今の大学生の一日

今の大学生はどのような一日を送っているのであろうか。
T大学子ども学部の学生に、1980年代の「武蔵太郎君の一日」と、1990 年代の「上智HANAKOさんの一日」の例(写真参照)を示して、「T大学○○さんの一日」という文章を書いてもらった。(回答者80名。主に2年生)

それを読むと、今の学生の一日のスケジュールが極めてタイト、つまり多忙なことがわかる。起床時間が早く就寝時間が遅く、睡眠時間は極めて短い。

起床時間は5時台が7人(9%)、6時台40人(50%)、7時台28人(35%)、8時台5人(6%)と、会社勤め並み。

就寝時間は、11時前2人(2%)、11時台11人(13%)、12時台24人(30%)、1時台20人(25%)、2時以降14人(18%)、不明9名(12%)と、12時以降が 73% と遅い。

平日にアルバイトしている学生も多い(80人中36人、45 %)。

これでは、授業中に眠くなるのは無理もないと思った。
今の大学生は、昔の学生のように、大学時代は人生の息抜きのモラトリアムの時期でゆったり過ごすというよりは、猛烈サラリーマン(&ウーマン)の予備軍のように、ハードなスケジュールをこなしている。
これも、若さゆえに出来ることなのであろうが、少しかわいそうな気がする。

強いリーダー

「筑波大学 大学研究センター」で、大学職員向けの「大学マネジメントセミナー」の第2回が(5月24日)も、放送大学の自主ゼミが終わって後だったので、聞かせてもらった。
 その日の講師は、慶応義塾大学病院予防医療センター開設準備室事務長の岩田光晴氏。同氏は慶応大学法学部卒業、筑波大学大学院卒、リクルート、広島大学、そして慶応大学と大学のマネイジメントの分野で仕事をしてきた人。

 印象に残ったのは、慶応義塾が創立150周年記念行事の一貫として、ディズニーシ―を借り切り、塾生を中心に卒業生とその家族2万1千人を集め、そのイベントを成功させたこと。
 その企画が事務局から出された時、理事会では8割の理事が反対したという。代案が出なかったことから塾長預かりとなり、塾長の判断で実施が決定され、そのイベントが実行され、大成功をおさめたとのこと。
http://keio150.jp/events/2008/20080423.html

そこから、次のような話があった。
「大学改革の案に反対することはたやすい。しかし代替案を出すことは難しいし、それが出されることは稀である」
「皆が賛成する案は、改革案ではない。改革案は皆が反対する中で、リーダーが決断するものである」

大学改革(ここの場合は、慶応の150周年の記念イベントを、ディズニー シ―で挙行するというこれまでにない案)は、必ずしも民主的手続きで決定されるのではなく、強いリーダーシップのもとで決断され、成功する場合があり得るとのことこと。
もちろん、多くのことは、民主的な手続きで、皆が賛成する施策が実行されるのが普通であろうが、危機的状況や大きなイベントの時は、皆の反対をも押し切る強いリーダーが求められるのであろう。
それにしても、「皆が賛成する案は、改革案ではない。改革案は皆が反対する中で、リーダーが決断するものである」という言い方は、多数決の民主主義を最上のものと考えてきた大学教員
(私)には、ショックであった。

隠れマジ

「隠れマジ」という、真面目であることを隠す規範(文化)が、かって、学生文化の中にあったという話をK大学の学生に話したら、次のようなコメントが返ってきた。

「今の学校では、あまりそのような考えを持っている生徒はいない。むしろ、休み時間に勉強しているのが普通になった」
「大学の授業で『ある程度出席してレポートを出せば、単位をあげる』と言われた授業で、『私は毎回出席した』と友だちに言ったら、『それはおかしいでしょう』と言われた。彼女たちからしたら、最低限の出席をしてレポートを出せば単位がもらえるからそれでOK,となる。真面目は悪いことでないはずなのに、軽蔑されてしまうのは寂しいと思った。」

