何かを語るのは、何かを隠す為?

「何かを語るのは、何かを隠す為」という自覚は少しある。
しかし、「やはり、自分のことを語ると、自分の弱点を隠すというよりは、それを晒してしまうことの方が多いかもしれない」と、ブログに関して、人の感想を聞きながら思った。
敵やライバルの弱点を知れば、その人を攻撃したり追い抜いたりするのには役立つかもしれない。しかし、敵やライバルでもなく、さらに他人で、あまり関わりを持ちたくない人の弱点など知りたくもない、と考えるのが人情であろう。

ただ、漫才の面白さは、漫才師らが「いかに自分達はバカか」を、ボケとツッコミという二人の掛け合いで示し、聴衆の優越感をそそることにあると、どこかで読んだことがある。それは関東にはない、関西の文化である。
関西の血が流れている私(父が兵庫出身)には、漫才師の才能はなくても、漫才師の心意気(サービス精神と言ってもよい)が少しあるかもしれないと思うことがある。(しかし、前にも書いたが)、関東でボケてバカを演じると、本当にバカと思われてしまう(ツッコンでくれない)という怖さもある。ツッコミのないボケほど白けるものはない。

学校社会学研究会 無事終わる

毎年夏に宿泊を伴い開催されている「学校社会学研究会」(今年は31年目の31回大会)を、千葉幕張の放送大学セミナーハウスで、放送大学の岡崎氏と私の幹事で開催し、盛会のうちに幕を閉じた。参加者は43名と記録を更新。

2日間で10件の報告があり、それぞれに対して有意義な質疑が、行われた。そのやり取りは、大規模な学会とは違い、和やかなものであり、多くの学びがあり、また研究の励みになるものであった。

私はその前の2日間は、放送大学の修士論文の指導の会にも参加してので、合わせて3泊4日の長丁場であり、体力の限界に挑んだ。

連日夜の親睦会もあり、放送大学の近辺にも美味しい店が何件もあることを発見し、栄養と鋭気を補給しながらの楽しい会であった。
(1日目の夕食は近辺で一番美味しいと言われる中華料理、2日目はお弁当(東北の缶詰付き)、3日目は別の豪華な中華料理(飲み放題付き)、昼食は、2日目お蕎麦屋、3日目放送大学食堂、4日目イタリアンレストランとバライエティに富んでいる。その他、朝食のサンドイッチやモスバーガも美味しかった)

キャバリャ

同じ犬種の犬の顔やその表情は、どうしてこのように似ているのだろう。http://knight.lolipop.jp/29cavaoff/29cavaoff.html
また、その似たところが、かわいく感じるから不思議だ。

犬の散歩をしていて、同じ犬種のキャバリャを連れて散歩している人見ると、親近感を感じて、見知らぬ人でも、つい声をかけたくなる。
キャバリャはあまり人気のある犬種ではないが、少し「ブシャン」で愛嬌があり、おとなしいので飼いやすい。(近くのダイエーのペットショップでは、生後間もないキャバリャの子犬が5万円で売られていた。まだ、大きくなった100円の雑種の子犬(こちらはキャバリャではない)も売れ残っていた)
http://www.pet-coo.com/cgi-bin/index.cgi

昨日は、我が家と隣の家の、2匹のキャバリアのシャンプー。風呂場で、犬用のシャンプーで洗い、ドライヤーをかけるだけなのだが、なかなかその時間が取れず、1か月ぶり。

若い人のパワー

これまで何度か紹介してきたが、若い人だけの職場で、その若い人が、これ仕事なの?遊びなの?と、区別がわからないくらい楽しんでいる様子が伝わってくるサイト(ブログ)がある。
「ひまわり」というリゾートの不動産屋の御宿店のブログである。(http://www.himawari.com/blog/blog/13)
社員は男性2人、女性3人で、平均年齢は20台のような気がする。皆仲がよく、OFFの日も一緒に過ごしたりしている。
ブログの内容は、海、景色、釣り、魚、食べ物、サーフン、植物のことが多いが、5人が交代で書き毎日更新され、とてもいい写真が掲載されているので、つい覗いてしまう。
夏の今の季節は、外房の御宿及びその周辺のきれいな海と美味しい食事が満載で、見ているだけで、海に行った気分になれる。若い人のパワーから、力がもらえる。

人から受けた傷は、きっちりと返したい?

キリスト教には、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という教えがある。
『レ・ミゼラブル』でも、銀の食器を盗まれた牧師は、盗んだジャンバルジャンにさらに銀の燭台を差し出し、それで改心したジャンバルジャンは、自分の不利も顧みず、宿敵の警視の命を助ける、というキリスト教的な感動的な場面がある。
でも、人間はなかなかこの境地に至らないのではないか。
今は亡くなられてしまったが、私が助手の頃、東大に非常勤に来ていたICUの先生が、敬虔なクリスチャンで、「自分を傷つけるような人を悪くは思わない、気の毒な人と思う」と言われ、そのような高邁な考えがあるのかと驚いたことがある。
一般に人は「自分から人を傷つけようとは思わない」(実際は知らずに人を傷つけていることはかなりあると思うが)にしても、傷つけられたことを恨みに思い、「受けた傷は、きっちりと返したい」と思うのではないか。「今は力がなく、仕返しは出来ないかもしれないが、覚えておいて、将来同じ程度の傷を負わせたい」と思うのが、一般的ではないのか。
しかし、このような心情も、時間と共に、忘れ去られことも多い。人から傷つけられ、「いつか力をつけて仕返しをするぞ」、と堅く心に誓っても、長い年月が経つうちその恨みは忘れ、さらにその人に親しみすら感じている自分を発見することがよくある。