遊び志向の友人グループ

昔読んだ文献で、アメリカの高校には、「遊び文化」(Fun Subculture)が蔓延し、「遊び文化」の強い高校ほど、IQの高い生徒が、遊びに走り、いい成績をとる率が低いという統計が掲載されていた。
最近、教えているいくつかの大学で、次のような話を学生から聞いた。

自分が仲良くしているグループは、遊び志向の強いグループで、いつも後ろの方の席に陣取り、おしゃべりしながら授業を聞いている。授業中も先生の話を聞くより自分たちのグループでは話している方が多い。先生もあまり注意しないし、楽しいし、そのような状態が続いてきた。
ところが最近になって、こんな状態で行くと、勉強を全くしないで、単位を落とさないまでも、いい成績は取れないし、その科目に結びついている資格が取れなくなるかもしれないと思い始めた。
その仲のよいグループの一員ではいたいけれど、授業の時は、自分だけ前の方の席に行き、授業をきちんと聞くか、グループのメンバーに「授業だけはきちんと聞こうよ。このままで行くとやばいよ」と言いたいと思う。でも、そんなことをしたら、グループのメンバーから何を言われるかわからないし、グループから追い出されるかもしれない。とても悩んでいる、という。
このような悩みは、男子学生より女子学生に多い。女子学生の友人関係は難しいし、そう簡単にアドバイスできない。
「最終的には集団より個だ」、というようなことを、サッカーの本田選手が言っていたようだが、大学生は、もう子どもではないのだから、いつまでも集団でごちゃごちゃしていないで、個として自立しなさい、と本当は言いたい。

ユリの花 

実家(市原市ちはら台)の近所では、ユリも咲き始めた。ここは郊外ということもあって、各家が植木や草花に工夫を凝らしている家が多い。東京のような洗練さはないが、千葉らしい素朴さがある。
 
昨日、民放のテレビを見ていあたら、森田・千葉県知事が出ていた。知事の県自慢に対して、「千葉は田舎ということですね」という出演者のコメントが相次いだ。
なぜ、千葉浦安にあるディズニーランドを、「東京ディズニーランド」といい、「千葉ディズニーランド」と言わないのか、という出演者の突っ込みに対して、知事自ら、「千葉ディズニーランドでは、人が集まらないんだよ」と答え、千葉県民の自意識(ホンネ)の一端を示していた。

紫陽花

もう梅雨入りして、紫陽花(あじさい)の季節。
庭のあじさいを切り、花瓶に挿す。
どこか、野のあじさいの群生を見に行きたい。

同期

高校の同級生のH氏に近況を伝えたら、「まだ現役で働いているのか?」と驚かれた。私は特任や非常勤なので、100%現役とは言えないのだが、授業を受講してくれる学生にとっては、常勤も特任も非常勤も関係ないので、力一杯やらなくてはならない。

それにしても、同世代の藤原新也は、元気で活動的だ。会員制のウエブ マガジン「CAT WALK」はじめ、出版活動や講演を活発に行っている。
最近のトークも冴えている(一部転載)(http://www.fujiwarashinya.com/talk/)

<さらに私が子供心に震え上がったのは、ある朝鮮の家庭で夕餉の団らん時、とつぜんやくざが土足で上がり込んで行って、まえもって目星をつけておいた若い女性をさらって行ったという彼の話である。ひとさらい、という言葉そのものは当時の日本でもあったが、実際にMの口からそのような話が飛び出すと、私も自分がひとさらいにさらわれるのではないかと、夜寝るときは気が気でなく、母親の布団の方ににじり寄ったものだ。
そういったひどい目にあった女性達が、従軍慰安婦として働かされたかどうかという点については私の記憶の中では彼の口からそういう話は出ていない。いやというよりそもそも従軍慰安婦という言葉を当時の一般の人々が使っていたのかどうかは調べる必要があるだろう。
 しかしここで銘記しておくべきことは、かりに日本人やくざらの手によって強制的に売春宿で働かされ、その女性たちの何人かが選ばれて従軍させられたとするなら、誰の手にかかろうと結果的にはそれは強制収容された従軍慰安婦と見なすべきということである。
それが国策としてやったことかどうかということに力点が置かれているが、かりにやくざが騙すなり、拉致するなりし、その女性達が巡り巡って従軍慰安婦として働かせられていたとするなら、それは軍(国家)が容認をしていたわけだから、国策かどうかというような論議をすること自体に意味がない。というよりいずこの国に、買春行為を国策として明文化する馬鹿がいるかということである。
明文化しなかったからそれは国策ではなかった、という言い方があるとするならそれはメニューにない料理を提供するレストランでは、そのような料理は存在しないというに等しい。>