今の学生にも「隠れマジ」的な要素は残っているとも言えるし、また、以前より真面目化している、あるいは「生徒化」しているとも言える。

間違い

私が家で留守番していたところ、近所の水道屋さんが、「奥さんにお風呂場の蛇口がおかしいので見てほしいと言われ、来ました」と玄関に立っていた。確かに、2~3日前から風呂場のホースの横から水が漏れ、風呂の栓についているチェーンも切れていて修理をしなければと思っていたが、妻にしては素早い対応だと感心しながら、お風呂場の壊れている部分を直してもらった(修理代 6000円)。
妻が夕方帰宅したので、「水道屋さんが来て、お風呂場を直していったよ」と伝えたら、びっくりして、「私は水道屋さんに電話していない。第1、電話番号を知らない」と言う。どうして、電話もしないのに、うちのお風呂が不具合であることを知ったのだろう、と不思議に思った。きっと、別の家の風呂が壊れ、水道屋に電話したのが、その水道屋が間違えてうちに来てしまったのだろう、ということで謎は解けた。
今頃、「お風呂の修理を頼んだのにぜんぜん来てくれないのはどうして」「え!修理には行きましたよ」という奇妙な会話がどこかで交わされていることであろう。でも、うちでは、その水道屋さんの電話番号も知らないので、それを止めることは出来ない。

昔、家庭講師先の高校生が、間違い電話で「中華そば3つ、出前お願いします」というものがあり、それに対して、「はい、わかりました」と、注文受けたということを聞いたことがある(とっさに、そのような対応が出来るのはすごいと感心した)。中華そばを注文した人が、待てど暮らせど、中華そばが届かず、怒り狂っている姿が目に浮かぶが、それと同じようなことを、自分もしたのであろうかと、心が少し咎める。

知らない単語―「ディアスポラ 」と「アフォーダンス」

時々、知らない単語が、当たり前のように出て来て、議論が進んで行くことがある。周りの人が知っていて、自分だけ無知らしい場合もあり、無知を恥じざるを得ない場合がある。若い人と話していて、私が知らないことは、世代ギャップと片付けられるのでいいが、そうでない場合もある。
最近遭遇したのは、「ディアスポラ 」と「アフォーダンス」いう単語。

「ディアスポラ 」は、映画『エレニの旅』を解説する本(「映画で入門 カルチュラル・スタディーズ」大修館書店(2006) )に、出てきた言葉で、私ははじめて聞く単語であった。あわてて、ネットで調べる。Wikipedia に次のように載っている。

ディアスポラ(διασπορά、英:Diaspora, diaspora)とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。歴史的な由来から、英単語としては、民族等を指定せず大文字から単に Diaspora と書く場合は特にパレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団のことを指し、小文字から diaspora と書く場合は他の国民や民族を含めた一般の離散定住集団を意味する[1]。よく知られる例ではギリシャ人、フェニキア人、アルメニア人、華人などの本国外に居住する該当集団をディアスポラと呼ぶことがある。また、近代奴隷制によって新大陸に連れてこられたアフリカ人の子孫に用いられることもある。最近では、混乱によって国外に亡命したツチ族ルワンダ人や、ソマリアを逃れたソマリ人集団など.

もう一つは、「アフォーダンス」。これは、「小学生たちが下校時に遊びのアフォーダンスを見出し」と青井倫子「幼児の遊びと仲間」住田正樹編『子どもと地域社会』(学文社、53ページ)にあるものである。学生に質問され、すぐにはわからなかった。これもネットで調べる。

アフォーダンスaffordance
我々は、環境を捉えるときに、行動を促進させたり、制限させたりするような特徴を読みとっている。 ギブソンという認知心理学者は、環境のこのような性質をアフォーダンスと呼んだ。彼は、「環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。」と述べている。ギブソンの挙げた例で説明しよう。 「陸地の表面がほぼ水平であり、平坦で、十分な拡がりを持っていて、その材質が固いと判断されたならば、その表面は、我々の体を支えることをアフォードする。」 我々は、確かにそういう場所を選んで歩いている。行動するときには、無意識であるにしろ、環境がどのような行動に向いているのかという情報を環境の中から得ているのである。アフォーダンスは、何も場所や空間だけに備わっている性質ではない。ステレオは音楽を聴くことをアフォードするし、本は読むことや枕にすることをアフォードする。 (槙 究http://www.jissen.ac.jp/kankyo/lab-maki2/maki/scripts/script01.html)