことができる。/ウイルスは厳密な意味での生物ではなく、他の生物の細胞を利用して自己を複製させる構造体に過ぎない。だから生物学的な意味では死なない。これらの特性は『鬼滅の刃』における鬼の属性とすべて一致する。/鬼と戦う剣士=医療者たちは脆い。彼らは次々と傷つき、死んでゆく。彼らには鬼のように手足を切られてもまた生えてくるというような細胞再生能力はない。/『鬼滅の刃』の説話構造は「鬼殺隊=医療者、鬼=ウィルス」という図式でまとめると話は簡単。/ 鬼滅の刃』にはある「構造」が繰り返し反復される。それは「ハイブリッド」あるいは「どっちつかず」ということである。/ 舞台は「大正」という設定である。前近代と近代の入り混じった「汽水域」のような時代だったということである。/ 剣士と鬼の間もそうだ。ここにも「混淆」が際立つ。一方にイノセントな「善玉」がいて、他方に邪悪な「悪玉」がいるというようなデジタルな区分線が実はない。物語の中心にいて、炭治郎と仲間たちが全力を挙げて守ろうとする禰豆子は「半分鬼」である。「騎士」が「無垢のお姫さま」の純潔を守るというのは騎士物語の定型だが、『鬼滅の刃』で剣士たちが全力で守る「お姫さま」はすでに穢れた血を持つ病者なのである。クライマックスでは、最後までイノセンスと純粋性の権化として鬼狩りの主力であった炭次郎自身が彼の倒したラスボス鬼舞辻無惨の呪いによって鬼化して、鬼の世界と人間の世界の「綱引き」によってかろうじて人間の世界に戻ってくる。/全員が何らかのトラウマ的経験とそれから派生する深い屈託を抱えている。/『鬼滅の刃』は病と癒しをめぐる物語である.このマンガの卓越した点は「健常」と「疾病」をデジタルな二項対立としてはとらえず、その「あわい」こそが人間の生きる場であるという透徹した見識にあったと私は思う。一人一人が何らかの欠損や過剰を抱えており、それぞれの仕方で傷つき、それぞれの「スティグマ」を刻印されている。『鬼滅の刃』の手柄はその事実をありのままに受け入れ、病者たちに寄り添い、時には癒し、時には「成仏」させる炭治郎という豊かな包容力を持つ主人公の造形に成功したことにあるのだと私は思う。( 内田樹「病と癒しの物語-『鬼滅の刃』の構造分析   http://blog.tatsuru.com/2022-02-23 )

第 39 回 学校社会学研究会プログラム

毎年1回開催されている「学校社会学研究会」の39回大会がWEB(ズーム)で、下記のように開催される。送られてきたプログラムを掲載する。希望者はだれでも視聴できるようなので、参加希望の方は、幹事の名古屋大学の児玉英明さん(hideakikoda@gmail.com)に、メールで申し込んでほしい(参加費は多分無料)

日時 2022 年 3 月 27 日(日) 10時~17時45分

10:00~11:00 丁名揚(筑波大学)「中国における労働者階級の子弟が高学歴取得のメカニズム-『努力』に着目して」司会者:濱嶋幸司(函館大谷短期大学)

11:10~12:10 山口季音(至誠館大学)「児童相談所の虐待相談記録から見える保護者の社会環境」 司会者:冨江英俊(関西学院大学)

13:10~14:10 廣井まりこ(中学校教員)「英語学習系アプリケーションの利用実践から感じたこと」 ディスカッサント:佐藤学(東京大学)司会者:野崎與志子(学習院大学)

14:20~15:20 白石義郎(久留米大学)「成長物語における『成熟』の語り」司会者:児玉英明(名古屋大学)

15:30~16:30 馬居政幸(静岡大学)・武内清(敬愛大学)「新型コロナ時代の大学における遠隔教育の実践報告」 司会者:坪井龍太(大正大学)

16:40~17:25 意見交換会「遠隔授業の課題」

17:25~17:45 「来年度『第 40 回 学校社会学研究会』について

大学教員の常勤と非常勤の違いについて

2月20日の朝日新聞朝刊の社説に大学教員の常勤と非常勤に関して、下記のような記載があった。

<中教審では別途、社会のニーズ(オンライン授業等の増加―引用者)にあわせて新しい学部や学科を開設しやすくするため、教員配置の基準も緩める方向で検討が進んでいる。この見直しをめぐっても、教育レベルの低下を招く懸念がある。たとえば、人件費を減らすため専任の教員を減らし、かわりに多くの大学を掛け持ちする非常勤講師に授業を担わせる。そんな経営の合理化策に悪用されるようなことがあれば、本末転倒も甚だしい。>(2月20日 社説 「オンライン授業 教育の質下げぬ工夫を」)

それで2つのことが気になった。一つは、日本の大学の授業は非常勤の教員が担当する率が高く、それで安い費用で大学が運営されていること。昔ある大学で、開講科目の半数を常勤、半数を非常勤が担当し、それに支払う給与が10倍以上違う(非常勤の方が少ない)と聞いたことがある。常勤教員は授業だけをやっているわけではないが、それにしても大学の中核の授業の担当者に支払われる賃金の差が10倍とは大き過ぎる)。

この朝日の社説で気になるのは、(大学が教員の授業の対価として支払う金額が常勤と非常勤で違うことは確かであるにしろ)授業の質が、常勤教員の方が高く、非常勤教員の方が低いという前提で書かれているように感じたこと。

私の経験では、それは言えないし、かえって逆の場合が多いのではないかという気がする。一般に大学の授業への学生の満足度(授業の質と少し違うが)は、若い非常勤講師の方が、歳取った専任教員より高い。また、非常勤で教えるということは、身内ではない外で教えるということであり、外では身内にありがちな手抜きができず、準備をよくして一生懸命に教えるのが普通だと思う。低い給料で熱心に授業する多くの非常勤講師のお陰で、日本の大学教育の質は保たれているような気がする。

大学の遠隔教育について

大学の遠隔教育に関して、2月18日付けの天声人語の内容は、少し違うのではないかと感じた。大学の遠隔教育は、これまでの教室での代返や「ピ―逃げ」に相当するビデオの同時視聴をする学生がいることと、それを摘発して「不可」を付ける大学の対応が紹介されている。そして、学生に同時視聴で余った時間の有効利用を奨励するような内容に読めた(下記に一部転載)。

授業のビデオ配信の内容を視聴しなくても理解できてしまう(単位が修得できてしまう)授業の質が問題であり(これは私の考え)、大学の授業より自主的な学びや遊びこそ大学教育の中核(これは天声人語の考え)という一時代前の大学観を感じる。

 <我が国の大学で盛んだった文化に「代返」がある。/いまはICチップを内蔵した学生証を機械で読み取る大学もある。それを破るのが「ピ逃げ」で、学生証をかざしてピッと鳴ったらすぐに教室を出るという。コロナ禍で増えるオンライン授業に対しては「同時再生」というやり方があるらしい/早稲田大学の学生がパソコンで複数の授業の画面を開き、一度に再生していたことが問題になった/大学は「不可」を与えることを決めたと報じられる/代返もピ逃げも、同時再生も、自分の時間を惜しむ行為だ。では、あいた時間で何をするのか。それが問われるのが、大学生というものである。>(天声人語)代返、ピ逃げ……2022年2月18日より一部転載)